2024年4月16日火曜日

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

2024年4月15日 20:38

論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか

▼前回記事

「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳にすることがあります。
 確かに、日本においては時々過激な人が過激なことを言って炎上して終わるくらいなもので、安楽死制度構築に関する建設的な議論は進んでいるとは言えないかもしれません。そもそも、(積極的)安楽死制度どころか、終末期において治療を差し控えていく、いわゆる尊厳死(消極的安楽死)についてすら、法整備が進んでいるとは言い難い状況が何十年も続いています。
「各種ガイドラインに従い、手順を踏んで関係者と話し合いさえしていけば、現在の制度内でも尊厳死(消極的安楽死)は可能である」
と、一部の人は言うかもしれませんが、「法的根拠が無い」ということは「医療業界の常識になり得ない」ということでもあります。
 前回の記事でも話題になった、「京都嘱託殺人事件」においても、亡くなられたAさんは生前、胃瘻からの栄養療法の中止を求めたにも関わらず、医師がその願いを聞き入れることは無かったとされています。医師としての「常識」として、仮にそれが患者本人の意思だとしても、明らかに生命を縮める可能性が高い行為に手を貸すことへは強い拒否感が生まれるのです。しかし一方で、胃瘻からの栄養療法も含む「医療行為」はそもそも、患者と医師との契約に基づいて実行されるべきものですから、患者の意思を無視して医療行為を続けることはできないはずなのです。しかしそれでも「慣例」や「常識」に従って、とにかく命を延ばす治療が最優先される・・・「法的根拠が無い」とはこういうことなのです。

 では、このような現状において、安楽死制度の議論を呼びかけていっても無駄なのでしょうか?
 いわゆる「賛成派」がいくらSNSなどで呼びかけても、「反対派」もまた声をあげ続けますし、一歩も先に進まない感のある現状においては、いくら活動を続けたところで徒労に過ぎないのでは・・・と考えてしまうのも頷けます。

 しかし、僕はこういった議論を呼びかけていくことは、決して無駄ではないと考えています。
 それは、「呼びかけを行わない限り、分母が増えない」と考えているからです。

 例えばある村で、安楽死制度に興味がある人が200人いるとしましょう。そのうち50人は賛成派、また一方で反対派も50人。そして残りの100人は、「興味はあるけどどっちつかずの人」です。ここで、もしこの村で安楽死制度を実現するために必要な賛成票が「100票」必要だとしたら、あなたならどうするでしょうか?
※なんだか変なルールですが思考実験なのでお付き合いください。

 まず第一に考えるのは、反対派と議論して彼ら彼女らを論破することです。確かに、完膚なきまでに論理で勝利すれば、50人のうち何名かは、賛成派に転じてくれるかもしれませんね。ただ、論破した=賛成票を投じるとは限らない。逆に論破されたことで意固地になってしまう可能性もあります。つまり、この反対派50名を賛成派に転じさせることは、労力の割に合わないほど難しいのです。
 次に、どっちつかずの100人を懐柔することを考えます。これも賛成派なら、丁寧に安楽死制度の必要性を説いたり、感情に訴えかけることによって、100人のうち40人は賛成票を投じてくれる側になってくれるかもしれません。しかし一方で、反対派だって同じことを考えて、同じように懐柔を図ります。結果として、100人のうち40人が反対票を投じることになれば、賛成票は90、反対票も90、どっちつかずのまま20(投票しない)となって、安楽死制度は成立しませんでした、という結果になるのです。
 つまり、ここで言いたいことは、それだけ「他人の意見を覆すことは難しい」ということです。

 だとしたら、どうするか。
 ここで、この村のルールを思い出してください。この安楽死制度が成立するために必要な賛成票は「100票」です。これは、「過半数」という意味ではなく、絶対的に「100票」集めれば成立する、というルールなのですね。

 そして先ほどの描写では、この村には「本来いるはずの人」がカウントされていませんよね?
 そう、実は「安楽死制度なんて知らない/興味がない人」がいるはずなんです。それが例えば、先ほどの200人に加えて1000人いるとしましょう。
 この状況であれば、「安楽死制度なんて知らない/興味がない人」に対して、「安楽死制度を知ってもらう/興味を持ってもらう」ほうが、実は簡単なのです。安楽死制度に関するキャンペーンを打つ、CMを打つ、ポスターを貼る、SNSを議論で埋め尽くす・・・などなど、もちろん労力やお金はかかりますが、それがムーブメントとなることで「興味関心」を人の心に灯すことは、それほど難しいことではないのです。
 では、この1000人のうち、キャンペーンなどによって200人が興味をもって、票を投じてみようかなに変化したとします。その方々は当然のように、個々に「賛成」「反対」「どっちでも良い」にまた分かれるわけですが、その時に最初のように賛成50人、反対50人、どっちでも良い100人となるとしたらどうですか?
 結果的に、村人1200人のうち、投票した人は200人。賛成は100、反対も100、となって安楽死制度成立に必要な賛成票を満たしました!・・・となります(残りの1000人のうち興味あったけどどちらでも良かった人200人、最後まで無関心の人が800人)。
「こんなこと、現実では起こり得ないじゃん」
と言ってしまうのは簡単ですが、本当に「起こり得ない」ですか?現実の日本の選挙でも、現在同じことが起きていませんか?例えば最近の国政選挙での投票率は大体50~60%ほどですが、そのうちの票の過半数を占めた党が与党となり国政を担うわけなので、実質、国民の意見の30%くらいしか政治には反映されていないわけです。つまり、国において物事が決まるためには別に過半数の意見を押さえる必要など全くなく「ある程度の数の声が社会で上がっている」だけで十分なのです。問題は、その「閾値」がどれくらいなのか、という点だけです。
 そう考えていくと、実は安楽死制度の議論は、反対派を賛成派に転じさせるような議論をしていくのではなく、「裾野を広げる」キャンペーンをしていった方が効率が良いことになります。キャンペーンによって興味関心を持つ人が増えさえすれば、その人たちは自由意志によって賛成・反対と分かれていきますが、結果的に「賛成の声」の絶対数が高まることで、社会は変わっていくのです。

