2022年8月20日土曜日

安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素~安楽死制度を議論するための手引き02(第3部)

論点:日本社会は、安楽死制度を運用できるほど「成熟」していないのではないか?
 前回までの論点は、

安楽死制度は必要性があることは事実。考えるべきは「どう運用するか」「いつ制度化可能か」

 それに対し、僕が示した大前提は「まず全国において(ある程度のレベルで)緩和ケアが発展し、均てん化することが大前提、といった話をしてきました。


 少し時間が開いてしまったので、僕が挙げた「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」を振り返っておこう。

①緩和ケアの発展と均てん化
②医療の民主化
③患者の権利法

 このうち、①をこれまで解説してきたわけですが、ここからは②、③について。②と③は連続した話なので、一気にお話していきます(ただ、稿は分かれますが・・・)。

②医療の民主化
 いま、世界的には「⽣⽼病死にかかわる問題を医療者から地域住⺠の⼿に取り戻そう」という流れがスタンダードになっています。

 1970~80年代の欧米圏において、「健康は医師や専門職の⼿のなかにあるのではなく、すべての人の責任である」というNew Public Healthの考え方が提唱されると、市民運動として広がっていき、自分たちの暮らす地域を自らの責任をもって支え合っていこうという活動が増えていきました。
 また、 医療社会学者のAllan Kellehearが「人間が受ける苦痛のうち、診察室の中で解決できる問題は5%に過ぎない。残り95%は全て生活の中で生じる」と述べたように、病の体験とその苦痛は病院や医師だけで解決できる問題ではない、という考え方は緩和ケアの分野にも影響を与えてきました。
 つまり、ブログの登場によって「出版の民主化」が起こったように、仮想通貨の登場によって「金融の民主化」が起こったように、医療分野もまた医師たちが独占してきたその情報と決定権を、市民たちの手に解放されることによって「医療の民主化」が起こってきたといえるのです。


安楽死制度を求めるためには、「医療の民主化」が前提となります。想像してもらったら分かるかと思いますが、これまでのように「医師が医療に関する情報と決定権を独占している世界」において、安楽死制度を適切に運用することは可能でしょうか? もちろん、こころある医師に当たれば、安楽死制度も含めてあらゆる選択肢を検討し、患者にとって最適な解を「選んでくれる」かもしれません。しかし一方で、「親ガチャ」ならぬ「医者ガチャ」によって外れを引いてしまった患者にとっては、望まない安楽死、または望まない生の強要、どちらもやはり「選ばれて」しまいますし、それに逆らえないよう、持っている情報の非対称性を利用されて巧みに説得される可能性だってあるわけです。そのような状況では、安定して安楽死制度を運用できるとは言い難いでしょう。
 医師が医療情報と方針決定権を独占する社会から、患者自身が主体となる社会へ。医師や書籍、ネットなどから医療情報の提供と選択肢の提示を受けながら、自らの行き方と照らし合わせて自ら方針を決定していく。それが「医療の民主化」が実現した社会と言えます。

 では、現在の日本ではどうでしょう?この「医療の民主化」は実現している、といえるでしょうか?

成人の発達段階にはまだ先がある
 僕が以前、ある「安楽死制度を考える」会合に出席した際、同席していた社会学者の方が興味深い表現を用いていました。
「私たちの社会は、いずれ成長して、安楽死制度を『獲得できるくらい成熟』する」
一言一句は異なりますが、このようなニュアンスで語られていました。僕はここで「獲得」という言葉が使われたのが興味深かったのです。ちなみに、その社会学者も、現時点での安楽死制度の実現には反対という立場でした。つまり、彼の言葉を反対にすると「現在の日本は、安楽死制度を獲得できるほどに成熟していない」となります。
 では、どういった部分において僕たちの社会は「成熟していない」といえるのでしょう。

皆さんは「成人発達理論」をご存知でしょうか。
 今では、大人になってからも知性や考え方が成長を続けるというのは当たり前の考え方になってきていますが、1980年代以前は「大人になってしまったら、心は成長しない」と、成人の発達を疑問視する考えが常識だったのです。
 しかし、ハーバード大学教授で組織心理学者であるRobert Keganらの研究によって「人は生涯を通して成長し続ける存在である」という見解が常識となっていったのです。

