2021年9月28日火曜日

出口としての安楽死

出口としての安楽死

テーマ:ALSと考え事

https://ameblo.jp/ookawas/entry-12477158260.html


話題の2つの番組、
 
◯ NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」
◯ ザ・ノンフィクション「それでも私は生きてゆく」
 
を観た。
 
前者は、多系統萎縮症の方がスイスで安楽死を選ぶ内容。後者は、ALSの方を数年に亘って追い、病気の進行の様子までをもとらえた内容だった。
 
どちらも本当に貴重な記録だと思う。取材に協力されたご本人とお身内の方のご意思、番組製作の方々のご苦労には敬意を表するしかない。

自分もALS患者の家族として、考えさせれられることが多かったので、少し書き留めておきたいと思う。
 
◯「彼女は安楽死を選んだ」
 
「安楽死」を得ることは簡単でないと、あらためて思い知らされた。
 
安楽死団体へ入会して、その時が巡ってくるまで待機し、渡航、宿泊して施術に臨む。その間の英語によるメールや会話のやりとり。親族と話し合って合意を得ること、そして持ち帰ることができない遺灰をスイスの川に流すこと…
 
金銭的な負担だけでなく乗り越えるべきハードルがとても多い。余程確固とした意思を持っていなければ、成し得ないだろうと思えた。例えば親族が協力しないと言ってしまえばそれまでだ。
 
スイッチひとつで、思い立ったときに安楽死を選べるのなら本当に「安楽」と言えるかもしれないが、実際にはそうではない。いつでも安楽死を選べる容易さとは程遠く、渡航の手間や様々な手続きによって自由は制限されている。もちろん、人の死が容易であってはならないので、考えてみれば当たり前ではあるのだが。

現行制度の中で自ら死を選ぶことは極めて難しい。おそらく、他の人がミナさんと同じ選択をするのは容易ではないだろう。

ミナさんは、
「人間なんていつ死んでも今じゃない気がするの」
と言われていたが、もし国内で叶うのなら、もう少し自由に「いつ」を選べたのではないかと思った。


◯「それでも私は生きてゆく」
数年に亘る長期取材をまとめた番組と知らずに観始めたため、終盤にかけて、美怜さんの症状が進行していくのをみて本当に胸が詰まった。

ALS患者が気管切開を選ぶとき、答えを出し難い1つの原因は、ALSが進行性の病であるからだと思う。

施術後に症状が進行しても、同じ気持ちを保っていられるか。おそらく誰にも分からないし、自信を持てる人などいないだろう。

日常生活でも、一度下した判断について気持ちが変わることは珍しくない。状態が変われば気持ちは変わるものだと思う。

しかしこの病では、気管切開を選んだあと、心変わりすることが許されない。いわゆるTLS、眼球運動を含むすべての随意運動が麻痺して周囲とコミュニケーションが取れなくなった閉じ込め状態に及んでも、気管から呼吸器を外せば、外した人が罪に問われてしまう。

ALSは、精神を閉じ込める病と言われるが、もしかすると閉じ込めているのは病だけではないのかも知れない。

法制度と社会が患者の自由を著しく制限して逃げ場を奪っていて、閉じ込めに加担しているのではないか。

気管切開をした後に、安楽死を選べる選択肢がもしあったなら、実際に死を選ぶか否かは別として、やや閉塞感は薄らぐように思う。出口のない状態の中で、それは1つの出口に成り得るように思う。

今回、2つの番組を観て、ミナさん、美怜さんのお二人が強く生きていながら、一方で病以外の何かに自由を制限されているような閉塞感を感じた。

多くのALS患者は、計り知れない不安の中で気管切開の決断をしている。病状が閉じ込めを強いてくるなら、法と社会は、閉塞感を少しでも和らげる手助けとなって欲しい。

特に法制度の整備は、人智によって成しうるものではないか。簡単とは思わないが、治療法の確立よりも、介護問題の解決よりも、短い時間で叶えられることのように思う。それによって気管切開を受け入れる勇気も普及するのではないか。

日本がその分野の先進国となって規範を示して欲しい。尊厳の手前の、閉じ込めを緩めるためにも切に願う。




TLSについて


TLS(Totally Locked-in State・完全な閉じ込め状態)。

ALSが進行し、眼球運動を含むすべての随意運動が麻痺して周囲とコミュニケーションが取れなくなった状態。

「ALSマニュアル決定版!」
「ALSマニュアル決定版!part2」

という2冊の本を拾い読みしたので、TLSに関して印象に残ったことなどを含めて記事を書いてみようと思う。

テーマがテーマなので、気が重くなると思います。いつも見に来て下さる皆様も積極的にスルーしてくださればと思います。本当に。


まず、TLSの歴史について。
「ALSマニュアル決定版!」の「part1」と「part2」、特に「part2」の方に、TLS自体、比較的最近になって確認された病態であることが書かれていた。

