2024年3月13日水曜日

それは実質安楽死の容認なのでは~安楽死制度を議論するための手引き14

それは実質安楽死の容認なのでは~安楽死制度を議論するための手引き14

2024年3月7日 00:39

論点:京都地裁判決は実質的な安楽死の容認になり得るか

▼前回記事


 2023年3月5日、難病のALSを患う京都市の女性を、本人からの依頼で殺害した罪などに問われ無罪を主張していた医師に対し、京都地方裁判所は「短時間で軽々しく犯行に及び、生命軽視の姿勢は顕著で強い非難に値する」と述べて、懲役18年の判決を下しました。

 被告となった医師は無罪を主張していたそうですが、この判決の内容自体は、現行法を鑑みて、犯罪性を否定できる要素はなく、量刑の軽重は別として有罪は免れ得ないものでしょう。
 被告は控訴するようですが、大勢は決したと考えて良いかと思います。

 僕たちが論点とすべきはその先、今回の判決で京都地裁が示した「患者などから嘱託を受けて殺害に及んだ場合に、社会的相当性が認められ、嘱託殺人の罪に問うべきでない事案があり、それに必要な要件」についてです。

 以下、その要件についてNHKの記事から引用します。

【前提となる状況】
まず前提として、
▼病状による苦痛などの除去や緩和のためにほかに取るべき手段がなく、
かつ、
▼患者がみずからの置かれた状況を正しく認識した上で、みずからの命を絶つことを真摯に希望するような場合としました。
【要件1 症状と他の手段】
そのうえで、医療従事者は、
▼医学的に行うべき治療や検査等を尽くし、ほかの医師らの意見なども求め患者の症状をそれまでの経過なども踏まえて診察し、死期が迫るなど現在の医学では改善不可能な症状があること、
▼それによる苦痛などの除去や緩和のためにほかに取るべき手段がないことなどを慎重に判断するとしました。
【要件2 意思の確認】
さらに
▼その診察や判断をもとに、患者に対して、患者の現在の症状や予後を含めた見込み、取り得る選択肢の有無などについて可能な限り説明を尽くし、それらの正しい認識に基づいた患者の意思を確認するほか、
▼患者の意思をよく知る近親者や関係者などの意見も参考に、患者の意思が真摯なものであるかその変更の可能性の有無を慎重に見極めることとしました。
【要件3 方法】
また、患者自身の依頼を受けて苦痛の少ない医学的に相当な方法を用いるとしました。
【要件4 過程の記録】
そして、事後検証が可能なように、これらの一連の過程を記録化すること

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240305/k10014379911000.html

 この要件自体は、名古屋安楽死事件(1962年)、東海大学病院安楽死事件(1995年)の際に示された要件をほぼ踏襲したものではあるものの、この2023年に改めてこの要件が示されたことの意義は大きいのではないでしょうか。
 東海大学病院安楽死事件でも、この要件を厳格に満たした場合については「違法性は無いために阻却される(刑事責任の対象にならず有罪にならない)」とされており、今回の京都地裁の判決は、その判断を強化したものといえます。
 つまり今回の事件については、明らかに4要件を満たしていないため有罪は免れ得ませんが、逆に言えば、もっと時間をかけて丁寧に手順を踏めばこの4要件を満たすことができたかもしれません。そして、今後新たに安楽死を希望する方がいた場合に、これらの4要件を満たすことが可能なら、日本でも実質的に安楽死は可能になったと言えるのではないでしょうか。

4要件は本当に満たせるものか検証してみよう

 ではここからは、この4要件は本当に満たせるものなのかを考えてみましょう。

 まず、前提条件の「病状による苦痛などの除去や緩和のためにほかに取るべき手段がなく」のところが引っかかります。緩和的鎮静という手段がある以上、それを行わずに安楽死を実行すれば要件を満たさない可能性があります。なので「緩和的鎮静が適応とならなかった」ことを記録にきちんと残しておく必要があります。

 次に、「死期が迫るなど現在の医学では改善不可能な症状がある」は、いわゆる「余命要件」について示しているわけですが、ここで具体的に「○○か月」といった数値を示していないのが、曖昧でずるいなと思います(安楽死制度を認めるための判決ではないため仕方がないのですが・・・)。

 少なくとも6か月以上の予後を見越しているのに、安楽死を実行してしまったら、さすがに要件を満たしたとはいえないでしょう。では、何か月なら良いのか?というのに医学的・法的な根拠はありませんが、予後1か月(つまり週単位の予後)が予測される場合なら、要件を満たしていると判断されるかもしれません(その根拠とするのに用いた予後予測ツールと計算方法を記録に残すべきでしょう)。

 それ以外については、患者さん本人とその家族の同意、第3者の医師の認証、また安楽死に使用する薬剤の選択などを満たせば良いため、これらはオランダなど諸外国の手順を参考にすれば十分に可能でしょう。

 こう考えていくと、理屈としては日本においても安楽死の実行は可能になってきているともいえるかと思います。今回の京都地裁判決では、「肉体的苦痛」だけに限定する文言が入っていないことも大きいです(これについてはソースがNHK報道のみなので判決文が入手された時点で確認が必要ですが)。
 ネックとなるのは、判例が現時点では全て地裁判決であることです。できれば最高裁での裁定が欲しい。今回の嘱託殺人事件においても、裁判は最高裁までは進むかもしれませんが、今回の4要件についての可否を議論するのが本質ではないでしょうから、その意味で安楽死制度を前に進ませるようになるかは期待が薄いかと思います。