 ちなみにこのロジックは、他の様々な場面で応用できます。

 例えば、「良い写真を撮りたい」と言っているのに、1日に写真を1枚しか撮らないとしたら、1日に1000枚写真を撮る人にかなうはずがありません。それは単純に「たくさん撮った方が写真がウマくなる」だけではなく、絶対数を高めることで、その中に「良い写真」が含まれる確率を高めるということです。
 ビジネスでも「成功したい」と思うのであれば、とにかくチャレンジしてみる母数が増えなければ成功者も出ません。だとしたら、完璧なビジネスプランが組みあがるまでスタートを遅らせ続けるのではなく、失敗したとしても何度でも気軽に挑戦できる、という文化がある方が、結果的に成功する人たちは増えていくはずです。

 このように「母数を増やす」アプローチは、「質を高める」アプローチと時に対になって語られることが多いですが、僕は活動においてはまず「母数を増やすアプローチ」こそ重要と考えています。
 安楽死制度の議論を行う上でも、この「母数を増やす」ことを意識して、あまり苦しそうに議論したり、攻撃的な議論を繰り返したりしないほうが、結果的に安楽死制度が具体化するのを早めると、僕は思っています。

 そして、そうやって増やした母数の方々が、より建設的な議論を展開できて、時間と労力を無駄にしないために、僕はこのシリーズをこれまで書いてきたわけです。つまり、写真で例えるなら1000枚中1枚の良い写真しか得られなかったのを、3枚、4枚と増やしていけるためのアプローチです。これからも、このシリーズを読んでいただければ嬉しいです。


https://note.com/tnishi1/n/n5a712e933770?sub_rt=share_h

2024年3月13日水曜日

それは実質安楽死の容認なのでは~安楽死制度を議論するための手引き14

それは実質安楽死の容認なのでは~安楽死制度を議論するための手引き14

2024年3月7日 00:39

論点:京都地裁判決は実質的な安楽死の容認になり得るか

▼前回記事


 2023年3月5日、難病のALSを患う京都市の女性を、本人からの依頼で殺害した罪などに問われ無罪を主張していた医師に対し、京都地方裁判所は「短時間で軽々しく犯行に及び、生命軽視の姿勢は顕著で強い非難に値する」と述べて、懲役18年の判決を下しました。

 被告となった医師は無罪を主張していたそうですが、この判決の内容自体は、現行法を鑑みて、犯罪性を否定できる要素はなく、量刑の軽重は別として有罪は免れ得ないものでしょう。
 被告は控訴するようですが、大勢は決したと考えて良いかと思います。

 僕たちが論点とすべきはその先、今回の判決で京都地裁が示した「患者などから嘱託を受けて殺害に及んだ場合に、社会的相当性が認められ、嘱託殺人の罪に問うべきでない事案があり、それに必要な要件」についてです。

 以下、その要件についてNHKの記事から引用します。

【前提となる状況】
まず前提として、
▼病状による苦痛などの除去や緩和のためにほかに取るべき手段がなく、
かつ、
▼患者がみずからの置かれた状況を正しく認識した上で、みずからの命を絶つことを真摯に希望するような場合としました。
【要件1 症状と他の手段】
そのうえで、医療従事者は、
▼医学的に行うべき治療や検査等を尽くし、ほかの医師らの意見なども求め患者の症状をそれまでの経過なども踏まえて診察し、死期が迫るなど現在の医学では改善不可能な症状があること、
▼それによる苦痛などの除去や緩和のためにほかに取るべき手段がないことなどを慎重に判断するとしました。
【要件2 意思の確認】
さらに
▼その診察や判断をもとに、患者に対して、患者の現在の症状や予後を含めた見込み、取り得る選択肢の有無などについて可能な限り説明を尽くし、それらの正しい認識に基づいた患者の意思を確認するほか、
▼患者の意思をよく知る近親者や関係者などの意見も参考に、患者の意思が真摯なものであるかその変更の可能性の有無を慎重に見極めることとしました。
【要件3 方法】
また、患者自身の依頼を受けて苦痛の少ない医学的に相当な方法を用いるとしました。
【要件4 過程の記録】
そして、事後検証が可能なように、これらの一連の過程を記録化すること

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240305/k10014379911000.html

 この要件自体は、名古屋安楽死事件(1962年)、東海大学病院安楽死事件(1995年)の際に示された要件をほぼ踏襲したものではあるものの、この2023年に改めてこの要件が示されたことの意義は大きいのではないでしょうか。
 東海大学病院安楽死事件でも、この要件を厳格に満たした場合については「違法性は無いために阻却される(刑事責任の対象にならず有罪にならない)」とされており、今回の京都地裁の判決は、その判断を強化したものといえます。
 つまり今回の事件については、明らかに4要件を満たしていないため有罪は免れ得ませんが、逆に言えば、もっと時間をかけて丁寧に手順を踏めばこの4要件を満たすことができたかもしれません。そして、今後新たに安楽死を希望する方がいた場合に、これらの4要件を満たすことが可能なら、日本でも実質的に安楽死は可能になったと言えるのではないでしょうか。

4要件は本当に満たせるものか検証してみよう

 ではここからは、この4要件は本当に満たせるものなのかを考えてみましょう。

 まず、前提条件の「病状による苦痛などの除去や緩和のためにほかに取るべき手段がなく」のところが引っかかります。緩和的鎮静という手段がある以上、それを行わずに安楽死を実行すれば要件を満たさない可能性があります。なので「緩和的鎮静が適応とならなかった」ことを記録にきちんと残しておく必要があります。

