国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の年間死者数は「戦後最多」を更新し続けており、2040年前後に約168万人のピークを迎えるという。
「超高齢化社会」の次にやってくる「多死社会」を、私たちはどのようにとらえればよいのだろうか?
人生の最後を支えるプロフェッショナルたちと一緒に、その答えを探って行こう。
- 今回のtayoriniなる人
- 石飛幸三(いしとび・こうぞう) 世田谷区立特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医1935年、広島県生まれ。慶應義塾大学医学部を卒業後、同大学外科学教室に入局。ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院で血管外科医として勤務。2005年12月より芦花ホーム常勤医となる。2010年2月に上梓した『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)がベストセラーになり、人として穏やかな最期の迎え方を発信し続けている。
1950年代まで、日本人の8割が自宅で死をむかえていたが、現代ではそれが逆転して、8割が病院で死ぬ時代になった。
人生には、必ず終わりが来る。あなたはそのとき、どのような死に方をしたいだろうか?
病院か? 自宅か? それとも介護施設か?
ベストセラー『「平穏死」のすすめ』(講談社)の著書で、世田谷区の特別養護老人ホーム・芦花ホームの常勤医の石飛幸三医師は、200人を超える人たちを施設で看取ってきた人である。
そんな石飛先生と一緒にそんな問題について、考えていこう。
実は、90歳前後の人の食べるべき量の認識は誤り!?
──2005年に石飛先生が芦花ホームの配置医に就任した当時、入所者の誤嚥性肺炎がひっきりなしに起き、救急車のサイレンが鳴りやまなかったそうですね。なぜ、そのようになってしまったのでしょう?
石飛原因を端的に言えば、「食べる量」についての認識が間違っていたのです。
人間が生きていくのに必要な栄養と水分は、体重と年齢に応じて計算されます。当然のことながら、働き盛りの人は多く、子どもや高齢者は少なくていいという計算になります。
では、90歳前後の超高齢者についてはどうか? 老いによって体の動きが極端に減っているわけだから、必要な水分やカロリーはもっと少なくていいということになる。ところが、どこまで少なくすればいいのかは、正確にはわかっていないのです。
私が芦花ホームにやってきた2005年当時、ホームでは1日平均1500キロカロリーの栄養と、1400ミリリットルの水分が入居者に与えられていました。
芦花ホームの入所者の約3割には、嚥下障害がありました。口から食べるのがむずかしくなった状態です。こういう方の食事介助をするとき、介護スタッフはノドの奥に食べ物が残っていないか、そろそろ次の一口を入れてもよいか、慎重に時間をかけて行わねばなりません。
しかし、現場は人手が足りず、ゆっくり時間をかける暇はありません。隣では、別の入所者がトイレに行きたいと言い出したりすることもある。その結果、まだ前の食べ物が口の中にあるのに次の食べ物を入れてしまったりして、誤嚥性肺炎が起こるのです。
もちろん、介護スタッフには「キチンと食べさせてあげないといけない」という意識があります。食べさせられないのは自分たちの技術が劣っているからという自責の念があるから、自分の判断で食べる量を減らそうとはしません。食べる量が少ないと、家族からクレームが来ることもよくあります。
「肺炎→胃ろう→また肺炎」の悪循環
石飛救急車で病院に行けば、抗生剤や強心剤を使って肺炎は治ります。ところが、嚥下障害そのものは治りませんから、口からものを食べさせようとすると、また誤嚥します。そこで病院は、点滴を続けていつまでも入院させておくわけにはいきませんから、胃ろうを薦めます。
──口からものを食べることを強制的にあきらめさせてしまうわけですね?