・従来、ALSは、発症から3~4年で呼吸筋麻痺によって亡くなる疾患ととらえられていた。
・しかし陽圧呼吸法と胃ろうによる栄養管理で、10年~20年の長期療養ができるようになった。
・それによって、呼吸筋麻痺を越えてすべての随意運動が麻痺するところまで進行する事例が現れた。
・以前から臨床神経学の領域ではロックトイン症候群という用語があったが、新たにTLS(トータリー・ロックトイン状態)という用語が提唱され、1989年に臨床病理学的立場からも確認された。
・TLSという病態は、もともとALSに内在していたものが、人工呼吸器によって初めて明らかになったものだ。

ざっとまとめるとこんなところで、1989年頃に確立してきたらしい。また、人工呼吸器の普及がその少し前らしい。

自然に任せればそこまでの状態に至らなかったのに、治療技術の進歩によって逆にそれまで明らかでなかった病態が現れてきたというのが何とも言えない気分にさせる。

では、どのくらいの割合でTLSに移行するものなのかについてだが、やはり「part2」の方にいくつかのことが書かれていた。

■TPPV(気管切開陽圧換気療法)を導入した患者のうち約13%がTLSに移行する。
(2008年の全国調査)

■ある病院で、2009年9月~2013年12月の間に、ALS患者100名について検討したところ、次のような結果だった。

・100名中、TPPV導入38名
・うちTLS移行10名 (TPPV導入患者の26%)

割合が高いとみるのか、低いとみるのかなんとも分からない。引用元の本ではさらに、
・呼吸運動系先行麻痺型
・球運動系先行麻痺型
・複数運動系同時麻痺型
の3つに分けて細かく割合を示している。

■TLSに移行しやすい要因として、
・発症からTPPV導入までが2年以内
・家族発症例
・発症から眼球運動出現までの速度が速い場合

などがあるそうだ(2013年の報告)。

ALS患者の全て、あるいはTPPV導入患者の全てがTLSに移行するわけではないという記述が繰り返されていた。

それから「part1」の方には、TLSの介護をされた家族の手記が幾つか載っていた。特に印象に残ったところを2つ挙げてみる。

■「TLSになった母のケアは突然すごく単純になりました。時間どおりに寝返り、吸引、胃ろうからの食事注入、おむつ交換などをすればよく、文字盤も通訳もいらなくなり、叱られたり絶望されたり、泣かれることもなく、平和過ぎるほど静かな介護になりました。」

この部分には、とても心を動かされた。淡々とした文のあとに、それでも介護のときには、耳元で色々語りかけているといったことが書かれていた。

もうひとつは、患者本人が打ったメールの内容が幾つか記されていて、

■2003年1月5日
「つらいです。もう疲れました、きっと死は、ぬくもりである気がします。」

の後、介護する家族の手記が、

「2008年1月現在、症状はほぼ完全なロックトイン状態です。」

で締め括られており、本人の意思表示から、かなり長い期間が経過していることがうかがえ、やはり心を動かされた。

「part2」の方に載っていたことだが、TLSになると、本人が意思表示をできないため、様々な合併症の発見が遅れ勝ちになるそうだ。何故かTLSになると、平常時の体温低下が起こり、合併症に罹患しても体温があまり上がらず判別しづらいなどのことが起こるらしい。介護者は、細かな変化に気をつける必要がある。

話がそれるが、TLSのことをあれこれと読んでいると、40年近く前に読んだ短い小説を思い出す。

筒井康隆の掌編で「生きている脳」というものだ。

手元に本がないが、数ページくらいのショートショートだったと思う。中学生の頃に読み、恐ろしさで数日頭を離れず、トラウマになった。

以下☆印まで、小説のあらすじ。閲覧注意。

不治の病にかかった金持ちが、脳だけを取り出して培養液に浸けて生かすことにする。脳さえあれば、やがて元気な身体に移植できるだろうから。
麻酔をかけて神経繊維を切断し、脳を取り出して培養液に浸す。培養液の中で麻酔が切れ、脳は覚醒する。神経繊維が切断されているため全身に激痛を感じるが、脳だけとなった身のため、叫ぶことも何もできない。
培養液に浮かんだ脳は、傍目にはのんびりたゆたって見える。そのまま脳は、永遠に生き続ける。


