2023年12月10日日曜日

人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか~安楽死制度を議論するための手引き11

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人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか~安楽死制度を議論するための手引き11

2023年12月1日 17:01

論点:人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか

 気がついたらこの連載も3か月ほど間が空いてしまいました。
 テーマはいろいろと考えていたのですが、今年度は並行して3冊の出版に取り組んでおり、こちらに割ける時間がほとんどなかったのです・・・と言い訳。

 前回は「終末期の鎮静」に関するガイドラインが改訂されたため、その解説をしていたのでした。


 今回からは話題を変えて、いわゆる「人生会議(ACP=Advance Care Planning)」をテーマに、「認知症をもつ方の意志決定はどうするのが良いのか?」を考えていきましょう。

人生会議って何だっけ

 最近また、「高齢者の延命治療は保険外診療にすべきだ」とか「認知症で食べられなくなった高齢者に胃瘻を作るのは無駄だ」みたいな議論が喧しいですね。落合陽一さん・古市憲寿さんの発言しかり、成田悠輔さんの発言しかり、こういった考え方は定期的に世間に投げられては、その都度でこりもしない表層の炎上が繰り返されます。

 そして、そういった極論に対してカウンターで繰り出される反論の中に「終末期や認知症になる前に、自身の意思をきちんと周囲の方に伝える『人生会議』をするべきだ」といった意見が必ず出ます。

 でも僕は、それは机上の空論と感じてしまうんですね。

 いや、「人生会議をすれば、終末期や認知症になったときに本人の意思が治療方針に反映され、本人の尊厳も守られるうえに家族も助かる」っていうのは(多くの場合においては)真実だとは思っていますよ。医療の現場においても、例えば意識不明の重体で患者さんが救急搬送されてきたときに家族から、
「父は普段から、自分の人生について○○ってよく発言していました。かかりつけの先生と話し合ったことを記した資料もあります。だから今の状況ならきっと父は××してほしい、って言うと思います」
なんて話があれば、僕らとしては大いに助かります。

 では、なぜ今はそうなっていないのでしょうか?

 国民の間で、人生会議がどれくらい普及しているかご存知でしょうか?
 厚労省が、2022年末から2023年初めにかけて国民や医療者を対象に人生会議の普及率を調査した結果があります。

https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001103155.pdf

 この中で、どれくらいの国民が人生会議を知っていたと思いますか?
 回答を得られた3000人のうち、「よく知っている」と答えたのはわずか「6%」です。6%と言われてもピンとこない方のために実数を計算すれば「180人」。しかも、さらに言えばこの調査の回収率は50%なので、実際には6000人に調査用紙を配布して、そのうち「調査に協力しよう」って意識をもってくれた人の中でこの数字ですからね。調査用紙を見なかったり、見ても捨ててしまった人なんかを含めれば、普及率はもっと小さくなる可能性が高く、最悪「3%」の可能性だってあるのです。

「でも、医療者の方がしっかり人生会議を促していければ・・・」という意見もあるでしょう。
 しかし、そこでさらに絶望的なのが、同調査で医師・看護師についても「人生会議を知っていますか」と尋ねたところ、「よく知っている」と回答したのが50%に満たないという結果だったのです。
 このような状況で、先ほど紹介したような「救急搬送で運ばれてきた患者・家族がかかりつけ医と日常的に人生会議を行っていた」といったケースなんて、出会うだけで奇跡というものでしょう。

 もちろん、2017年に人生会議の普及率を調査した結果に比べれば、国民・医療者ともその認知度は向上してはいるため、今後10年も経てば、人生会議を知っている、という人口は増えていく可能性はあります。
 しかし、その言葉や概念の普及と、人生会議を実践する、という間にはまた大きな隔たりがあることが、「人生会議を行えば意思決定の助けになる」というお題目を空論と化してしまっています。

人の生き方は一様ではない

 そもそも人は、そんなに素直に生きている存在でしょうか?
 今日は「こんな感じで生きたい」と思っていても「明日はそんな感じで生きたい」って思うのが普通じゃないですか?と、言うより普段生活していて「自分の生き方」なんて考えないのが普通ですよね。
 もちろん、病気を患っていたり、高齢になれば、若い健常者と比較して自らの今後を考えている方は増えていきます。しかしそれでも、人の生き方は一様ではありません。