 次に、「死期が迫るなど現在の医学では改善不可能な症状がある」は、いわゆる「余命要件」について示しているわけですが、ここで具体的に「○○か月」といった数値を示していないのが、曖昧でずるいなと思います(安楽死制度を認めるための判決ではないため仕方がないのですが・・・)。

 少なくとも6か月以上の予後を見越しているのに、安楽死を実行してしまったら、さすがに要件を満たしたとはいえないでしょう。では、何か月なら良いのか?というのに医学的・法的な根拠はありませんが、予後1か月(つまり週単位の予後)が予測される場合なら、要件を満たしていると判断されるかもしれません(その根拠とするのに用いた予後予測ツールと計算方法を記録に残すべきでしょう)。

 それ以外については、患者さん本人とその家族の同意、第3者の医師の認証、また安楽死に使用する薬剤の選択などを満たせば良いため、これらはオランダなど諸外国の手順を参考にすれば十分に可能でしょう。

 こう考えていくと、理屈としては日本においても安楽死の実行は可能になってきているともいえるかと思います。今回の京都地裁判決では、「肉体的苦痛」だけに限定する文言が入っていないことも大きいです(これについてはソースがNHK報道のみなので判決文が入手された時点で確認が必要ですが)。
 ネックとなるのは、判例が現時点では全て地裁判決であることです。できれば最高裁での裁定が欲しい。今回の嘱託殺人事件においても、裁判は最高裁までは進むかもしれませんが、今回の4要件についての可否を議論するのが本質ではないでしょうから、その意味で安楽死制度を前に進ませるようになるかは期待が薄いかと思います。

 よって、今回の京都地裁判決で、東海大学病院事件判決と比較すれば、安楽死制度は実質的に前に進んだとは言えますし、京都地裁判決を元に安楽死を実行したとしても罪に問われない可能性は高くなってきたとは言えますが、この判決を元に安楽死を実行に移す医師が出るところまで進んだか、と問われると現実的ではない、というのが僕の結論です。

 とはいえ、この連載でもいつも申し上げていることですが「安楽死でしか苦痛を取り除けない」方が世の中に存在することは事実です。緩和的鎮静はその次善にはなり得ますが、代替ではありません。
 スイスの自殺幇助団体「ライフサークル」も新規会員の受け入れを停止しており、日本人が安楽死を行える道はより狭くなってきています。
 安楽死制度の是非よりも、そのための議論が止まっていること自体が問題と僕は考えています。

https://note.com/tnishi1/n/n693b17828fcf?sub_rt=share_pw

2024年3月9日土曜日

母を亡くした弘兼憲史「僕は安楽死で気持ちよく死にたい」

母を亡くした弘兼憲史「僕は安楽死で気持ちよく死にたい」

弘兼氏も島耕作もまだまだ現役だが(時事)

漫画家の弘兼憲史氏(73)は、代表作『課長島耕作』で自分と同年齢の団塊世代サラリーマンを主人公に、男の出世や恋愛模様を描いてきた。現在、70代となった島耕作は相談役として活躍中だが、団塊世代にも確実に人生の最後のステージが近づいている。これも代表作である『黄昏流星群』では中年・熟年・老年の恋愛をテーマにしており、生涯輝き続ける人生が弘兼作品の魅力のひとつだ。ちなみに弘兼氏の妻である漫画家の柴門ふみ氏は、2020年に大ヒットしたドラマ『恋する母たち』の同名原作で、40代女性たちの不倫を赤裸々に描いた。夫妻はバブル時代からコロナ禍の令和に至るまで、作品を通じて常に日本人の「半歩先」を見せることでファンを惹きつけている。

 社会人としても男(あるいは女)としても、最後の時まで「現役」でありたいというのは、おそらくすべての人の願いである。しかし、現実はそう理想通りにはいかない。『週刊ポスト』(2021年1月4日発売号)では、国論を二分する22のテーマについて、各界論客が激論を戦わせている。弘兼氏は「安楽死に賛成か反対か」というテーマで「賛成論」を述べている(反対論は横浜市立大学准教授の有馬斉氏)。「生涯現役」を描き続ける弘兼氏は、実は同誌取材の直前に実母を亡くしていた。記事では収録されなかった亡き母への思いと、自らも安楽死を望む考えを改めて語った。


2025年には、我々すべての団塊世代が75歳以上の後期高齢者となり、2030年頃になると次々と死んでいきます。そうすると、今のコロナ禍のように、病床が足りなくなって、本来なら病を治して社会復帰するはずの人たちのための病院を寝たきりの老人が占領するような現象が起きるでしょう。「長寿国」というのは、裏を返せば若者に社会保障の負担をかける社会です。だから僕は、「安楽死」を真剣に検討する時代だと思っています。

 うちのおふくろが10日前に死んだんですよ(取材は2020年12月21日)。緩和ケアのために最後は入院しましたが、がんでずっと意識不明でした。医師からは「胃ろう(チューブで胃から直接栄養を摂取する医療措置)をしましょう」と言われましたが、姉たちと話して、痛みをとってあげるのが一番だろうということで、「やめましょう」「このまま逝かせましょう」と決めました。最後に会って東京に戻ってきたら、その3日後に亡くなりました。

 僕は終末期に痛みがあるなら早く逝かせてあげたほうがいいと言っていたのですが、他の家族は「おばあちゃんをもっと生きさせてあげたい」と言う。「もっと生きてほしい」というのは、もちろんその人のために言ってるのだろうけど、本当にその人のためになっているのかはわかりませんよね。本人の意思より家族の希望が優先されるというのは、エゴといえばエゴなんです。


やっぱりお医者さんは使命感もあるし、自分たちの技術も磨いていきたいから、医学の発達によってみんなが長生きして延命できるようになっていく。でもその技術は本当に社会のためにも本人のためにも必要なのか。みんなが100歳まで生きるようになったら誰が面倒を見るんですか? それは国家じゃないですか。そうなると税金はどんどん高くなる。残酷な言い方になりますが、医学の進歩は国の無駄を増やしている面がある。