1980年代の初め頃にこれを読み、それから10年以上経った90年代頃にTLSのことを初めて知った。

スティーブン・ホーキング博士に関するテレビ番組で紹介されたものだと思う。「生きている脳」とほぼ同じ状態が、現実にあることを知って衝撃を受けた。

以来、筒井先生のあの作品は、TLSを意識して書かれたものなのだろうかと気になっていた。

最初に書いたように、TLSの確立は、1989年頃らしく、筒井先生の小説が書かれた時期は、それよりかなり古い。事実が小説に追い付いたという感じだろう。

昨晩なんとなく寝付きが悪く、今回の記事を書きかけてしまった。他人事のように書いている場合ではない。

少しは知識を持っておくべきとも思うが、あまり知りたくない気分も大きい。

読まれて、気分が沈んだ方が見えたら、ごめんなさい。

2021年9月27日月曜日

「私、死ぬんだ…」ALSの医師が再び輝くまで―病とキャリア

「私、死ぬんだ…」ALSの医師が再び輝くまで―病とキャリアvol.3(前編)

2019年6月13日
https://career-lab.m3.com/categories/case/series/case/articles/86
竹田先生が全幅の信頼を置く、ヘルパーの彦田さん

大学卒業後、内分泌代謝科の医師として働いていた竹田主子先生。子育てに重きを置き、複数の非常勤先で働いていた2012年、40代前半でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。2014年には、24時間介護が必要な状態になりました。現在は、目や首の動きで意思疎通を図っています。前編では、ALSを発症するまでのキャリアや働き方、疾病受容するまでのお話をお聞きしました。(取材日:2019年6月3日)

「私、死ぬんだ…」と思った

――ALSを発症するまでのキャリアについて教えてください。

信州大学医学部を卒業後、医師3年目で同じ内科の医師と結婚しました。その後、東京大学の大学院に入学しましたが、夫のアメリカ留学が決まり休学。アメリカ滞在中に、臨床研修員として3年間働き、現地で第一子を出産しました。子どもが生まれてからは、仕事よりも子育てをメインにした働き方にシフトしましたね。それは帰国後も同じでした。子どもが幼稚園に行っている間に外来のアルバイトをして、仕事から自宅に戻ると家事をこなし、子どもが帰ってきてからは習い事の送迎という毎日。第一子が少し大きくなってからは常勤医として当直対応もしながら働いていましたが、第二子を妊娠・出産して少し経ってからは、非常勤医として複数の勤務先でアルバイトをする働き方に切り替えました。
子育てが一段落ついたら、ゆくゆくは開業しようと考えていましたが、当時の私は医師としてのキャリアよりも、家庭や育児を優先させていました。私が家庭を守り、夫が出世すればいいと考えていたのです。

――ALSの発症は、そのような日々を送っていた矢先の出来事だったのでしょうか。

そうですね。私がALSを発症したのは2012年でした。まず、歩行時に足が突っ張り、うまく歩けなくなりました。手が動かしにくくなったので、作業療法士の方にペンが持ちやすくなる補装具を手配してもらいましたが、それを着けてもカルテの入力が困難になっていって――。ALSと正式に診断される前は、主治医に症状を訴えても「ALSの典型的な症状ではない」と言われていました。けれども、身体は徐々に動かなくなっていく。今日動かせていたところが、明日動かなくなってしまったらという不安に苛まれながら、育児や仕事を頑張るしかありませんでした。身体に異変が起き始めてから9カ月、患者さんと話していると息苦しく感じるようになった頃に、針筋電図でALSと確定。既に身体は限界で、日々の診療に耐えられる状況ではありませんでした。そのため、臨床現場を離れることに、悔しさや未練はなかったですね。


――実際に、診断名を告げられたときの心境は。

覚悟はしていましたが、いざ告げられて真っ先に思ったのは「私、死ぬんだ…」ということ。当時、中1と小2だった子どもたちが心配で、そして、彼らと別れることを思うと悲しくてたまらず、診断してくださった教授に「私のALSのタイプは進行が早いですか?」と泣きながら尋ねました。正式な診断を受けてからは日本ALS協会の方にお話を聞いたり、ALSの患者会に参加したり、さまざまな情報を集める日々。一縷の望みをかけて、ALSの治験を受けるために東北大学病院と北里大学病院にも足を運びました。

家族に対しても、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。あっという間に言葉が不明瞭になり、食事も全介助になってしまって――。医師という職業柄、ただでさえ忙しい主人には介護や家事で負担をかけてしまい、子どもたちにとっては頼れる母親から心配をかけてしまう存在になってしまった。何よりも大切にしていた家族に迷惑をかけるくらいなら消えてしまいたい、元気だったら家族に対してもっといろんなことができるのにと思いながら涙に暮れていると、そのことを非難されることもありました。「好きでこんな病気になったわけじゃないのに!」と悔しさでさらに涙があふれていきました。

