2021年7月21日水曜日

なぜ異性介助が問題とならないのか河本のぞみ / 作業療法士

ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気を、どのくらいの人が知っているだろうか。

 

難病中の難病と言われたりする。日本で約10000人(平成27年9430人)罹患しているが原因は不明だ。徐々に全身の筋肉が動かなくなり、それはやがて嚥下や呼吸をする筋にも及ぶ。

 

こう聞くと、恐ろしさでいたたまれなくなるが、多くの人は(私も含めて)自分は罹らないと思っている。だが、誰でも罹りうる病気だ。

 

 

当事者はどんなふうに暮らしているか
 

私は訪問看護ステーションで仕事をする作業療法士だ。訪問看護の利用者の疾患でALSはちっとも珍しくない。厳しい病気であることには違いないが、病態は様々で、10年以上呼吸苦もなく電動車いすで一人で外出して暮らせている人も居れば、半年くらいの間に立ち上がれなくなり嚥下ができなくなる人も居る。機能低下の最中にある人は日々その症状に直面するのだから、不安は大きい。もちろん家族も介護という仕事がどこまで大きくなるのか考えるだけでも気持ちは押しつぶされそうになるだろう。

 

私たちの仕事は、病状に対するケア‐リハビリテーション職であれば、コンディションを整えるための四肢胸郭のストレッチや運動、動作がしやすくなるための環境調整、つまりベッドの高さや家具の配置などから住宅改修、車いすや便器の仕様、様々な福祉用具の適合調整、そしてどんなことになっても暮らせるよ、ということを伝え、その方法を提案していくことだ。


 
 

実際、全く動けなくなっても自宅で暮らしている人たちが居る。食事は胃ろうから注入し、人工呼吸器を装着し、痰の吸引をし、重度訪問介護という制度で家族ではなくヘルパーの長時間の介護で暮らしを支える。その中で、仕事をしたり旅を楽しむ人も居る。最近では国会議員になった舩後靖彦氏が、知られた存在だろう。2018年に亡くなった物理学者のスティーブン・ホーキング氏は最も有名なALS者でもある。

 

有名な力ある人だから、特別な才能があるから、身体が動かなくなっても自宅で暮らせるということではない。だれでもそういう暮らしは可能だし、私たち(在宅ケア支援者)は普通の市民がALS者として普通に、家族と(家族介護によらず)、あるいは一人暮らししている例を少なからず知っている。とは言えそれは、自分の身に起こった経験としてではなく、支援者として限られた時間を共有している時に様子を垣間見るだけだ。また、そういう暮らしが落ち着くには、それなりの葛藤や修羅場や奮闘があることも事実だ。(あの頃は地獄だったという回想を聞いたことがある)。

 

当事者というのは、その立場を引き受けざるを得ない、一瞬たりとも替わりがない人のことだ。初めて直面することがらに一人きりで対峙する(家族も当事者家族として直面する)。はたで見て動きが悪くなってきたとわかるずっと以前に、当人は動きがおかしいと気づき、それを口に出さずにいる時間がある。その間、何と孤独だろう。そしてALSの診断がついて、その後もずっとできなくなるという経験が続く。

 

「まだ飲み込めます。今のところはね」「今のところは、なんとか座っていられます。」彼/彼女らは、そんな風に「今のところはね」と言う。軽く言っているように聞こえるが、「今のところ」は常に注意深く自身によりチェックされ、重い唾を飲み込んでいる。

 

リハビリテーションで進行を遅らせることはできない。様々な努力をされていて進行が遅い人はいるが、努力にかかわらずそういう病態なのであって、進行が速い人は努力が足りなかったわけでは決してない。(だからといってリハビリテーションの技術が無効というわけではない。呼吸に関するケア、そして機能低下に応じて有効で実際的な環境調整と介助方法の提案、特に低下の速度が速い場合は、その速さに間に合うように素早く環境を変えていかないといけない。これはかなり時間勝負となる)。

 

厳しい病気になると、なぜ自分が?と思い、何か悪いことをしただろうか?と問う。病気はなにかの罰ではないのに、そう思ったりする。また、知人がこの病気になったと知らされたら、なんと声をかけていいかわからなくなり距離を置こうと思ったり、当人に原因があるのではないかと思ったり、気の持ちようだなどとお角違いの慰めを言ったり、代替療法を勧めたりする。インターネットでいち早く多数の情報を得る人もいるし、それを伝えてくる人もいる。ありがたいこともあり、ありがた迷惑なこともまたあるだろう。