 どこかで、もっと人の死をシビアに見なければいけなくなる。死にたいという人には死んでいただくという世界が必ずやってきます。日本的な「肌が温かくて呼吸さえしててくれればいい」といったナイーブな死生観は現実的に受け入れられなくなっていくでしょうね。もしいま安楽死が認められるのなら、僕だったら痛い思いをして半年生きるよりも気持ちよく死にたい。実際は僕らが死んでから、まだ相当あとの世界かもしれませんが、そういう社会を覚悟しなければいけないのではないでしょうか。


https://www.news-postseven.com/archives/20210110_1626804.html?DETAIL

2024年2月1日木曜日

すべり坂は止められるのか~安楽死制度を議論するための手引き13

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すべり坂は止められるのか~安楽死制度を議論するための手引き13

2024年1月30日 17:16

論点:いわゆる「すべり坂」を予防することは可能か?

 前回の記事では、認知症のある方に対し、健常者の論理で回っているこの世界の「常識」を当てはめて判断するのは、いわゆる「すべり坂」を下りかけているように思えてなりません、という話をしました。

 これは、オランダだけの問題ではなく、安楽死制度を許容した他の国でも同様で、制度が定められた当時に想定していた安楽死対象者よりも幅広い方へその権利が与えられるようになっています。
 これがまさに「安楽死制度をひとたび認めてしまうと、最初は肉体的苦痛に苛まれる終末期患者のみ、としていた対象が、あれよあれよと精神的苦痛や小児、終末期ではない方々にまで拡大していく」という「すべり坂現象」です。当初、オランダもその他の諸外国も「すべり坂」なんてことは起こらない、と嘯いていたにも関わらず、少なくとも遠い国である日本から眺める立場では、どう見ても彼らは坂をずるずると下って行っています。
 しかも恐ろしいのは、その国の方々が「下って行っている」ということに無自覚なのではないか?と見えることです。もう少し正確に言えば、実際にはすべり坂を下って行っているにも関わらず、そこにもっともらしい理由をつけて「これはすべり坂ではない」と言い張っているだけのように見えます。

「すべり坂ではない」という反論では、「こういったケースは本国において、社会的に十分な議論を重ねたうえでの結末だ。裁判でも何度も審議された。そもそも制度とは、国民が求めるものに従って常にアップデートされるべきだ。それは安楽死制度だって例外ではない」などと言うでしょうか。
 しかし、「国民が求めている」「十分な議論と法的検討を重ねた」「改悪ではなく改善だ」という見え方は否定しないまでも、それと「すべり坂かどうか」は別の枠で考えるべきです。「すべり坂」が、先に示したように「ひとたび安楽死制度を認めると、その対象者がどんどんと拡大していく」と定義されるのであれば、諸外国はどんなに言い訳をしたところで、確実にすべり坂を下っています。
 それならいっそのこと、「安楽死制度を認めると、(少なくとも現状のシステムの中では)すべり坂を下っていくことを防ぐことはできない」と開き直ってくれた方が、日本を含めた他の国々でも安楽死制度を議論・設計するときの役に立つのですがね・・・。

そもそも、なぜ「すべり坂」を下ってしまうのか

 どんなに優れたシステムがあっても、そして社会が有効に機能していたとしても、安楽死制度は「すべり坂」を下って行ってしまうのなら、その理由は何でしょうか。
 もちろん様々な理由は考えられると思いますが、僕はその一番の理由は「死による問題解決の甘美さ」だと思っています。
 死による問題解決が甘美、などという言葉を用いると少なからず批判を受けそうですが、これは宗教的にも何百年もの昔から言われ続けてきたことです。例えば、宗教はその教えによって死を超越した境地にたどり着くことをその目的としている場合がありますが、それと同時にその死の世界に自ら赴くことを禁じていたりします(そうではない宗教もありますが)。これは、宗教的解脱によって、死の恐怖から解き放たれたとき、生の世界の醜さや理不尽さよりも死の世界を求める欲求が勝る場合があるから、とされているそうです。
 そして僕自身も、病院で死に瀕している方々と何百人と接してきた中で「死による問題解決」への誘惑を感じたことは1度や2度ではありません。毎日毎日繰り返される、怨嗟と悲嘆の声。仮に、身体の痛みは完全にゼロになったとしても、患者さんたちのこの世への呪いの声はとどまることを知らない・・・という場面はしばしばあります。その声を聞くために、毎日毎日病室へ足を運ぶ日々を想像できますか?
 もちろん、僕らにとってはそれが仕事ですから、その声を受け止めることからすべてが始まる、という面がありますし、患者さんの死を望んだことなどは一度たりともありません。しかし、患者さんが徐々に弱っていって昏睡状態になり、呪いの声を出せなくなったその朝に「ああ、もう彼の苦しみを受け止めなくても良いんだ」という安心感が心の片隅に浮かんでぞっとすることがあります。医師としての倫理観があるから、湧き上がってくるそんな感情に蓋をすることは可能ですが(それはおそらく宗教者も同じ境地なのでしょうが)、感情コントロールの訓練を受けていない市井の方々が、「死による問題解決」の誘惑に耐えられる人ばかりでしょうか?
 僕は諸外国の安楽死制度が、明確にすべり坂を下って行っている現状に対し、「人であれば当然そうなってしまうだろう」とある意味同情的に眺めています。

では「すべり坂」は予防可能なのか

 僕は先ほど、安楽死制度を運用している諸外国では「安楽死制度を認めると、(少なくとも現状のシステムの中では)すべり坂を下っていくことを防ぐことはできない」ことをまずは認めるべきだ、といった主旨の発言をしました。
 それはまず、この前提を共有できなければ、その予防を考えることは不可能だからです。例えるなら「風邪なんて存在しない」と主張されている社会で、風邪の予防を考えようなんて気にならないですよね、ということです。「すべり坂は存在する」。この前提から予防できるかを議論すべきです。安楽死制度に賛成派の方は「すべり坂は存在しない」という主張はもう取りやめた方が、建設的な議論に向かえると思いますよ。