石飛その通り。特に、認知症の人は「そんなことをして欲しくない」とは言えません。
経管栄養には、胃ろうの他に中心静脈栄養と経鼻胃管があります。
中心静脈栄養とは、鎖骨の下や頸にある太い静脈からカテーテルを入れて、そこから高カロリーの栄養液を投与する延命治療法です。しかし、体の奥の大静脈にまで管を通すため、感染症を起こしやすく、ひどい場合は敗血症になるリスクがあります。
経鼻胃管は、鼻から入れた管を通じて胃に栄養を入れる方法です。中心静脈栄養のような危険なリスクは少ないけれど、不快感があって、認知症の人が勝手にチューブを抜いてしまうということがよく起こります。
そんな中、1990年代後半になって内視鏡の技術が進歩し、PEG(経皮内視鏡的胃ろう造設術)が開発されました。内視鏡を使って胃の中を照らし、お腹に小さな穴を開けてプラスチックのキットをはめ込むだけで、簡単に胃ろうを造設することができるようになったのです。時間は30分もかかりません。そこで、2000年に入ってから急速に普及しました。
──先生は、安易に胃ろうにすることを著書や講演を通じて批判されていますが、それはなぜですか?
石飛経管栄養になって口からものを食べることがなくなった人は、口の中、顎、食道などの筋肉が衰えてしまいます。五感への刺激がなくなるため、脳の機能が衰えて認知症のリスクが高まります。
それから、胃ろうにすれば口からノドを食べ物が通っらないので肺炎がなくなると思う人もいるかもしれませんが、そうでもないのです。栄養剤を直接胃に入れても、体がそれを受けつけないと逆流が起こり、それが肺炎を引き起こすんです。
実際、私が芦花ホームに赴任したばかりのころ、数人の胃ろうの方たちが誤嚥性肺炎を繰り返して、病院とホームの間を行ったり来たりしていたことが記録されていました。当時の芦花ホームは、まさに「肺炎製造工場」とも言える悪循環に陥っていたのです。
入所者の家族との出会いから気づきが生まれた
──そんな状況の中で、ホームで静かに最期を看取る「平穏死」を提唱されるまでには数々の試行錯誤があったでしょうね?
石飛何人もの人たちとの出会いが、少しずつ私に気づきを与えてくれました。
そのひとりは、入所者の家族の方で、8歳年上の姉さん女房を持つ旦那さんでした。認知症になった奥さんを8年間、自宅で介護した後、手に負えなくなってホームに奥さんを預けることにしたのです。
ホームでは定期的に家族会を開いているんですが、その旦那さんはスタッフたちから影で“クレーマー”と呼ばれるほど厳しい意見を言う人でした。
「前に言ったことが改善されてないじゃないか。真面目にやれ!」
と鋭く批判をするのです。かつて労働組合の委員長をしていたそうで、弁の立つ方でもありました。
その奥さんが、入所して6年目に誤嚥性肺炎を起こして入院したんです。
病院では当然のごとく、胃ろうにすることを薦めたわけですが、その旦那さんは断固としてそれを拒否しました。「胃ろうをつけてまで生かすことは、世話になった女房の恩に仇をかえすようなものだ」と言って、そのままホームに帰そうとしたわけです。
ところが、ホームのほうでも、胃ろうでなければ栄養をとることができない奥さんを受け入れるわけにはいかないと、侃々諤々の議論になりました。
実は真実を伝えていた“クレーマー”の言葉
──自分の仕事に責任感を持っているスタッフだからこそ、胃ろうのない嚥下障害の奥さんの食事介助をすることに戸惑ったのでしょうね。
石飛その通りです。最終的には私が責任をとるという形で胃ろうをせずに奥さんを退院させることにしたんですが、ホームに帰ってきた日のことは、今でも忘れられません。
どう接していいかわからず、怖々とした表情のスタッフが見守る中、そのクレーマーの旦那さんは奥さんを椅子に座らせ、頬を何度も撫でたあと、歯のない奥さんの口の中を指でマッサージし始めたんです。
すると、チュッ、チュッと奥さんが指を吸う音が聞こえてきました。吸啜(きゅうてつ)反射といって、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸う原始的な反射はまだ残っていたんですね。