 
 

日常生活というものは、厳しい病気の最中でも普通に流れていく。患者として病院にいる間は、治療中という仮の状態で、生活を一時棚上げして病人仕様の環境で過ごす。だが、家では、今までの日常の続きにいる家族の中に、動けなくなっていく身体を持って参入していくから、大いに波風が立つ。いら立ち、怒り、困惑、無力感、繰り返されるなぜ?そして疲労、、、。傷つく。本人も、そして家族も同様に。

 

それでも生活というものは小さないつものことで成立している。飼い犬のいつもの仕草に「先にチコに餌やって」と家族に言うとか、シャンプーは前使ってたものの方がよかったとか、サキちゃんが欲しいランドセルの色は薄紫なんだって!とか、あのチェックのシャツ出してとか、マッサージ用イボイボ付き肩たたき、お父さん(ALS本人)がいいって言ったから自分用に買っちゃった(妻)とか、そんな些細な家族共通の話題と、ベッドから車いすに移乗するのが命懸けとか、むせが激しいから食事形態を変えるとか、胃ろうからの注入を1日3回にするとか、夜間の吸引が3時間続き寝不足とか、そういうハードコアなことが併存する。

 

もちろんハードコアの部分が、生存に関わる事柄で、当人にも家族にも1番重くのしかかる。だが、日常の些細なことが暮らしを支える大事な要素に違いなく、それは当人と家族、介護者との関係から生まれる小さな油のようなもので、暮らすということへのエネルギー供給に作用している(ように見える)。

 

支援に入る私たちは、どこまで行っても生活の断片を垣間見るのに過ぎない。他人の私との会話で見せる顔とは違う顔で、夜中に暗闇を見つめているに違いないと思う。うかがい知れない部分だ。

 

死にたい気持ちはよくわかる、と割と簡単に私たちは言う。

 

だが本当にそうだろうか?

 

当事者ではないということは、身体の自由を失うプロセスを経験しておらず、日々その不自由さに折り合いをつけるという手間を経験しておらず、その経験の中にある発見ということを知らず、いずれ呼吸苦が来たらどうするか考える、あるいは考えないようにするという重い課題が目の前になく、景色が違って見えることを知らず、微細になっていく身体の感覚を知らない。

 

身体の内部にじっと目を凝らす時間を持たず、身体の信号に耳を澄ます機会を持たず、この身体の条件で何ができるか延々と思いを巡らすことをせず。ただ単に、今ある自由さや仕事をしている自分を基軸に、もしこれができなかったらと一足飛びに寝たきりの自分を想像し、それはつらいわ、生きてる甲斐ないわ、と言ってしまう。

 

だが多分、当事者とは全然違う立ち位置にいるままで、そう言い放っている。

 

 

京都でおこった事件
 

一人暮らしをしていたALSの女性、林優里さん(当時51歳)が嘱託殺人で亡くなられていたことが、その容疑者が逮捕された報道で衝撃的に伝えられた(2020年7月23日、医師二人逮捕)。

 

殺人をしたのは安楽死を肯定する医師で、SNSで知り合い、面識はなく、当人の依頼により殺人のためだけに2019年11月30日夕方マンションを訪れた。ヘルパーは林さんに促されて退室し、約10分後に二人の訪問者は帰り、ヘルパーが室内をのぞくと林さんは意識を失っていた。彼らは初対面の林さんに、鎮静作用のある薬物を胃ろうから大量投与したとみられている。


 
 

二人の容疑者、大久保愉一、山本直樹両医師には、ヤマモトナオキ名義の口座に11月21日と23日、2回に分けて計130万円が振り込まれている。彼らは報酬を得、宮城と東京から京都にやってきて、目的を遂行して帰った。これは、「殺し屋」という職業のそれと違わない。

 

だが、この二人の医師が、殺人者として非難ごうごうというわけではない。それは、奇妙な景色だ。依頼人は、殺された当人。死にたい気持ちわかる、自分で死ねないなら、訴追覚悟で死なせてあげたのは勇気ある行為だ、と心の中で思った人は少なからずいる。元東京都知事で作家でもある石原慎太郎氏が、業病からの解放を手助けしたと言って医師を讃え、弁護したいとツイッターに書き、炎上し謝罪した。謝罪はしたが、考えは変わってないだろう。彼は今まで何回もマイノリティへの差別的発言をしている。