疾病受容に4年かかった

――先生ご自身が患者になり、医療従事者に対して感じたことはありますか。

医師は患者とその家族の人生に希望を与える存在であり、患者側をイキイキとさせることも、絶望に突き落とすこともできるということ。また、医師と患者の間には、病に対する知識や考え方など、医師が思っている以上に大きなギャップがあるということです。それを埋めるのがコメディカルスタッフであることを実感しました。結果的に、この経験が現在の業務内容にも活かされています。
私は一時期、精神的に追い詰められるあまり、カルテに「蘇生措置拒否」と書いてもらったこともありました。自分自身にもどかしさや不甲斐なさを感じるあまり、絶望の沼にはまって、そこから抜け出せない日々が長らく続きました。結果的に、疾病受容までに発症から4年かかってしまいましたね。

視線導入装置を使って、目の動きでパソコンを操作する竹田先生

――疾病受容できたきっかけは、何だったのでしょうか。

重度訪問介護者として認定され、24時間介護サービスを受けられるようになったこと。それに付随して、視線入力装置を導入できたことです。それまでは家族に平日の夕方以降と土日に介護をしてもらっていましたが、サービスを受けられるようになってからは家族の負担を減らすことができたので、心的ストレスがかなり軽減されました。また、視線で文字入力できるパソコンを使えるようになったので、仕事や交友関係の幅も、世界もどんどん広がっていき、元来の前向きさを取り戻すことができました。実はALSになってから、それまでの交友関係を断ち切ってしまったんです。バレたくなかったし、話題が合わないと思って――。ただ、子どもの学校行事のついでにママ友に打ち明けたら、お互い意外と平気でいられました。そうしたら、「なんかもういいや」と開き直ってしまって。その後に大学時代の友達にも打ち明けることができました。その当時、ようやく疾病受容できそうなフェーズだったというのもあるかもしれません。

――疾病受容できたからこそ、人工呼吸器の使用を決意されたのですか。

呼吸を楽にすること、唾液を誤嚥しないために、あらかじめ気管切開だけはしていました。気管切開をした後も毎日忙しすぎて、人工呼吸器を付けることについて悩む暇はありませんでした。人工呼吸器を付けた方が楽だろうと思い始めたときに、「もう付けちゃおう」とノリで使用しはじめました。疾病受容できたからというよりも、苦しいなら楽な方をとるという考えです。ALSは最後に残るのが眼球運動で、それが止まるとtotally locked in stateと呼ばれる閉じ込め状態になります。もし私にその日が来たら、栄養剤の注入も止めてしまおうと割り切ってはいます。


業務は多様 ALS医師のセカンドキャリアとは―病とキャリアvol.3(後編)

2019年6月13日
四谷保健センターにて、医療従事者向けに講演する竹田先生

2012年にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、現在は、目や首の動きで意思疎通を図っている竹田主子先生。臨床現場を離れてからは、医師と患者双方の経験を活かし、医療コンサルティングや講演活動などに注力されています。後編では、その取り組みについてお話を伺いました。(取材日:2019年6月3日)

医療コンサルティング、講演、モデル… 多様な働き方

――現在の仕事内容について、お聞かせください。

現在の仕事内容は多岐にわたりますが、主軸は2つあります。1つ目は、医療コンサルティングです。具体的には、医療過誤、医療事故、死因調査などの弁護をサポートしたり、カルテ翻訳をしたりしています。もともと母と祖父が弁護士なので、医療関連の相談事を受けることはありました。ALSを発症してからは、医師や患者という立場から私にできることが多くあるのではないかと思い、「東京メディカルラボ」を立ち上げたのです。
2つ目は、講演活動。医療介護従事者、医学生、看護学生、福祉関係の学生に向けて講演することが多いです。テーマはALSの啓蒙が多いですが、尊厳死についての意見を求められることもあります。講演活動をするのは体力的に月2回が限度ですが、聴講者からいただいた感想はどれも励みになるものばかりで、やりがいを感じています。

ある看護大学で講演を行ったときに、学生から寄せられた感想

これ以外の仕事や取り組みとしては、介護職の資格の問題作成をしたり、看護学生をアルバイトとして自宅に受け入れて、ケアの方法や声が出ない人とのコミュニケーション方法を教えたりしています。同じ病気で苦しんでいる患者さんを自宅に招いて悩みを聞いたり、生活の様子を見せたりする「ピアカウンセリング」にも取り組んでいます。あとは、時々モデルをすることもあります。

――モデルですか?