次にその旦那さんは、スタッフが用意したお茶のゼリーをスプーンですくって、奥さんの口の中に入れました。すると、喉仏が動いて「ゴックン」という音とともにそれを飲み込んだのです。
その瞬間、スタッフの間で歓声があがりました。中には感激して、目に涙を浮かべている人もいました。
「女房は認知症で、もう誰のこともわからない。なのに胃ろうをつけて、そんな状態で頑張らせるのが愛情か? 自然にまかせて静かに逝くのを見送るのも愛情じゃないか。」
旦那さんのその言葉を聞いて、目を開かれる思いがしました。スタッフたちからクレームだと思われていた彼の言葉は、真実を突いていたのです。
人は「食べないから死ぬ」のではなく、「死ぬのだからもう食べない」のだ
石飛それからもうひとつ、入所者の家族の方との大事な出会いがありました。
石飛その人は、2000年に噴火した三宅島から避難して芦花ホームに入所した、85歳の認知症の母親を持つ息子さんです。
入所から5年がたったとき、お母さんが誤嚥され、病院に入院して肺炎の治療をしていたときのこと。病院から三宅島にいる息子さんに電話が入ったのです。
例によって、「お母さんはもう口から食べることはできません。胃ろうをつけましょう」という連絡でした。
「母はもう寿命です。胃ろうをつけないでください。」
息子さんがそう懇願したので、さすがに胃ろうはつけられませんでしたが、1週間後、ホームを訪ね、病院から退院してきたお母さんの姿を見て、息子さんは愕然とした表情になりました。
経鼻胃管で鼻から管を通され、強制的に生かされているその姿を。そして、私の目の前で、おいおいと声をあげて泣いたのです。
「島ではこんなことはしません。年寄りがものを食べなくなったら、仏間に布団を敷いて、ただ寝かせておきます。無理に食べさせようとせず、枕元に水だけ置いておきます。生きる力が残っていれば、自分で手を伸ばして水を飲みます。それでも、1カ月は生きます。」
息子さんのこの言葉にも、大いに目を開かされました。人は「食べないから死ぬ」のではなく、「死ぬのだからもう食べない」のです。経管栄養で無理やり食べさせても衰えは進んでいくし、誤嚥性肺炎を起こしたり、栄養過多による体のむくみで本人が苦しむだけ。「三宅島の教え」は、私にそのことを気づかせてくれたのです。
1日600キロカロリーのゼリー食でも1年半生きる
──「死ぬのだからもう食べない」という状態になった人は、その後、どのようになっていくのですか?
石飛最低限の水分と栄養しかとらないから、体は激しく動かせません。
次第に1日のうち、起きている時間よりも眠っている時間のほうが長くなります。そして、体重も減っていきます。
でも、そうなってからすぐに死がやってくるとは限りません。
芦花ホームで最初に看取りをしたのは、先に述べたクレーマーと呼ばれた旦那さんの8歳年上の奥さんでした。
旦那さんは、奥さんの食事介助のために毎日、朝早くからホームを訪ねてきましたが、奥さんがまだ寝ていれば、無理に起こすようなことはしませんでした。奥さんが自然に目を覚ますのを待って、「お腹がすいた」と言うまで辛抱強く待っていました。
食べさせるものと言えば、1日平均600キロカロリーのゼリー食。ときどきアイスクリームをひとなめしたり、好きな食べ物の匂いをかぐだけの日もありました。
そんな日々が、1年半も続いたのです。人がこんなに少ない栄養で、こんなに長く生きていけるということに、誰もが驚きました。
最後は600キロカロリーも受けつけなくなり、お腹がすいて目を覚ますこともなくなりました。つねに眠っている状態が2週間ほど続き、そのまま静かに息を引き取られました。
その自然な最期に触れて、私は感動しました。苦しみなどひとつもない、燃えつきた炎がすーっと消えていくような終わり方です。それが人間の自然な「平穏死」という死に方なのだと教えられました。
終末期の高齢者は1日が24時間ではなくなる
──芦花ホームではその後、200人を超える方の看取りを行っているそうですね。やはり皆、静かに亡くなられていくのですか?