 

この事件の後、いろいろな声がALS当事者や介助者から出た。なぜ、生きる方向でなく死ぬ方向に行ってしまったのか。人工呼吸器をつけて在宅で暮らしてる人のことをもっと知ってほしい。安楽死(尊厳死)容認せよという声が出てこないか、そこが心配だ。本人は誰か心を許して話せる近しい人はいなかったのだろうか……。

 

林優里さんは高齢の父親(79歳)がいるが、家族への負担がかからないように、1人暮らしを選び、24時間の介護(重度訪問介護)を利用して暮らしていた。だが、当初24時間分のヘルパーが確保できなかったときは、ヘルパーのいない時間父がケアに入った。父は文字版でのコミュニケーションのやり取りや慣れない痰の吸引、車いすをおしての散歩も行った。(京都新聞2020年7月28日)

 

ALS患者はいずれ呼吸障害が出たときに、人工呼吸器をつけるかどうかを考えておくことを求められる。彼女は当初は人工呼吸器をつけると言っていたが、その後つけないという意思表明をしていた。人工呼吸器を使用するかしないかの意思表明は、生きるつもりかそうではないかを表明することと同義である。ここがALSの決まり事というか、最近はやりのACP(advanced care planning-終末期のケアの方法を、意識がはっきりしているうちにあらかじめ決めておく)の先駆けではある。

 

だが、当事者が「生き死に」のことを決めるという人生上の突出した大問題が、人工呼吸器という機械を挟むことで、あたかも問題は呼吸器をつけるつけないのことであるかのように姿を変える。ここで、生きるという選択は、ケア提供者にとっては人工呼吸器をつけた人のケアというスキルに変換する。

 

人工呼吸器をつけないと決めても、そのあといつでも変更可能(やっぱり生きることにした)であることは繰り返し告げられ、定期的にカンファレンスで確認される。ケア提供者にはお馴染みの光景だが、一歩引いてみると異様なことである。生きたいですか? 生きなくていいですか? という確認。

 

ここでは人工呼吸器は、延命という言葉と結びつけて使われている。そうではなく、身体を楽にして暮らすために、気管切開をしない非侵襲的陽圧換気療法(noninvasive positive pressure ventilation:NPPV)の人工呼吸器を早めに導入する、それにより生活の質が上がることがあることも厚生労働省の出した指針には出ている。だが、ほとんど検討されずに「延命」だけが異様にクローズアップされるのが、ALSと人工呼吸器の関係だ。(筋萎縮性側索硬化症の包括的呼吸ケア指針―呼吸理学療法と非侵襲的陽圧喚起療法(NPPV)平成20年)

 

林さんは人工呼吸器をつけないと決めていたが、定期的なカンファレンスで医師やケアマネジャーに呼吸器装着の有無を繰り返し尋ねられること、「生きるかどうかの選択を何度も迫られるつらさ」を、泣きながら父にぶつけていたという。

 

だが彼女は、殺人が起きた時点では命にかかわるような呼吸機能低下をきたしていたわけではなかった。父親は、「自力で呼吸ができる状態で、(死にたいと聞いていれば)当然、止めていた。後悔が残っています」と語っている。他に何と言えようか。娘が実は安楽死を望んでいたと後から知らされる親の気持ちは、誰とも分かち合えないだろう。

 

父は「娘が納得して選んだこと」と自分に言い聞かせるように語り、支えたヘルパーへの感謝の気持ちを語った一方で、容疑者に対しては「娘の生死をまるで商売みたいに扱って、犯人にくそったれと思う、悔しい、許せない。なんでこんな卑劣なやり方をするんや」と声を大きくしたという。(京都新聞2020年7月28日)

 

彼女が自力で呼吸している間は生きるつもりでいるという前提で支援していたケアチームも、当然ショックを受けた。当日、見知らぬ男が二人訪問し、林さんに席を外すように指示されて別室にいたその日のヘルパーは、訪問者が帰った後の彼女を見て、またそこで行われたことを知って、混乱に陥っただろう。作業療法士として何人かのALS者のケアチームのメンバーである私は、その場面を想像するたびに、どす黒いもので胸のあたりが重くなる。