「寝たきりの人の気持ちをファッションで盛り上げよう!」というプロジェクトがあり、そのモデルをしています。うちにアルバイトに来てくれていたデザイン系の専門学生が、福祉とファッションをつなげる野望を持っている子でした。アルバイトのわずかな合間に、メイク、ネイル、ファッションと私のことをトータルコーディネイトしてくれて――それをSNSにアップして活動したのが始まりです。呼吸器のホースを装飾してくれたこともありました。私は美容やファッションが大好きなのでとても楽しかったですし、プロジェクトの狙い通り、気持ちが上がりましたね。その子は今春から海外留学をしているので、現在プロジェクトは休止状態ですが、海外でも才能を開花させてほしいと思います。
現在の活動内容は、いずれも自分を必要としてくれていることが実感できて、勤務医時代とはまた違うやりがいと楽しみがあります。今では病気であることを忘れて――というよりも、この生活が当たり前になり、日々普通に生活をしているという感覚です。

いつか、診療に挑戦したい

――1日のスケジュールについて、具体的に教えてください。

前提として、介護保険が適用される年配の方は、身体介護、身体援助などヘルパーさんが訪問時にやることが決まっています。私のように比較的若い重度訪問介護者の場合は、ヘルパーさんが要介護者の希望することに臨機応変に対応してくださいます。講演活動で外出する場合などは変動しますが、だいたいは次のような流れです。
まず朝9時に日勤のヘルパーさんがいらっしゃるので、お手洗いを済ませたり、食事をしたり薬を飲んだりします。私は疲れやすいので、午前中~正午にかけて昼寝をします。午後3時半頃には、訪問看護師さんがALS治療に効果的とされる点滴をしてくれたり、身体の拘縮を防ぐためにマッサージやストレッチをしてくれます。夕方になると、夜勤のヘルパーさんにバトンタッチをして、食事をとったりしています。この合間の時間に、視線入力装置を使って仕事やインターネットをしています。いろいろなことを助けてくれるヘルパーさんには、常に感謝の気持ちでいっぱいです。心身ともに支えてくださる、なくてはならない存在。付き合いが長いヘルパーさんは気が合う人が多いので、いてくれるだけで楽しい気持ちになりますね。

看護大学で生徒とコミュニケーションを図る竹田先生

――ヘルパーさんのほかに、先生の精神的な支えとなる存在について教えてください。

家族ですね。ある時、成長した子どもたちに「ママが病気になって、いろんなつらい思いをさせてきてごめんね」と言ったことがありました。すると、「そんな自己満足のお涙頂戴話はやめてくれよ」と言われたんです。「それもそうだな」と思い、それ以来、子どもたちが私の背中を見て育つように、自分の人生を力強く、かっこよく生き抜くことを決意しました。私は寝たきりで全身麻痺の状態ですし、声を出すこともできません。健康な人からすると、自分がこのような状況になったら「気が狂いそう!」と思うのではないでしょうか。でも、強がりでもなんでもなく、今の私はさまざまな生きがいを持って楽しく毎日を過ごしているんです。周りの人たちとおしゃべりをして、ゲラゲラと笑いながら!


――今後、挑戦したいことについて教えてください。

診療です。これを読まれている先生方の「そんなことできるはずないでしょ」というツッコミの声が聞こえてきそうですが(笑)。神経科学者であるエイドリアン・オーウェンの『生存する意識 植物状態の患者と対話する』という本に“人間の脳は、自らを癒す驚異的な力を持っている”という一節があります。これは、植物状態にあった患者が意識を取り戻した時に、筆者が患者に対して持つ感想です。私がALSになって思うのは、「脳は困難を乗り越え、環境に適応する驚異的な力を持っている」ということ。なので、今すぐは難しいかもしれないけれど、科学が進化すれば、いつか診療に挑戦できるかもしれません。その日を心待ちにしながら、今の私にできること、求められていることに取り組みたいと思います。

【逝かない身体】ALSとTLS

【逝かない身体】ALSとTLS

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが
私の母はALS『筋萎縮性側索硬化症』という難病です。

全身の運動神経が徐々に麻痺していく
進行性の病です。
何も処置をしないと いずれは、呼吸筋が麻痺し
死んでしまいます。

私が思うこの病気の一番恐ろしい所は
全身の筋肉が動かなくなり
動くことも喋ることも食べることも
何もできないのにも関わらず
感覚 例えば、痛いとか痒いとかは
健常者と何も変わらないこと
意識も私たちと何も変わらないということです。

進行していく過程で
まず食べられなくなることが致命的だったので
(飲み込む筋肉がなくなっちゃうんです)
胃ロウを作る手術をしました。

これによって、胃に直接穴を開けて、
そこから直接 液体の栄養を流し込むことができます。

そして次に呼吸筋の低下によって
息ができなくなることを防ぐために
気管切開をして人工呼吸器を装着しました。


母がこの病を患った頃
ちょうど姉のこどもが1歳くらいで
毎日何かができるようになっていく...
そんな時期でした。

同じ頃に母は、毎日何かが出来なくなっていく...