 僕の外来でも、全身に癌が広がってしまった高齢者に対し、抗がん剤治療をするか、緩和ケアに専念して体力を温存する治療にするか、と尋ねたとき、
「いやー、もう齢だからね。十分長く生きたし、これ以上苦しい治療をして長生きしてもね」
とおっしゃるので、
「じゃあ、緩和ケアに専念する方針で良いですね」
と僕がお返しすると
「何か抗がん剤以外に良い治療は無いかね」
とおっしゃるかたが大勢います。
 このやり取りだけ聞けば、患者さんの発言は矛盾していると思いませんか?
 では、楽な治療であれば良いのかと考えて
「抗がん剤でも、若い方にするようなきつい治療ではなく、副作用を最小限にして寿命もそこそこ延ばそう、って方法もありますよ」
と提案しても
「いや、だからもう長生きはしなくて良いんですよ」
と返されるので、医者としては混乱してしまうのです。

 でも、それが普通の人間なんですよね(上記のやり取りだって、理論的には矛盾していても、実際の現場で聞いていたら医療者以外なら違和感を感じないかもしれません)。
 人の生き方は一様ではないのです。たくさんの矛盾を抱えていて、それを言語化することも整合性を取ることもせず、ただ生きている。それを「生きたい」って思いで括ってみると、何となくその人の全体が見えてくる。
 一方で、西洋医学的な考え方は、「対象を切り分けて理解する」のがベースですから、こういった矛盾を内包した「生き方」とは相性が悪いのですよね。絶対に切り分けられないところがあるから。人生会議もそもそもは西洋医学的・個人主義的な発想から出発した概念ですから、それを無理やりに人生全般に当てはめようとすると、どこかに歪みが生じてしまうのは当然のこと。

 もちろん、患者さんや家族の中にも、自分の生き方や価値観をきちんと論理的に言葉にできる人もいます。でも、そうではない人の方が圧倒的に多いです。そしてそれは別に悪いことではなく当然のこと。「ただひたむきに生きる」ってこと、それを別に意識しないで生きているってことのほうが自然なんです。

 人の営みとして、自然に、わかりやすいものであればもっと早く普通に広まっているんです。
 人生会議の枠組みは、あまりにも人の感情として自然とかけ離れているから、広まらないんです。

自分が死ぬと思っている人はほとんどいない

 そもそも、ほとんどの人は「自分もいずれ死ぬ」ということを意識していません。国が違ったらわかりませんが、少なくとも日本人の多くはそうです。60歳の人は80歳まで生きられると思っていますし、80歳の人は100歳まで生きられると本気で思っています。もっと言うと、医者から「あなたの余命は1年ないと思いますよ」とはっきり告げられても、本人は「そうは言っても3、4年は生きられるだろう」と信じていたりします。

 ただ、それはある意味幸福なことではあります。日常に死があふれていた中世までであれば、人は事あるごとに死の恐怖に怯えなければなりませんでした。現代になって、自分の死が身近ではないからこそ、僕たちは安心して暮らしていけますし、仕事や遊びに没頭することもできるようになったといえます。

 その意味で現代は、そもそも死を考えるのに向いていない
 僕からしてみれば、「高齢者の延命治療は保険外診療にすべきだ」とか「認知症で食べられなくなった高齢者に胃瘻を作るのは無駄だ」というのも、「人生会議をすれば患者の尊厳が守られる」なんて発言も、全部ペラペラの他人事に聞こえます。自分が死ぬと思っていないから、言葉に魂が乗っていない。重みが無い。自分は死ぬと思っていないけど、他人が死ぬのはどうでも良い、って心理が透けて見えるのです。

 じゃあ、終末期や認知症になったときに、人はどうすれば良いのか、そこに解決策はあるのか、という話をまた次回にします。
 ぜひ、この機会にマガジンに登録して、次回をお待ちください。

https://note.com/tnishi1/n/n208760a2666d?sub_rt=share_h

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

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