 

彼女の主治医によれば、胃ろうからの栄養摂取の中止による安楽死を主治医に求めることがあったが、日本では法的に認められないことを伝え、30人からなるケアチームとともに話し合いを重ね、最適なケアのあり方を模索していた。ヘルパーが彼女に代わってペットの猫を飼い連れてきたり、スタッフがベッドサイドで合奏を試みたり、外出を計画したり、職種の枠を超えて彼女が生きる気持ちになれること、楽しめることを探していた。(京都新聞 2020年7月27日、30日)


 
 

だが、そんな風に暮らしながら、彼女は視線入力のパソコンを駆使し、SNSを通して命を終わらせる準備を着々と進めていった。その間、ケアスタッフと彼女はともに過ごす時間のなかで、全く違う景色を見ていたのだ。

 

彼女は自分の意思で死んだ。少々、変わった方法で。彼女は24時間のケアを受けていた。ケア体制は十分だった。だから彼女の死は全身が動かないという病気のつらさによるもので、死にたくなるのも理解できる。そう思われている。だが、本当はどうだったのだろうか。

 

2013年当初はケアに入っていたのは3事業所だった。それが2018年には17事業所に増え、1日に4から7事業所のヘルパーが入っていたという。数時間で交代するスタッフ、夜間は8時間継続で入るが、男性スタッフも入った。彼女はブログに「万年のヘルパー探しはかなりのストレス いつ穴が空くかわからない不安にいつもさいなまれている 人の手を借りないと指一本動かせない自分がみじめでたまらなくなる」(2018年6月)と投稿。同性ヘルパーの介助を望んでいたが、ままならず「男性にトイレ介助をしてもらうのがつらい」と支援者に話していたという(京都新聞2020年8月14日)。

 

 

当事者が身体を張って作ってきた制度をどうやって守るか・女たちの反応
 

重い障害がある人が、施設や病院から出て、家を借りて家族介護に頼らず暮らすという暮らし方は、1970年代に始まった自立生活運動という当事者たちの身体を張った実践により、時間をかけて制度を整え実現していった。自立生活センター(CIL—center for independent living)という当事者が運営する事業体(運動体でもある)が各地にあるが、ここが自立生活実現の牽引役になってきた。この当事者の運動により、重度訪問介護という長時間の介護サービスが制度化された(2006年の障害者自立支援法、2013年より障害者総合支援法という法律にのっとっている)。

 

CILは、自立生活のノウハウの情報提供や当事者の権利擁護、行政への働きかけなどの運動とヘルパー派遣事業などもやっており、介助は同性介助を原則としている。女性利用者には女性ヘルパー、男性利用者には男性ヘルパー。私は自立生活の取材をしてきて、男性には男性ヘルパーがトイレ介助も食事介助もしている場面を見てきたが、現実には男性が女性ヘルパーによる介助を受けることは多々ある。それを男性利用者が絶対に嫌といえば当然配慮されるだろうが、介護介助というのは女性が伝統的に担ってきた仕事なので、女性に介助を受けるのは男性にとって受け入れられないものではない(逆に女性ヘルパーを希望する男性は普通にいる)。

 

だが、女性にとっては男性ヘルパーによるトイレ介助や入浴介助は、とても受け入れられるものではない。重度訪問介護は家と言う密室の中で、1対1で行われる。無防備で全身動かない身体で居るところに、8時間男性ヘルパーと過ごすことは恐怖ではないだろうか。いくらそのヘルパーが研修を受けた良い人であっても。

 

いや、人柄とかそういう問題ではないのだ。密室での異性介助、特に男性が女性の身体介助をするとは人権にかかわることではないか。

 

京都新聞にこの介護体制の記事が出たのは2020年8月14日、そして、その記事が女性障害者ネットワークが管理するメーリングリスト(たんぽぽネット)(注)に載ったのは8月18日。投稿者は現役のヘルパーであり、研究者(障害学)の立場も持つ松波めぐみさんだ。京都在住の彼女は、全国紙には載ってないこととして記事を紹介し、こう書いている。

 