側にいて胸が締め付けられるようでした。
でも、
そんなことに浸っている暇もないほどに進行は早く
出来なくなったことへの対策を考えて束の間
1ヶ月くらいそれが持ったかと思うと
それが出来なくなっていく...
そんなことの繰り返しでした。


そして今は、24時間ベッドに横たわっています。
身体はどこもピクリとも動かせません。
車椅子も、座るための筋肉がないので乗れません。
唯一動いているのが、眼球です。
瞼も自分では瞬きが出来なくなっています。

眼球の動きによって、
かろうじて yesかnoかをきいて介護しています。

痛くない?
大丈夫?

など。

でもここ最近 眼球も動かなくなってきてます。


ALSの患者さんが一番恐れるものが『TLS』という状態です。

TLS[Totally Locked-in State(完全な閉じ込め状態)のことです。
意識も感覚もあるのに
それを伝える手段が何もないんです。


その状態を目の前にして、最近少し 弱気な私です。
胸が張り裂けそうです。


例え、指が1本だけでも少し動いたら...コミュニケーションがとれるのに...

他の病気の方を見ては
あなたは喋れるじゃない、
とか、
障害を抱えた方を見ては、
車イスに乗れるじゃない、
とか 、
みんなその人その人が
一生懸命に生きられているのに、
比べてそんなことを思ってしまう汚ない感情ばっかり...
ごめんなさい...


まだ顔の動く筋肉を使ってセンサーを操り、
伝の心(でんのしん)という特殊なパソコンを操っていたとき、
一文字を1分以上かけて入力し、

『ありがとう』
『好き』
『ピアノ』
『頑張って』

と言ってくれていました。
でもときには

『つらい』
『死にたい』
『ころせ』

そんな言葉もありました。
それくらいに 生きていることが辛いくらい苦しいんです。
でもどんな言葉でも、
母の気持ちを読み取ることが出来るなら、
例え『ころせ』と言われても、
受け止めていました。
そして、身体を抱き締めて
手を握って、一緒に泣きました。


今は、それもわからないのが辛いです。

私にできることは何なのだろう...
と迷いが生じています。


いつかもう一度、母にピアノを生で聴いてもらえたら...
ALSの患者さんたちでも聴きにきていただけるコンサートがしたいです。

人工呼吸器があるので、
電源の確保、ストレッチャーで入れる導線 (階段NG)
などなど
普段のコンサート会場とはだいぶ違う条件があるので
なかなか大変だとは思うんですが...

それから
24時間看介護で休まることがない介護者の方にも 
安らぐ音楽を届けたいな、とも思います。

それくらいしか思い浮かばなくて...


介護者の方の負担も相当です。
大切な人の大変な病気に
病気の本人と同じくらい心を痛めているはず。

例えばナースコールのように
何かあった時に呼んでね!
なんていうことはALS患者にはできないので
目が離せません。

10分目を離したスキに 音もなく泣いて
顔を真っ赤にして むせていたり...


あぁ、早くこの病気の特効薬ができたらいいのに!!!!!

もし良かったら、この病気ALSのこと知ってください☆


逝かない身体というALSのお母様を
12年間介護された方の本が出ています☆
でも実はこの本、最後まで読めていません。
本の中の患者さんが
TLSになった後のことも書かれているので
まだ 勇気が足りていません...






皆さんの勇気 少しください☆☆

また母のこと、
それから私自身のこと...書いてもいいですか…?


普段、介護で大変な方、
病気と闘っておられる方に
心からのエールを込めて☆☆



さぁ、想いを綴ったあとにはコンサートのお知らせもするもんねーだっ(^-^)
負けてはいかん!

★2018.7.23追記★
無言の闘い 

『無言の闘い』今朝 何気なくパッとTVをつけた瞬間に『ALS』というナレーションが聞こえてきました。日テレの『スッキリ』という情報番組です。目の動きでDJ/VJをプレイする…リンクピアノ奏者 横内愛弓のピアノな日々 

 


◆横内愛弓PETITコンサート~クリスマス&2017Culmination~
【日時】2017年12月23日(土)
13:00開場 13:30開演
【場所】PETIT HALLやまぼうし
【チケット】大人¥3500 小人¥2000(※4歳以上小学生以下)
【お申込】イープラス
【演奏予定曲目】
クリスマスにちなんだ曲目とクラシック曲



◆“Y♡SEコン”【名古屋】
【日時】2017年11月24日(金)
ジョイントコンサートで、4組が出演します☆



16:00〜 3本のトランペット(+ピアノ)
 17:00〜 ソプラノ(+ピアノ)
 18:30〜 マンドリン&ギター+Vocal
 19:30〜 横内愛弓ピアノソロ
各回とも45分間
私は、4組目の19:30〜ピアノソロで出演させていただきます☆
【場所】5/RHall&Gallery
【チケット】h0 (※未就学児童OK♪)
【お申込】yokouchi.concert@gmail.com までご連絡ください☆