 よって、今回の京都地裁判決で、東海大学病院事件判決と比較すれば、安楽死制度は実質的に前に進んだとは言えますし、京都地裁判決を元に安楽死を実行したとしても罪に問われない可能性は高くなってきたとは言えますが、この判決を元に安楽死を実行に移す医師が出るところまで進んだか、と問われると現実的ではない、というのが僕の結論です。

 とはいえ、この連載でもいつも申し上げていることですが「安楽死でしか苦痛を取り除けない」方が世の中に存在することは事実です。緩和的鎮静はその次善にはなり得ますが、代替ではありません。
 スイスの自殺幇助団体「ライフサークル」も新規会員の受け入れを停止しており、日本人が安楽死を行える道はより狭くなってきています。
 安楽死制度の是非よりも、そのための議論が止まっていること自体が問題と僕は考えています。

https://note.com/tnishi1/n/n693b17828fcf?sub_rt=share_pw

2024年3月9日土曜日

母を亡くした弘兼憲史「僕は安楽死で気持ちよく死にたい」

母を亡くした弘兼憲史「僕は安楽死で気持ちよく死にたい」

弘兼氏も島耕作もまだまだ現役だが(時事)

漫画家の弘兼憲史氏(73)は、代表作『課長島耕作』で自分と同年齢の団塊世代サラリーマンを主人公に、男の出世や恋愛模様を描いてきた。現在、70代となった島耕作は相談役として活躍中だが、団塊世代にも確実に人生の最後のステージが近づいている。これも代表作である『黄昏流星群』では中年・熟年・老年の恋愛をテーマにしており、生涯輝き続ける人生が弘兼作品の魅力のひとつだ。ちなみに弘兼氏の妻である漫画家の柴門ふみ氏は、2020年に大ヒットしたドラマ『恋する母たち』の同名原作で、40代女性たちの不倫を赤裸々に描いた。夫妻はバブル時代からコロナ禍の令和に至るまで、作品を通じて常に日本人の「半歩先」を見せることでファンを惹きつけている。

 社会人としても男(あるいは女)としても、最後の時まで「現役」でありたいというのは、おそらくすべての人の願いである。しかし、現実はそう理想通りにはいかない。『週刊ポスト』(2021年1月4日発売号)では、国論を二分する22のテーマについて、各界論客が激論を戦わせている。弘兼氏は「安楽死に賛成か反対か」というテーマで「賛成論」を述べている(反対論は横浜市立大学准教授の有馬斉氏)。「生涯現役」を描き続ける弘兼氏は、実は同誌取材の直前に実母を亡くしていた。記事では収録されなかった亡き母への思いと、自らも安楽死を望む考えを改めて語った。


2025年には、我々すべての団塊世代が75歳以上の後期高齢者となり、2030年頃になると次々と死んでいきます。そうすると、今のコロナ禍のように、病床が足りなくなって、本来なら病を治して社会復帰するはずの人たちのための病院を寝たきりの老人が占領するような現象が起きるでしょう。「長寿国」というのは、裏を返せば若者に社会保障の負担をかける社会です。だから僕は、「安楽死」を真剣に検討する時代だと思っています。

 うちのおふくろが10日前に死んだんですよ(取材は2020年12月21日)。緩和ケアのために最後は入院しましたが、がんでずっと意識不明でした。医師からは「胃ろう(チューブで胃から直接栄養を摂取する医療措置)をしましょう」と言われましたが、姉たちと話して、痛みをとってあげるのが一番だろうということで、「やめましょう」「このまま逝かせましょう」と決めました。最後に会って東京に戻ってきたら、その3日後に亡くなりました。

 僕は終末期に痛みがあるなら早く逝かせてあげたほうがいいと言っていたのですが、他の家族は「おばあちゃんをもっと生きさせてあげたい」と言う。「もっと生きてほしい」というのは、もちろんその人のために言ってるのだろうけど、本当にその人のためになっているのかはわかりませんよね。本人の意思より家族の希望が優先されるというのは、エゴといえばエゴなんです。


やっぱりお医者さんは使命感もあるし、自分たちの技術も磨いていきたいから、医学の発達によってみんなが長生きして延命できるようになっていく。でもその技術は本当に社会のためにも本人のためにも必要なのか。みんなが100歳まで生きるようになったら誰が面倒を見るんですか? それは国家じゃないですか。そうなると税金はどんどん高くなる。残酷な言い方になりますが、医学の進歩は国の無駄を増やしている面がある。

 どこかで、もっと人の死をシビアに見なければいけなくなる。死にたいという人には死んでいただくという世界が必ずやってきます。日本的な「肌が温かくて呼吸さえしててくれればいい」といったナイーブな死生観は現実的に受け入れられなくなっていくでしょうね。もしいま安楽死が認められるのなら、僕だったら痛い思いをして半年生きるよりも気持ちよく死にたい。実際は僕らが死んでから、まだ相当あとの世界かもしれませんが、そういう社会を覚悟しなければいけないのではないでしょうか。


https://www.news-postseven.com/archives/20210110_1626804.html?DETAIL

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...