(注)たんぽぽネットはDPI女性障害者ネットワークが運営するメーリングリストで登録者数は230名、障害や難病の当事者をはじめ様々な人が性別を問わず登録し情報交換に利用している。投稿は非公開。本文での引用は投稿者の同意を得ている。DPI女性障害者ネットワークのサイトはhttps://dwnj.chobi.net/?page_id=8

 

「私はこれまで20年以上、兵庫・大阪・京都の自立生活センターで介助をしてきましたが、原則「同性介助」でした。この「同性介助」も性の多様性ということからすると、もっと丁寧に語るべき点はあるにしても、少なくとも女性が望まない相手からの介護を受けないでいいようにすべき、暴力防止、という切実な動機からできてきたものだと言えます。」

「できるだけ自分で情報収集して主体的に生きようとしていた(そして24時間介護体制を組んでいた)女性が、こんな苦痛を受けていたことに、大きなショックを受けています。どれほどつらかっただろう。本人が「知られたくないこと」でもあったかもしれないと思うと、いっそう心が痛みます」

 

この投稿をきっかけに、ALS当事者でパフォーマンスアーティストのイトー・ターリさんが、8月21日次の投稿をした。

 

「松波さんの投稿を読み、胸が締め付けられました。まさに、私の悩みがそこにあったからでした。私の居住している街には夜間の巡回介護をやっている事業所がなく、近隣の市にあっても男性の介助者だと聞かされているのです。林さんも嫌だったのですね。これからどんどん介助が必要になる私はヘルパーの不足が身に迫ってきて惨憺たる思いでいるのです。これから私の闘いが始まるのです。林さんが味わった情けなさを力にして、問題を明らかにして行きたいです。今はこれ以上書けませんが、林さんの死を無駄にしたくないという思いでいっぱいです。」


 
 

8月22日には、自立生活運動の先駆者として有名な安積遊歩さんが投稿し、70年代からの自立生活運動により重度訪問介護の制度まできたが、結局ヘルパー確保に至らない現実に対して、この殺人はシステム不備による異様なものと喝破している。

 

制度が出来上がるまでは、運動として当事者と介助者(支援者)が繰り出す暮らしというアクションは熱をもち磁場ができる。人が人を呼ぶということもある。だが、こういう活動は終生継続するにはしんどすぎるし、限られた人しかできない。制度ができたら、磁場を作れる特別な人ではなくても、運動をしなくても暮らせるはずだった。

 

だが、制度はできても資源がないままなのだ。ヘルパーが集まらない。私の住む街では、自立生活センターのヘルパー事業所は、当事者主体の理念があって安心だが、ヘルパー獲得が難しい。そして全国展開の会社組織の事業所は重度訪問介護しますと謳っているが、同性介助は保証しない。「夜間8時間体制組みますよ、男性でよければ」というわけだ。、

 

林さんが、もう生きなくていいと思ったのは「指一本動かせない自分が惨めだったから」だろうか。「17事業所から数時間交代で来るヘルパーに心を砕き、男性ヘルパーによるトイレ介助を受けねばならなかった」からではないだろうか。

 

最初3事業所のヘルパー体制でスタートした一人暮らしは、最終的に17事業所となった。これは異様な多さだ。だが、そうなるにはそれなりの事情があり、ケアプランを作るケアマネジャーや相談員の苦労も並大抵ではなかったろうと思う。介助という仕事は、本人のこうしてくれという指示で成立するが、身体にかかる行為は本人とヘルパーが息を合わせるという要素がある。息が合わない場合は、訪問するヘルパーは緊張し、受ける本人もストレスになる。それが高まるとヘルパーは辞める。即人手不足になる。スキルを身に着けるのは、個人差もあり時間がかかる場合もあるが、ケアプランは待ってくれない。

 

ALSという病気は、進行する。いずれ誰にでも来る死というものが、臓器ではなくて運動ニューロンによる筋力低下というところが、他の疾患と様相を異にする。死が近くにあるようでいて遠くでもあり、死との距離が測れない。人工呼吸器はつけないと決めたとしても、だからといって死がすぐ近くにいるわけでもない。

 

こんなことならもう死んでしまいたい、という気持ちと、いや、もう少し生き延びて何かを見届けようという気持ちは、行き来しているのではないか。ALS協会の元会長、橋本操さんは26年前から人工呼吸器を付け一人暮らしだが、彼女は健常者が思う死とはずれていると断ったうえで、「私の死は私の一部になっていて、死と共に生きているようなもの」という。(ALSマニュアル決定版、日本プランニングセンター2009年)