【演奏予定曲目】
ショパンのノクターン9-2
ショパンのノクターン遺作
パガニーニの主題による狂詩曲より第18変奏
献呈 シューマン=リスト
トロイメライ シューマン
間奏曲作品118-2 ブラームス
ポエム ヒィビヒ
ラプソディインブルー ガーシュイン

 
 
◆横内愛弓ピアノソロステージ【浜松】
【日時】2017年11月25日(土)
【場所】新東名(上り)浜松SA内 MUSIC SPOT 
【入場無料】
11:00~ 13:00~ 15:00~
※各30分のステージです



◆100本のろうそくが灯る夜のレストラン ~テディベアが創る、魔法の世界~【六本木】

日程:2017年12月15日(金)
時間:19時00分〜21時00分 (18時30分開場)
場所:Arkhills Cafe(アークヒルズカフェ)

住所:東京都港区六本木1-3-40アークヒルズ カラヤン広場
アクセス:六本木一丁目駅(3番出口)より徒歩2分・溜池山王駅(13番出口)より徒歩4分


<↓チケットの購入はこちら↓>
http://ptix.co/2w8lqje

内容:軽めのディナー(イベント限定スペシャル料理・イベント限定スペシャルドリンク付き)・クラシック音楽の生演奏・一夜限りの空間演出 など

楽器:弦楽四重奏・ピアノなど(予定)

入場料:前売り5,500円・当日8,000円
※その他、ミュージックチャージは任意
定員:50名

協賛:カメヤマキャンドルハウス・MS1880(シュタイフ日本総代理店)・モルソンクアーズジャパン
特別協力:森ビル
主催:W's Company/朝♪クラ〜Asa-Kura~


もしよかったらおやすみになる前にどうぞ☆


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ピアノ調律や修理

 

横内愛弓1stCD「ピアノ・カンタービレ!~グランドピアノが奏でる名曲クラシック~」発売中

ダウンロード版★もございます

(全曲、または1曲からご購入いただけます)

※ネットショップでご購入いただけない場合等はこちらにご連絡をください☆


横内愛弓2ndDVD「音楽のはじまりはじまり」発売中

※ネットショップでご購入いただけない場合はこちらにご連絡をください☆

 

☆最後までお読みくださりありがとうございました☆

https://ameblo.jp/ayumi-pf/entry-12329781667.html

2021年9月12日日曜日

日本では、なぜ「尊厳死」議論がタブーなのか

日本では、なぜ「尊厳死」議論がタブーなのか

尊厳死が認められれば安楽死は不要なのに

2020年02月16日
日本では病院を始め、尊厳死に後ろ向きな傾向が強いのはなぜか(写真:EKAKI/PIXTA)

舞台はオリンピック景気後、転落の一途をたどる2024年の東京。国の財政はいよいよ逼迫、さまざまな治療が保険適用から外されていく。究極の策として浮上したのが、心身共にもう見込みがない人、延命を望まない人はどうぞ死んでくださいという、「安楽死特区構想」だった。小説『安楽死特区』を書いた長尾クリニックの長尾和宏院長に詳しく聞いた。

日本人がスイスに押し寄せかねない

──昨年NHKで放映された、日本人女性がスイスで安楽死を遂げる番組が大反響を呼びました。「ありがとう」とささやいて穏やかに逝く姿に、モヤモヤしていた「安楽死」という言葉が、現実の形を帯びたような気がします。

彼女を担当した医師とは、私は2回会っています。スイスには安楽死団体が複数あって、数年前に訪問したとき「ここで見たことは日本で話さないでください」と言われました。なぜか。日本人が押し寄せてしまうからです。

日本で安楽死はもちろん認められていません。単なる殺人です。だから今回の件は日本人が外国で殺人事件に遭ったのと同等です。でもそれを扱う法律がない。スイスからしたら、そんなややこしい国から大勢来られたら困るんです。そういう問題を抜きにして、こんな美しい死に方がありました、とNHKがスクープ的に放映した。

『週刊文春』の調査では日本人の8割が安楽死に賛成だった。昨日、大阪で講演したんですが、やはり3分の2の方が安楽死に賛成でした。終了後、若くピンピンした男性に「紹介状を書いてくれ」と1時間つかまりました。元気な今のうちにスイスに渡りたい、と。

──今の日本で老後を考えると何か暗くなる。だったら自分の最期は自分で決めて、楽に死にたいっていう気持ち、正直わかります。



皆さんが憧れてるのは、安楽死じゃなく“安楽な死”。痛くない苦しまない死に方ですよね。それなら、もっと自然に逝ける尊厳死がある。皆さんいきなり安楽死に話が飛んで、ユートピアのように夢想している。でも尊厳死と安楽死はまったくの別物です。