 また一方で、ここで考えるべきは「すべり坂があるから安楽死制度は止めよう」ではありません。安楽死制度をめぐる議論では、反対派からこの内容も飽きるほどに提言されますが、賛成派から「運用をきちんとすればすべり坂は防げる」という反論をくらって手詰まりです。その後は「できる」「できない」の水掛け論が繰り返されるだけで時間の無駄ですから、そんな前提もまた止めましょう。

 考えるべきは、「安楽死制度に必ずつきまとう『すべり坂』を、完全に止める手立てはあるか」という手段です。それが考えつくのであれば、賛成派の優勢になりますし、考えつかなければ反対派の勝利になってしまいます。
 さて、読者の皆さんなら、どんな運用方法が思いつきますか?

 僕なら・・・安楽死制度については間接民主制ではなく、ゆるやかな直接民主制を採る、というのを一案としてあげます。
 つまり、国民投票で制度のすべり坂を防ごうという魂胆です。しかも、単にその投票で過半数を獲得すれば良いという話ではなく、完全に国民の50%以上が制度の改変に賛成の意図を示さない限りは無効、とする案です。
 例えばですが「制度の変更が国会から発議された場合に国民投票を行い、有権者の投票率が70%以上かつ賛成票が75%を超えた場合」に、制度を改変できる、といった条件を最初から法律の中に盛り込んでおく、といった運用だとどうでしょうか。憲法改正よりも厳しい条件なので、この運用を実際に通すのは難しいかもしれませんが。
 しかし、安楽死制度は国民一人一人の生死に関わるものですので、それが「すべり坂」を下らないようするためには、少なくとも国民の半分以上は明確に賛成している、という状態でなければ「国民みんなでその道を選びました」とは言えないのではないかなと僕は思います。
 ちなみに、ここで述べている国民投票の案はあくまでも「制度の対象となる方の範囲を広げる」場合に行われるものであって、制度を開始するときにもこの手続きが必要かといえば、そうは思いません。制度全体の設計をするためには、どうしても総花的な部分が出てこざるを得ず、それを国民投票にかけるなどすれば「総論賛成、各論反対」の方々が大量に発生して、結局のところ国民投票で否決されるだろうことは目に見えているからです。なので、制度の全体については間接民主制、つまりは国会で十分に議論をして決定すれば良いと僕は考えています。
 それに対し、対象者の拡張に関する国民投票はワンイシューで投票することになるので、総論は存在せずに各論のみですから、話が分かりやすく国民投票に向いていると僕は思います。
 例えば、これまでの論点でも出てきたように
「身体的苦痛だけではなく精神的苦痛に対しても対象を広げて良いか」
「成人だけではなく小児にも対象を広げて良いか」
「終末期(例えば6か月以内の余命)に限る、という条件は撤廃して良いか」
など、その発議は国会で行い、そののちに上記のような国民投票を入れる仕組みにすれば、かなりすべり坂は防げるように思います。

 ただもちろん、この案もまったく完璧とは言えません。本当に、投票率が70%を超え、そのうちの賛成票が75%、という条件をクリアしてしまう可能性もあるからです。その場合は、国民がその道を自ら選んだ、ということでそれもまた良しとするしかないかなと。

 皆さんの「すべり坂」へのご意見もぜひお聞かせください!

2024年1月16日火曜日

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(後編)

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(後編)

2024年1月13日 13:29

論点:認知症になる前に書いた安楽死の希望は、認知症後の患者さんにとっても有効か?

 前回の記事では、オランダの認知症をもつ方に対する安楽死およびその裁判について取り上げました。

 オランダでは、事前に書面で意思表示をしていれば、その後に判断能力を失ったとしても事前意思が「現在の意思」として取り扱われることが合法となったのですが、さて日本ではどうしていくべきでしょうか。

 僕は前回記事の最後に
「認知症をもつ方に対し、過去~未来まで全てが揃っている僕たちが、その常識を当てはめて安楽死の是非を議論するのは、そもそもとして間違っているのではないか?」
 という問いを投げました。
 今回はここから、この問題を掘り下げていきましょう。

 そもそも、本人であっても過去と現在の意思が一致していることって、そんなに当たり前のことでしょうか?
 10年前の自分と、現在の自分を比較して、価値観や考え方、そして死生観すらも、気づかないうちに変わっている方は少なくないと思います。さらに、自分の10年後、20年後を正確に想像できる人なんてどれくらいいるでしょう?例えば自分は20年後には還暦をこえて高齢者となっていくのですが、その時に自分が何を考えているかなんて想像もできません。もう仕事をセミリタイアして、遊びまくるぞ~なんて思っているかもしれませんし、今と変わらず仕事に追われて全国を飛び回っているかもしれません。病気や事故などで心身に病を抱え、仕事だ遊びだなんて言ってられない人生を歩んでいるかもしれませんよね。そんな状況になったら何を考えるか、なんてその時になってみなければ分かりません。

 では仮に、「20年後に認知症を抱えている」状況を想像してみましょうか。ひとくちに「認知症」といっても様々な状態がありますが、ここでは論理的整合性や記憶の整合性が失われ、自分一人だけでは生活が難しい状態だとしましょう。
 では、こうなった自分を想像してみて、「それなら今から未来の自分がどうするかを決めておきたい」と考えることが腑に落ちるでしょうか。

 逆に考えてみても良いですよ。

 今、この記事を読んでいるあなたは何歳ですか?30歳、40歳、50歳?20歳以下の人はすみません、仮定が成り立たないのですが、「20年前の自分に今の生き方を決められていたら」どう思いますか?40歳の方であれば20歳の自分に、ですよね。その時仮に、「40歳になったらきっとシワとかシミだらけの顔になっているだろうから、整形手術でも受けてきれいで若々しい顔でいて欲しい」とか言われていても、実際に40歳になった顔を見てみて「まあ、この顔はこの顔で悪くはないよな」と思ったりするでしょう。
 皆さんは20年前に考えていたことの通りに生きていますか?どちらかといえば「あの頃はまだ未熟だったな」と思い返すことの方が多いのではないでしょうか。でも、その当時は「いまの自分の考えが自分の人生でベストな判断」と思って生きてきたでしょう。少なくとも、「40歳の自分の方が良い判断ができるはずだから、判断は保留」して生きてきた方はほとんどいないはずです。それなのに、生死に関することは20年前に取り決めたことに従って生きる、としても良いのですか?