 

そういう生。

 

ささいなこと、春の風がほほを撫でた、という一瞬で生に引き寄せられるが、今日のヘルパーは男性と思うだけですべておじゃんになる。こんなことが続くなら、もう生きていなくていいと思う。ここだけは、私もリアルに想像できる。

 

 

介助体制の不均衡
 

林さんの事件で異性介助、男性による介助が苦痛であるということが、あまり問題となっていないのはなぜだろうか。NHKが「クローズアップ現代+」で特集「ALS嘱託殺人~当事者たちの声」(2020年10月14日放送)が組まれた時も異性介助は話題にならなかった。そこに横たわっているのは昔からある障害者への偏見の一つ、性をなきものと考える癖からぬけないのだろうか。

 

障害があっても市民として普通に暮らすという、当事者が作ってきた暮らし方が、踏みにじられた事件だった。そして、女性はさらに生きにくいのだと、実感した事件だった。

 

林優里さんが決めたことは、彼女の決断として、胸に収めるとしよう。だが、ヘルパー体制が同性介助だったら、その決断をするまで追い詰められなかったかもしれないという思いが、残念感と共に残る。

 

ここまで考えてくると、おかしな使命感をもって嘱託殺人を引き受けた二人の医師は、全く幼稚な頭脳の持ち主に見える。元都知事も同様に。

 

私は2012年から、重い障害があって一人暮らしをしている自立生活の当事者たち9人の取材をし、2020年3月に本にまとめた。キーワードは「それは可能だ」。私が仕事をする上でのスローガンでもある。林さんの事件のあと、このキーワードが女性にも使えるか思いめぐらせている。

 

現実に私が仕事でかかわる筋ジストロフィーの女性が、呼吸器をつけて自宅に帰る意思表示をしている。重度訪問介護の女性ヘルパーを見つけるのは難しいと相談員にくぎを刺されている。だが、私はこれから策をねる。スローガンを下すつもりはない。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –



河本のぞみ(かわもと・のぞみ)


 https://synodos.jp/welfare/23912

みわよしこのブログ

 2019年11月、京都市に在住していたALS患者の女性(当時51歳)を嘱託殺人した疑いで、2020年7月23日に医師2名が逮捕されました。
 それから1ヶ月が経過したわけですが、私は日に日に、報道や障害者団体の発言等の一部に耐えられなくなってきました。
 8月20日ごろ、記事や声明を見ていると苦痛で泣き叫びそうになり、「限界だ」と感じました。読むと心と精神をタコ殴りされ、口や手に見えない猿ぐつわや見えない手錠がかけられようとしているような気持ちになってくるのです。
 私は障害者です。「障害者だから言うべき」も「障害者だから言ってはならない」も、あってはなりません。しかし、期待されることを言わずタブー発言を口にすることは、「障害者としては生きていけなくなる」、すなわち生きていけなくなることにつながりかねません。そういう世界に自分が閉じ込められていることを、思い知らされつづけているのです。


理由1 報道が寄ってたかって介護者支援者像を作ってないか?

 報道が開始された当初から、「なんだか怪しい」と感じていました。世論が介護事業者やヘルパーの責任を問う方向へと流れないように、報道が先手を打っている印象を受けたからです。
 亡くなった林優里さんは、「死にたい」という思いやヘルパーによる苦痛を、ブログやツイートに書き残していました。
 最初に「怪しい」と感じたのは、介護事業者など支援者側が、林さんのブログやツイートを「知らなかった」としているという報道を見かけたときです。「なぜ、わざわざ、そんなことを書くかなあ?」と思いましたよ。そもそも、不自然すぎる話です。
 役所の福祉部門も介護事業所等も、障害者や生活保護利用者によって自分たちの悪口が書かれていないかどうか、けっこう神経を尖らせているものです。

 私なんて、誰にも存在を話していない英文のブログに書いた杉並区障害福祉とのゴタを書いた3日くらい後、「そんなことを書くと、今のわずかな障害者福祉もなくなるぞ」と圧力かけられたことがありますよ。居住している杉並区の区役所ではなく、区役所が強引に押し付けた訪問医療の作業療法士からでしたけど。2007年から2008年にかけての話です。

