2023年2月4日土曜日

安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き05(第2部)

安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き05(第2部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2023年2月4日 08:00

 今回は「新しい人権」についての話です。
 前回は「死の権利」が新しい人権として認められるかどうかが問われる、と書きはしましたが、実際に法的根拠をもって「死の権利」が新しい人権となれるかは、かなり困難な道と言わざるを得ません。


 日本国憲法が成立して以後、「新しい人権」として法的に認められた人権は、4つあるそうです。 内容は、こちらの行政書士さんのブログからです。

判例上、「新しい人権」として認められた権利にはどのようなモノがあるのでしょうか。それは、いままで、4つあります。
(肖像権)
容ぼう等をなんでもかんでも撮影されない権利
(名誉権)
人がなんでもかんでも名誉を害されない権利
(プライバシー権)
私生活をなんでもかんでも公開されない権利、自己情報をコントロールする権利
(自己決定権)
個人が一定の指摘事項について、公権力による干渉を受けずに自ら決定する権利
の4つです。

※読みやすいよう一部改変しています

 逆に言えば、「新しい人権」として認められたのはこれまで4つしかないのです(ちなみに、平成29年に衆議院に提出された資料:衆憲資第94号では、新しい人権として最高裁が真っ向から認めたのは、プライバシーの権利としての肖像権くらい、と記載がされています)。

 それだけ厳しいのは、この「新しい人権」として認められるのにいくつかの条件があるからですが、そのひとつ「一般的であること」が安楽死制度を進めていくには壁となるかもしれません。

特定の人にしか認められないようなものは、憲法上の権利とは認められないということになります。普遍性をもっていなければならないということになります。
たとえば、嫌煙権は、タバコを吸わない人にとっては大切な権利とはいえますが、タバコを吸う人には認める必要がありません。したがって、嫌煙権は、一般的な権利ではないので、まだ憲法上の人権としては認められないと言うことになります。

 この原則にのっとるなら、「死の権利は、普遍性をもっているか?」を具体的に議論していかなければなりません。

個人的信条ではなく根拠をもって議論する

 ちなみに、ちょっと本筋からずれてしまうのですが、こういった方向性こそが「個人的信条ではなく根拠をもって議論する」ことです。単に「死の権利は認められるか?」とテーマにしてしまうと「認められるべき(と私は考える)」「認められないはずだ(と私は考える)」の応酬となってしまい、何ら具体的で建設的議論にならず、時間の無駄です。
 それを「死の権利は、普遍性をもっているか?」まで落とし込み、さらにこのブログ内容にあるように「タバコを嫌う権利に普遍性は無い=新しい人権としては認められない」という前例まで示されることで、議論をする中でイメージがしやすくなります。もっとも、最終的には裁判所が判定することではありますので、一般の議論で白黒をつけても社会的に大きな意味は無いのですが、国民的議論を深めておくことは、それが普遍的人権として認められるかどうかのポイントとなりそうですし、またこのような議論の中から新たな視点も生まれてくる可能性も高いため、安楽死制度を前に進めるためには避けて通れないテーマかと思います。

死の権利には普遍性があるか?

 さて、では具体的に「死の権利は、普遍性をもっているか?」についてですが、先に述べたように「嫌煙権は、憲法上の人権とはいえない」という前例があるところから、それに普遍性があると主張することはかなり難しいのではないか、と感じてしまいます。
 タバコを嫌いな人もいれば、好きな人もいる。だから、嫌煙権をある特定の集団のためだけに法的に保護を与えるとするなら、逆の立場の側の人権が阻害されてしまう、という理屈なのでしょう(この辺りは僕自身が法律の専門家ではないため、詳しい方がいらっしゃればコメントください)。
 その理屈で行くなら、「死の権利」を人権として認めてしまえば、「死を求める人たち」にとっては利益になるでしょうが、「生を求める人たち」にとっては害となるリスクがある、ということになるのでしょう。実際、安楽死制度反対派が、その制度化に強く反対する理由で一番強く主張されるのは、この部分であったりします(ただ、安楽死制度反対派のこの点に関する主張は極めて感情的・個人的見解に近いものであることが多く、制度化をテーマにしている以上、人権・法的基盤に則った議論を展開してもらいたいものだとは思います)。

 しかし一方で、この理屈はよくよく考えるとおかしい、と指摘することも可能です。それは人生を個々で見たときに、ある時には「生を求める権利」を享受したとしても、同じ人間がまた別の時間では「死を求める権利」を主張することはあり得るからです。今現在、例えば2023年2月という時間軸で世界を切れば、確かにそこには「生を求める人」と「死を求める人」がいて、その求める権利は対立しているように見えるかもしれません。しかし、また別の時間軸で世界を切り取れば、さっきの時点で「生を求める人」は死を求め、「死を求める人」は生を求めているかもしれません。同じ人間の一生の中で、生を求める権利と死を求める権利が混在する可能性がある点から、「死の権利は普遍性を持っている」という主張は可能かもしれません。

 また、別の切り口で「死の権利」を主張するなら、それが仮に憲法が規定する新しい人権として認められないにしても、「幸福追求権」の結果としての個別の人権として認められる可能性はあることです。
 死を求める人の主張は、厳密には生を求める人の権利は阻害しないはずですし、そのように制度設計や文化形成をしていくことは不可能ではないはずです(文化をコントロールすることは難しいことではありますが)。それであれば、安楽死制度を運用していくことは、憲法13条が保証する「自由及び幸福追求に対する国民の権利」の表現であり、それは「公共の福祉に反する」ことも無く、また「生命の追求と尊重」については例えば「人の生命とは、個々人が感じる生活の質×時間で表現される全体であり、生きている時間を延ばすことは生命の尊重の一端でしかない。また生活の質についてはあくまで個人の体験する世界内での情動に依るものであり、客観的事実はそれを左右することに寄与しない」などと主張することは可能かもしれません。要は、「生きたいと思う人たちの権利は何も棄損しない。その代わり、死を求める私たちの権利も侵害しないでほしい」という、しごく当然の主張なのです。

夫婦別姓制度や同性婚制度の行く末が、安楽死制度の第一歩

 今現在の日本の状況を見ていて、似たような構造の問題にぶつかっている社会課題に、夫婦別姓制度や同性婚制度があります。
 それぞれの問題で権利を主張する当事者は、既存の権利を享受している集団とは別であり、「これまでの権利を求める人たちの権利は何も棄損しない。その代わり、新しい権利を求める私たちのも侵害しないでほしい」という構造であるはずなのですが、これらに反対する人たちは「社会が大きく変革される」「これまでの制度の根幹が揺らぎ、多くの国民に影響を与える」など、根拠の不明なお気持ち表明で逃れようとし、そしてまたその主張が通ってしまうという状況が続いています。

 僕自身は、人の生命に直接的に関わるわけではないこれら制度について、建設的な議論が形成される道筋が立って行かない限り、最高法益である生命に寄与する安楽死制度は、その実現のスタートラインにすら立てないと見ています。


 反対派でも、賛成派でも良いのです。
 どうすれば、お互いの利害を調整し、きちんとした科学的・法的根拠をもって建設的議論へ導くことができるのかという前例を育てていかなければ、この国はいつまでたっても偉い人たちの感情に左右され、国民である自分自身が困った事態に陥った場合でも理不尽さに泣き寝入りするしかなくなります。
 僕自身は何度も言うように、安楽死制度が作られることに賛成ではありませんが、根拠に乏しい感情に依った議論がまかり通るのはもっと嫌なのです。

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分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

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