 そうすると反論として「生死に関することは20代とか40代とかでは考えなかった、60代70代になって初めて人生の総決算をするために考えるし、その後に認知症に陥るのがわかっているのであればなおさら、そのときの判断をベストとして良い」という意見が出るかもしれませんね。
 しかしそれは、人生観や死生観までもが60歳70歳がベストということになりますか?仮に認知症を抱えたとしても、80歳のいまの人生観は間違いで60歳のころの人生観に従うべきだ、とする根拠になりますか?

 そしてさらに考えるべきは、認知症を抱えた後の自分は、それ以前の自分とは整合性が取れていない、という面です。

先ほどまでの、「40歳になった自分」と「20歳の頃の自分」には、考え方や価値観に違いがあるにしても「同一自己」としての連続性・整合性はあるはずです。しかし一方で、「健常な60歳の自分」と「認知機能が低下した80歳の自分」の間には、本人の中での時間的連続性や整合性は失われてしまっているかもしれません。この状況において、「人生には過去があって、未来があって、そして現在がある」のが当然の社会に生きている僕たちの論理を当てはめて良いのでしょうか。それはどうも、強者の論理に傾てはいませんか?そして、強者の論理に傾くということは、すなわちそこに優性思想が隠れている可能性があり、その論理展開で安楽死制度を語っていくことは、制度化の賛成派にとっては不利に働くと僕は思います。

 もちろんこれは、法的な意味での同一性や人権としての個の保持とは別の話です。オランダの考え方は、どちらかと言えばこの法的権利としての考え方から、「事前指示書による安楽死」が認められているのでしょう。もちろん法的・人権としては日本でも同一性は保持されるべきですが、安楽死に関わる意思決定として、「80歳の自分」の価値観・人生観を無視して、「60歳の自分」の意志を優先するのはどうなのか、と考えなければなりません。

 この連載は、これまでも何度か申し上げていることですが、そもそもの前提として安楽死制度の賛成・反対を僕自身が明確に示すためのものではありません。あくまでも、「安楽死制度を議論するためにはこういう論点が考えられて、この点をきちんと考えないと賛成派も反対派も、有効な議論になりませんよ」という材料を提供するためのものです。
 ただ、僕個人はどちらかといえば安楽死制度には反対の立場を取っている以上、どうしても賛成派にとっては耳が痛い論調になることは事実です。
 今回のオランダの決定についても、僕個人的には賛成はしかねます。欧米的な契約論と個人主義的考えから言えば、この決定に妥当性があることはわかります。ただそれでも、今回の前編・後編で指摘したように、そこに「強者の論理を持ち込む」ことを許容したオランダの判断は、いわゆる「すべり坂」を下りかけているように思えてなりません。
 認知症をもつ個人の意思を、ひとりの「今そこにいる」人間として評価する。そんな、言葉にすれば当たり前のことを、実行するのがどれほど難しいことか。それはやはり自分の中にも「強者の論理」を持ち出して何とも思わない「無意識の差別」が隠れているからかもしれません。


https://note.com/tnishi1/n/n38d38797e5a5

2024年1月5日金曜日

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(前編)

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(前編)

2023年12月31日 16:44

論点:認知症になる前に書いた安楽死の希望は、認知症後の患者さんにとっても有効か?

 さて、前回の記事では「認知症をもつ方の意志決定はどうすれば良いのか」を考えるため、まずは現在における「人生会議=Advance Care Planning」について見直してみたのでした。

 では今回は、さらに考察を深めて「認知症をもつ方に対して安楽死制度は適応とすべきかどうか」を考えてみましょう。

オランダでの強制安楽死事件

 認知症をもつ方に対する安楽死制度を考えるために、実際にオランダで起きた事件を取り上げましょう。
 これは2016年に、アルツハイマー型認知症を患ったある患者さんに対し、安楽死を行った医師が、検察に起訴されたという事件です。

 患者さんは74歳の女性で、2012年にアルツハイマー型認知症と診断され、その1か月後にはオランダ安楽死協会にて安楽死要請書に署名しています。 
 盛永審一郎著『認知症患者安楽死裁判(丸善出版)』によると、その認知症条項には
「私は夫と一緒に家に住むことが大好きです。それがもはやできなくなったとき、私に自発的安楽死を適用する法的権利を行使したいと思います。確かにいえることは、本当に私は認知症の高齢者のための施設に置かれたくないということです」
と記載されていたとのことです。
 そして、同書の記載からその後の経過を追うと、患者さんは次第に認知機能が低下していき、2016年には介護施設に入ることになりました。そこで主治医となった医師が、安楽死宣言書の存在を耳にし、さらに施設入所後「落ち着きがなく、混乱している」「患者が死にたいと少なくとも1日20回は口にする」といった状況をみて、安楽死の適用を考え始めたそうです。
 そのうえで、医師は家族に状況について説明し、他のスタッフや安楽死の専門施設の医師、精神科医などとも相談したうえで、「安楽死の要件を満たしている」と判断しました。
 2016年4月22日、主治医は家族が同席する中で、患者さんを眠らせるために彼女のコーヒーに睡眠薬を入れて眠らせ、安楽死の薬を投与しようとしたが、患者さんが起き上がろうとしたために家族に患者さんの体を押さえさせ、そのうえで薬の投与を行ったということです。ちなみに、睡眠薬の投与も、安楽死の実行についても「患者は既に病気についての認識や、意思決定能力が無い」との考えのもとで、本人への相談や事前告知は行われなかったそうです。