 全くチェックしていないとしたら、危機管理の観点からいって、ちょっと問題ありそうに思えます。「サービスや制度の利用者に自分の悪口を書かれる」という恐れもあるでしょう。虐待やハラスメントなら、そういう書かれて困ることは最初からしなければいいんですけどね。逆に「組織や上司の目のとどかないところで、末端の従業員が何をしているかわからない」という恐れから、ある程度の”エゴサ”を行い、利用者が公開している文書をチェックするのは、非常に自然です。
 林さんの場合は、「京都市」「ALS」「24時間介護」「女性」あたりから、ブログやSNSアカウントを簡単に突き止められたはず。介護事業所との関係の中での救いのないストーリーを、結末が救いのないままながら希望のもてる書きぶりで締めくくっていたりするあたり、実際に起こっている虐待的な扱いをマイルドにしているように思える書きぶりなどから、介護者・支援者の目や反応を意識していた可能性が見受けられます。
 もちろん、メールやSNSメッセージのやりとりを介護者や支援者が知るのは、好ましくありません。ましてや安楽死の相談となると、林さんは見せない努力をして成功していた可能性が高いと思われます。
 ブログやSNSアカウントの存在や内容に関して、報道の数々に紹介された支援者や介護者の言葉は、非常に不自然な点が目立ちます。フツーの健常者は疑問を持たないかもしれないけど、障害当事者でありモノカキ稼業23年目の私を、煙に巻けるとは考えないでほしいです。そもそも報道が解禁されはじめてから数日間の記事は、締切時間とコメントが取られたと考えられる時間帯とコメントの主だけで「怪しすぎる」ものがいくつも。
 最大の疑問は、「なぜ、そんなことを?」「なぜ、ここまで?」でした。今もそうです。


理由2 なんのために、介護者や支援者の像を作らなくてはならないのか

 まず、「ケアマネの横暴やヘルパーによる虐待の可能性に注目されたくない」という至極当然の理由は、そりゃまあ、あるでしょうね。ただ、それは単純に「不適切な対応や虐待があったら都合が悪い」という話でもないと思われます。
 自分自身の記事でさんざん書いてきていますが、そもそも介護業界には深刻な人材不足があります。仕事と責任の重さに見合う給料じゃないですから。最低賃金よりは相当高いけど、コンビニやスーパーが人手不足から時給を上げれば簡単に抜かれる時給です。2019年は、1人のヘルパーさんを14.5件の求人が奪い合う状況でした。さらに、高齢者福祉よりも障害者福祉、障害者福祉の中でも医療的ケアを伴う分野だと、さらに深刻な人材難になります。
 ALSの介助は、特別な技術をいくつか身につけ、さらに各患者さんに個別対応する必要があります。しかし、長期にわたって腕を磨きながらキャリアを継続できる可能性もあります。私の直接知る範囲に、キャリアアップして介護事業所の経営に至った女性もいます。「介護は給料が安くて悪条件で不安定な仕事」という”常識”の例外を生み出しやすかった障害分野の一つは、ALSの介助だったりしました。ヘルパー資格を持っていない人の登用をやりやすくする仕組みも、長年かけて作られてきました。
 それでも深刻な人材難。厚労省の報酬削減の影響がないわけはありません。「人であればなんでもいい」という採用をせざるを得ない場面も増えてきているようです。それで「虐待があるわけない」と言われたって、信じられません。
 とはいえ、世の中や患者さんたちに「そんな介護を受けて暮らすしかないのなら、もう死んだほうがいい」と思われてしまったら、今までの蓄積まで失われてしまいます。24時間介助を受けて地域生活をする重度障害者を増やし、そのポジティブなイメージを広報していけば、人材難が解消されてヘルパーの質も上がるかもしれません。良心的な支援者たちや介助者たちが、それを何とか目指し続けようとしているのは私にも分かります。
 が、その路線に報道が沿い続けていいんでしょうか。広報ではなく報道であることの意義は、どこにあるのでしょうか。現状を伝えながら、ポジティブな事実もあることは伝えながら、しかし虐待の可能性に蓋をせず、介護や介助に関する構造的な問題を解決する方向に世論を動かしていく方向性はあるのではないでしょうか。
 私は、心ある報道陣の一部がそういう動きをしていると見ていました。それに期待していました。でも、今後も期待していいんでしょうか。「たぶん無理だろう」と絶望的な気持ちになっています。
 ALSの介助に関わっている数少ない介護事業所や支援団体や当事者団体は、取材にあたって情報源の中心にならざるを得ません。その意向に沿わない取材や報道は、「やってもいいけど出禁覚悟」ということになるでしょう。政治スキャンダルなら、ときには公益のために、信用させておいて裏切ることもありえます。しかし、このケースで「公益」とは? ALSの介護に関わっている数少ない事業所を減らし、虐待はするけれど仕事は一応するヘルパーを退場させると、「公益」どころではなくなるでしょう。しかしながら、障害者虐待の可能性に蓋をすることも「公益」ではないでしょう。