尊厳死は、死期が近く、延命治療でなく自然な経過に任せてほしいと本人が望み、それをリビングウィル、生前意思として書く。そしてモルヒネ等による痛みの緩和に重点を置く。その結果が尊厳死です。安楽死は違います。死期は近くない、本人の希望で元気なうちに医者に“殺して”もらう。

尊厳死ができれば安楽死なんて不要

聖路加国際病院の名誉院長だった日野原重明先生も105歳で尊厳死されました。リビングウィルを書かれて延命治療を受けなかった。リビングウィルを書いて尊厳死ができれば、安楽死なんて不要なんです。私はこれまで、在宅医療で1200人以上お看取りした。みんな尊厳死です。尊厳死ならより長く生き、最後まで食べられてお話しができて、苦痛も少ない。

長尾和宏(ながおかずひろ)/1958年生まれ。医学博士。東京医科大学卒業後、大阪大学第2内科入局。95年兵庫県尼崎市に長尾クリニック開業。日本尊厳死協会副理事長、日本慢性期医療協会理事、日本ホスピス在宅ケア研究会理事などを務める。『痛くない死に方』ほか著書多数。(撮影:尾形文繁)撮影)

──確かに、発想が一気に安楽死へ飛んでいたかもしれません。

日本ではいじくり回すことが医療なんです。大学病院でもがんセンターでも、尊厳死はできない。全身に管をつながれて最期を迎える。自然死できない、させてもらえない国です。終末期の医療、延命治療で医者が従うのは学会のガイドラインであって、患者本人の意思じゃない。尊厳死ですらグレーの国。けったいな国なんです。

──そもそも、なぜ病院は尊厳死を拒絶するんですか。

本人が一筆書いた場合でも、家族から訴えられるリスクがある。日本はリビングウィルが法的に担保されていない唯一の先進国です。それどころか政府が、リビングウィルは医療訴訟のリスクが増すから「書くな」と言っていました。

それに対し、2年半前に日本尊厳死協会が行政訴訟をしました。その主張が認められ、1審2審と国が敗訴した。そして昨年11月に初めて、リビングウィルを書く行為自体は「悪いことじゃない」と司法が認めたわけです。



──2年半かかってようやく、「書くな」から「書いてもいい」ですか……。でも法律的に認められたわけじゃないんですよね?

ええ、書いてもいいよ、の段階。これでも画期的なんです。法律はハードルが高い。尊厳死のリビングウィルの問題では僕は何回も国会に行ったし、議連や個別に出向いて説明もしてる。

ところが公に議員会館で議論となると、反対派がバーッと入ってきて「人殺し!人殺し!」と封鎖されてしまう。議員には脅迫メールが来る。少し前向きな発言をしただけでもアウト。みんな腰が引けちゃって、今この問題に踏み込む議員はゼロです。子育て支援や年金守りますと違ってこんなややこしい問題、票にならないから。メディアも関心がなく、いっさい報道しない。

8割の日本人がベッドの上で「溺死」させられる

──安楽死=医師を介した自殺。でもその前にチョイスがある、と。

そう、チョイスがある。皆さんに尊厳死のことを知ってほしい。

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尊厳死の議論が進まないのは、障害者団体、難病団体、宗教団体、弁護士会などの反対があるからです。でも患者さんの意思を尊重するというのは、古代ヒポクラテスの時代から医療の大原則。これは人権であり幸福追求権です。8割の日本人がベッドの上で最期まで点滴を受けて、溺死させられる。

溺死じゃなく枯れるということ、自然な脱水を容認する文化、そちらのほうが最期まで自分らしくあり続けられる。アナウンサーの小林麻央さんも最後まで食べて「愛してる」と言って死んだ。プロ野球の星野仙一さんもおせち料理を食べて、自分でトイレに行って最後まで自立して亡くなった。みな自宅で尊厳死してるんです。

──死というものが、いつの間にかシンプルじゃなくなった。

チベットでは医者が関わらなくても、翌朝死んで鳥に供えられたら、それで死です。日本は孤独死して3カ月経って腐乱して見つかっても、医者が解剖して検死してどこまでも医療が関わってくる。「延命治療お断り」とリビングウィルカード持って、お断りの入れ墨をして、Tシャツにまでプリントして延命治療を拒否する人もいるんです。それでも医療が入らなきゃいけない。法律がないから。

僕は治すほうの医者でもあります。ただ治すのも限界があって、治らないなら安楽に送ってあげることも医者の仕事だと思ってるんです。それは尊厳死なんです。安楽死を夢見る前に、まず足元を見てほしい。

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...