 この成人の発達理論は、今日の日本においてはリーダーシップ論やビジネス書などで取り上げられることが多いのですが、ここで僕が着目したいのは、「成長には段階がある」の部分です。
 Keganらによる「知性の発達の3段階」として、
①環境順応型知性
②自己主導型知性
③自己変容型知性
があることが、その著書『なぜ人と組織は変われないのか』で紹介されています。

 それぞれを簡潔に説明すると
①環境順応型知性:これは、自らが周囲からどのように見られ、何を期待されているかによって自己が形成される段階とされています。つまり「忠実な部下」のイメージであり、もちろんこの知性は集団で行動する際に結束して動きやすいというメリットもあるものの、「他の人と足並みを揃えよう」「上の人の良いようにしてもらおう」となって、集団全体での浅い思考になりがちといえます。
 日本を含むアジア圏では、この集団思考に依る判断をする面が大きく、よって「日本は全体として環境順応型知性の段階にとどまっている」という指摘もあります。

 それに対して
②自己主導型知性:この段階になると、自分自身の中に「軸」となる判断基準を確立し、周囲の状況を判断して自ら選択を行えるようになります。つまり、この段階にまで発達すれば、「みんなはそう言っているけど、私はこちらが正しいと思う」と、自律的に行動ができるようになっていくということです。
 一見すると良さそうに思えるこの段階ですが、限界もあります。それは「自分の考えは正しい」と、その「軸」に固執する場合が多くみられる点。昨今のSNSなどで、よく見かけますよね。確立した自己「軸」が、世間一般的に誤りだとしても「間違っているのはそちらだ」と耳を傾けない。また一時的には真理であったとしても年月を経るごとに時代遅れになり、変化が必要なのにそれを受け入れない。
 本来であれば自己がコントロールする「軸」に、意識全てが支配されるようになってしまう・・・それが自己主導型知性の限界とされています。

③自己変容型知性:この段階になると、「世の中に100%絶対に正しいことなどない」と理解し、反対意見や矛盾を受け入れて自らの「軸」を変容させることができるようになります。これはつまり、自らの判断基準は確立しているものの、同時に「自らも不完全な存在である」ことを受け入れ、変化し続けることを厭わない知性といえます。
 ある時期には「正しい」とされていたことでも、数年たって時代遅れになれば、新しい価値観にアップデートすることに躊躇がありません。それは、自らを客観的に見つめ続ける視点があることと同義といえます。

 安楽死制度を運用していくためには、少なくとも国民の多くが②自己主導型知性の段階まで獲得していることが必要となります。それがつまり「医療の民主化」につながるわけです。
 先に述べたように、日本では未だ①環境順応型知性を行動規範としている面が多々見られます。日本古来の文化や教育が、①の知性を持つ人間を大量に養成する方が良しとしてきた影響もあるのでしょう。近年では、若い世代を中心に徐々に変化してきている面もありますが、「医療の民主化」を実現できるほど成熟しているとは言い難いのが現状です。
 もちろん、アジア文化圏においてはそのようなあり方を社会が選んできた歴史があるわけで、それを急に変化させていくことは孤立や分断を強めてしまう側面も危惧されます。ただ、日本において②~③の知性を良しとする流れが育ってきていることも事実で、外来で診療していると「医師の在り方は成長していないのに、患者側の自律性は変化した」と感じる場面が多々感じられるようになってきました。その意味で、「医療の民主化」は徐々に進んできているといえますが、安楽死制度を運用できるほどの域に達するためには教育や啓発といった取り組みを加速させていく必要があるといえます。

 しかし、「医療の民主化」が進んで、国民が自ら「軸」となる判断基準を持ち、医療者からの情報や助言を受けながら自らの生きる道を選んでいくことができるようになったとしても、本人の決定に医師や家族が異を唱え、方針を曲げさせることが往々にして発生する恐れがあります。
 そこで、その「本人の意思」を守るために「患者の権利法」の制定がまず必要ではないか、というのが次の論点となります。

https://note.com/tnishi1/n/nd95be32b8db5

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...