 この安楽死については、オランダで安楽死法が成立して以後、初めて医師が訴追される事件となりました。

 安楽死審査委員会は、患者さんが自ら安楽死の要請を行っていないにも関わらず医師らが安楽死の実行を決定したとし、また実際に実行の際に患者さんが起き上がるなど処置に抵抗するそぶりを見せたにも関わらず、それを押さえつけて安楽死を完遂したことを問題視しました。
 しかし、この委員会報告などに基づく訴追の結果、地方裁判所が出した結論は「無罪」というものでした。安楽死法には「書面による宣言書を患者自身が作成していた場合、医師は、この要請に従うことができる」とされており、「患者が意思表示できなくなった場合には、書面による意思表示書が現在の意思とみなされる」とするオランダ保健福祉大臣の安楽死法に関する回答も、2014年に出されていたのです。

 そして、オランダ最高裁判所は2020年、
「これまでは、患者に対して安楽死を求める意思を実施前に確認する必要があったが、今後はその必要がない」
との判断を下しました。
 つまり、認知症をもつ患者さんが事前に書面で意思を示していれば、その事前意思に従って安楽死を施すことは合法である、とされたのです。

認知症をもつ方の現在の意思とは?

 さて、では日本で安楽死制度を作るとして、このオランダの要件を日本にも導入すべきでしょうか?

 そもそも、認知症をもつ患者さんが現在見ている世界は、認知症が無い時に「認知症になったら・・・」と想像していた世界と本当に同一なのでしょうか?
 認知症は、本当にざっくりした言い方をすると、「過去を失っていく病」という面があります。最初のうちは、今朝食事したかどうか(何を食べたかではなく)や、昨日誰と会ったか、といった比較的最近の事柄を覚えていられなくなります。段々と、過去に獲得した様々な経験や技術も失われていき、自宅の場所や電話番号、親しい人の顔、トイレへの行き方、そして最後には食事の食べ方も分からなくなってしまう、といった経過を辿ります。その過程は、1日2日で進行していくものではなく、年単位で悪化していきますが、最初のうちは「自分は認知症である」と認識できたものも、その認識が失われていくため「何が何だか分からない」となり、世界に対して恐怖を覚え始めたりする場合もあります。
 皆さんは「過去を失う」経験をしたことが無いから、その恐ろしさがどれくらいか想像したことが無い・・・というか、生まれてこの方当然のように存在していた「過去」が無くなってしまうことなど、想像もできないはずです。
 人は、「過去」があり、「未来」を想像できるからこそ、「現在」に立脚できる、という考え方があります。つまり、その「過去」がぐらつくことは「未来」を失わせ、そして「現在」すらもあやふやにしてしまう、という恐さがあるのです。
 ただ、逆に言えば認知症の患者さんには「現在がある」と言い換えることもできます。「過去」や「未来」は存在しなくても「現在」は感じることができる。認知症があっても、いまどうしたいのか、という感情はその人の本当の感情です。

 そう考えていくと、認知症をもつ方に対し、過去~未来まで全てが揃っている僕たちが、その「常識」を当てはめて安楽死の是非を議論するのは、そもそもとして間違っているのではないか?とも思うのですがいかがでしょうか。
 次回、後編ではこの点についてもっと深く掘り下げていこうと思います。


https://note.com/tnishi1/n/n80fe3d2b38f5

2023年12月10日日曜日

人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか~安楽死制度を議論するための手引き11

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人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか~安楽死制度を議論するための手引き11

2023年12月1日 17:01

論点:人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか

 気がついたらこの連載も3か月ほど間が空いてしまいました。
 テーマはいろいろと考えていたのですが、今年度は並行して3冊の出版に取り組んでおり、こちらに割ける時間がほとんどなかったのです・・・と言い訳。

 前回は「終末期の鎮静」に関するガイドラインが改訂されたため、その解説をしていたのでした。


 今回からは話題を変えて、いわゆる「人生会議(ACP=Advance Care Planning)」をテーマに、「認知症をもつ方の意志決定はどうするのが良いのか?」を考えていきましょう。

人生会議って何だっけ

 最近また、「高齢者の延命治療は保険外診療にすべきだ」とか「認知症で食べられなくなった高齢者に胃瘻を作るのは無駄だ」みたいな議論が喧しいですね。落合陽一さん・古市憲寿さんの発言しかり、成田悠輔さんの発言しかり、こういった考え方は定期的に世間に投げられては、その都度でこりもしない表層の炎上が繰り返されます。

 そして、そういった極論に対してカウンターで繰り出される反論の中に「終末期や認知症になる前に、自身の意思をきちんと周囲の方に伝える『人生会議』をするべきだ」といった意見が必ず出ます。

 でも僕は、それは机上の空論と感じてしまうんですね。

 いや、「人生会議をすれば、終末期や認知症になったときに本人の意思が治療方針に反映され、本人の尊厳も守られるうえに家族も助かる」っていうのは(多くの場合においては)真実だとは思っていますよ。医療の現場においても、例えば意識不明の重体で患者さんが救急搬送されてきたときに家族から、
「父は普段から、自分の人生について○○ってよく発言していました。かかりつけの先生と話し合ったことを記した資料もあります。だから今の状況ならきっと父は××してほしい、って言うと思います」
なんて話があれば、僕らとしては大いに助かります。

 では、なぜ今はそうなっていないのでしょうか?