石飛ああ、この人もそうか、この人もそうか、と実感させられています。
最近になって、「終末期の高齢者は1日が24時間ではなくなる」ということにも気づかされました。
どういうことかというと、1日中眠り続けていた人が、翌日には起きている時間が長くなる、あるいは最初の2日間は眠り続け、その後の2日間は起きている時間が割合長くなるという具合に独特なリズムが出てくるのです。
つまり、24時間睡眠の人は48時間で「1日」が流れていく。一方、48時間睡眠の人はその倍の96時間が「1日」なんです。これまでいちばん長い人では、3日間サイクルで眠ったり起きたりを繰り返していた人もいました。
まるで、空高く飛んでいたグライダーが陸に着陸するとき、角度をゆるくして地面に接していくようなものですね。降下のタイミングが、高度が下がっていくのに応じてゆるやかになっていくのです。
一度、この世に生まれたものは、死んでいくのが自然の摂理です。その摂理に逆らって、いつまでも生き続けることはできません。けれども、そこには苦しみなどひとつもなく、静かに穏やかに過ぎていきます。それこそまさに、私が考える「平穏死」です。
──ありがとうございます。
次回のインタビューでは、ベストセラー『「平穏死」のすすめ』(講談社)を出版することになったいきさつや、石飛先生ご自身の理想的な死に方について、お話をうかがっていきましょう。
https://kaigo.homes.co.jp/tayorini/thanatology/003/
石飛幸三医師に訊く、医療の2つの役割「治す医療、人生を支える医療」
- 公開日 | 2020/03/31
- 更新日 | 2021/11/02
国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の年間死者数は「戦後最多」を更新し続けており、2040年前後に約168万人のピークを迎えるという。
「超高齢化社会」の次にやってくる「多死社会」を、私たちはどのようにとらえればよいのだろうか?
人生の最後を支えるプロフェッショナルたちと一緒に、その答えを探って行こう。
- 今回のtayoriniなる人
- 石飛幸三(いしとび・こうぞう) 世田谷区立特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医1935年、広島県生まれ。慶應義塾大学医学部を卒業後、同大学外科学教室に入局。ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院で血管外科医として勤務。2005年12月より芦花ホーム常勤医となる。2010年2月に上梓した『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)がベストセラーになり、人として穏やかな最期の迎え方を発信し続けている。
『「平穏死」のすすめ』(講談社)の著書で、特別養護老人ホーム芦花ホームの常勤医をつとめる石飛幸三医師。
前編では先生が芦花ホームに赴任後、施設が「誤嚥性肺炎製造工場」と化す中、入所者の家族との出会いを経て「平穏死」の大切さに気づいた話をうかがった。
その様子を描いた著書はベストセラーになったが、後編では出版後の反響について話を聞くことにしよう。
ここで始まっていることは、全国に普遍化すべきです
ホワイトボードに「口から食べられなくなったらどうしますか」と書いて、親や夫、妻にどこまで医療を受けさせるべきかを考えてもらうことにしたのです。
私がホームの常勤医になって以降、救急車を呼ぶ回数は3分の1に減り、誤嚥性肺炎になる方も順調に減っていたので、次なるステップのつもりでした。
そんな取り組みを始めた矢先、新任の施設長が赴任してきました。
ところが、この新施設長、第一印象が最悪でね。体もデカければ態度もデカい。口数の少ないむっつりタイプで、私が苦手とする性格の人に見えました。
そんな施設長が赴任して2カ月後、私を呼び止めて話しかけてきたのです。
「先生、ここで始まっていることは、全国に普遍化すべきです」と。
実はこの新施設長、別の施設に預けていたお母さんが誤嚥性肺炎になり、胃ろうをするべきかどうか悩んでいたそうで、芦花ホームで行われていた家族会での様子を興味深く観察していたようなんです。私は見かけだけで彼の人柄を判断していたわけで、そのことを大いに反省させられましたよ。
施設長の第一の提案が、胃ろうについてのシンポジウムを開くこと。区民ホールを借りて、倫理学者や弁護士、新聞記者などを交えての意見交換を行うことになりました。
その壇上でのことです。私は調子に乗って、「ここで起きていることを本に書きます」と宣言していました。これが、『「平穏死」のすすめ』を書くことになったきっかけです。
最初は出版を断られた