 国民の間で、人生会議がどれくらい普及しているかご存知でしょうか?
 厚労省が、2022年末から2023年初めにかけて国民や医療者を対象に人生会議の普及率を調査した結果があります。

https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001103155.pdf

 この中で、どれくらいの国民が人生会議を知っていたと思いますか?
 回答を得られた3000人のうち、「よく知っている」と答えたのはわずか「6%」です。6%と言われてもピンとこない方のために実数を計算すれば「180人」。しかも、さらに言えばこの調査の回収率は50%なので、実際には6000人に調査用紙を配布して、そのうち「調査に協力しよう」って意識をもってくれた人の中でこの数字ですからね。調査用紙を見なかったり、見ても捨ててしまった人なんかを含めれば、普及率はもっと小さくなる可能性が高く、最悪「3%」の可能性だってあるのです。

「でも、医療者の方がしっかり人生会議を促していければ・・・」という意見もあるでしょう。
 しかし、そこでさらに絶望的なのが、同調査で医師・看護師についても「人生会議を知っていますか」と尋ねたところ、「よく知っている」と回答したのが50%に満たないという結果だったのです。
 このような状況で、先ほど紹介したような「救急搬送で運ばれてきた患者・家族がかかりつけ医と日常的に人生会議を行っていた」といったケースなんて、出会うだけで奇跡というものでしょう。

 もちろん、2017年に人生会議の普及率を調査した結果に比べれば、国民・医療者ともその認知度は向上してはいるため、今後10年も経てば、人生会議を知っている、という人口は増えていく可能性はあります。
 しかし、その言葉や概念の普及と、人生会議を実践する、という間にはまた大きな隔たりがあることが、「人生会議を行えば意思決定の助けになる」というお題目を空論と化してしまっています。

人の生き方は一様ではない

 そもそも人は、そんなに素直に生きている存在でしょうか?
 今日は「こんな感じで生きたい」と思っていても「明日はそんな感じで生きたい」って思うのが普通じゃないですか?と、言うより普段生活していて「自分の生き方」なんて考えないのが普通ですよね。
 もちろん、病気を患っていたり、高齢になれば、若い健常者と比較して自らの今後を考えている方は増えていきます。しかしそれでも、人の生き方は一様ではありません。

 僕の外来でも、全身に癌が広がってしまった高齢者に対し、抗がん剤治療をするか、緩和ケアに専念して体力を温存する治療にするか、と尋ねたとき、
「いやー、もう齢だからね。十分長く生きたし、これ以上苦しい治療をして長生きしてもね」
とおっしゃるので、
「じゃあ、緩和ケアに専念する方針で良いですね」
と僕がお返しすると
「何か抗がん剤以外に良い治療は無いかね」
とおっしゃるかたが大勢います。
 このやり取りだけ聞けば、患者さんの発言は矛盾していると思いませんか?
 では、楽な治療であれば良いのかと考えて
「抗がん剤でも、若い方にするようなきつい治療ではなく、副作用を最小限にして寿命もそこそこ延ばそう、って方法もありますよ」
と提案しても
「いや、だからもう長生きはしなくて良いんですよ」
と返されるので、医者としては混乱してしまうのです。

 でも、それが普通の人間なんですよね(上記のやり取りだって、理論的には矛盾していても、実際の現場で聞いていたら医療者以外なら違和感を感じないかもしれません)。
 人の生き方は一様ではないのです。たくさんの矛盾を抱えていて、それを言語化することも整合性を取ることもせず、ただ生きている。それを「生きたい」って思いで括ってみると、何となくその人の全体が見えてくる。
 一方で、西洋医学的な考え方は、「対象を切り分けて理解する」のがベースですから、こういった矛盾を内包した「生き方」とは相性が悪いのですよね。絶対に切り分けられないところがあるから。人生会議もそもそもは西洋医学的・個人主義的な発想から出発した概念ですから、それを無理やりに人生全般に当てはめようとすると、どこかに歪みが生じてしまうのは当然のこと。

 もちろん、患者さんや家族の中にも、自分の生き方や価値観をきちんと論理的に言葉にできる人もいます。でも、そうではない人の方が圧倒的に多いです。そしてそれは別に悪いことではなく当然のこと。「ただひたむきに生きる」ってこと、それを別に意識しないで生きているってことのほうが自然なんです。

 人の営みとして、自然に、わかりやすいものであればもっと早く普通に広まっているんです。
 人生会議の枠組みは、あまりにも人の感情として自然とかけ離れているから、広まらないんです。

自分が死ぬと思っている人はほとんどいない

 そもそも、ほとんどの人は「自分もいずれ死ぬ」ということを意識していません。国が違ったらわかりませんが、少なくとも日本人の多くはそうです。60歳の人は80歳まで生きられると思っていますし、80歳の人は100歳まで生きられると本気で思っています。もっと言うと、医者から「あなたの余命は1年ないと思いますよ」とはっきり告げられても、本人は「そうは言っても3、4年は生きられるだろう」と信じていたりします。

 ただ、それはある意味幸福なことではあります。日常に死があふれていた中世までであれば、人は事あるごとに死の恐怖に怯えなければなりませんでした。現代になって、自分の死が身近ではないからこそ、僕たちは安心して暮らしていけますし、仕事や遊びに没頭することもできるようになったといえます。

 その意味で現代は、そもそも死を考えるのに向いていない
 僕からしてみれば、「高齢者の延命治療は保険外診療にすべきだ」とか「認知症で食べられなくなった高齢者に胃瘻を作るのは無駄だ」というのも、「人生会議をすれば患者の尊厳が守られる」なんて発言も、全部ペラペラの他人事に聞こえます。自分が死ぬと思っていないから、言葉に魂が乗っていない。重みが無い。自分は死ぬと思っていないけど、他人が死ぬのはどうでも良い、って心理が透けて見えるのです。

 じゃあ、終末期や認知症になったときに、人はどうすれば良いのか、そこに解決策はあるのか、という話をまた次回にします。
 ぜひ、この機会にマガジンに登録して、次回をお待ちください。

https://note.com/tnishi1/n/n208760a2666d?sub_rt=share_h

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...