理由3 「死人に口なし」とは言うけれど

 私が報道に接することに耐えられなくなっていったのは、2020年8月5日の京都新聞記事『ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文』を読んだ時が決定的な契機だったと思います。
 会見した障害当事者スタッフ3名のうち、大藪光俊さんと増田英明さんには直接の面識があります。私は、増田さんの言葉に、なんといいますか。立ち上がれないくらい打ちのめされてしまいました。

私たちは生きることに一生懸命です。安楽死や尊厳死を議論する前に、生きることを議論してください。

 私自身の記事での立場は一貫しています。今の日本には、安楽死や尊厳死を云々する前提がありません。なぜなら、「安楽生」「尊厳生」が無条件に保障されているわけではないからです。生きることに関する多数の魅力的な選択肢があり、どれも容易に選ぶことができ、それよりやや選びにくい位置に「安楽死」「尊厳死」があること。それが、明日も生きる選択の代わりに「安楽死」「尊厳死」を選択できるための最低条件でしょう。「生きる選択が事実上出来ないから死ぬ選択を」というのなら、社会全体で自殺幇助しているのも同然です。この点では、増田さんとの意見の相違はないと思います。

そしてヘルパーさんや経営者のみなさんにエールを送ってください。おねがいします。


 エールだけじゃ無理です。同情するなら人間らしい暮らしが営める報酬を。そういう経営が無理ゲーにならない環境整備を。もちろん、増田さんを含む日本の重度障害者たちは、そのために闘ってきています。しかし、この文は何のためにあるのか。次の文を読むと浮かび上がってきます。

安易に彼女の言葉や生活が切り取られて伝えられることや、そうやって安楽死や尊厳死の議論に傾いていくことに、警鐘を鳴らしてきました。いま私たちの間には静かな絶望が広がっています。


 林さんが書き残した程度も内容もさまざまな苦痛の数々は、そう安易に切り取れるものではありません。時系列的にも内容的にも、矛盾がありません。全体を踏まえながらどこかを切り取ると、「つまみ食い」になりようがありません。論理的に「だから生き続ける選択はなく、安楽死しかない」という結論が導かれます。私は、林さんのその明晰な思考を否定したいとは思えないんですよ。それはそれで尊重したいです。そして、「だから安楽死しかない」という結論を導く前提条件や仮定を突き崩したいです。というか、何があれば死ななくてよいのか、林さん自身が見抜いていました。介護報酬を高めること。他の仕事にも就ける人が誇りをもって介護職に就けるように地位を高めること。ツイートに繰り返し出てますよ。アケスケに書いてはありませんが、それで介護業界に「良貨が悪貨を駆逐」が起これば、解決になるでしょうね。実はリーマン・ショック後の2~3年間、現実になりかけていました。
 「虐待に甘んじていなくてはならないのはイヤだ」という林さんの魂の叫びが浮かび上がってくるような記述の数々を、なぜ、障害当事者や介護や支援に関わる人々が、よってたかって掻き消さなくてはならないのでしょうか。「死人に口なし」にしてしまうのでしょうか。そうなってしまう背景は、ある程度は分かるつもりです。それだけに、私は深く深く絶望します。

 私の仲間はこの報道を聞いて、自分がどうしていいのかわからなくなったといいました。支援者もこの事件や報道に傷つきながら、わたしたちを支えてくれています。


 福祉・介護・医療のパターナリズムは、障害者だけで話をするとき、「あいつら最悪」という形で語られることが多いものです。しかし障害者が抵抗して声をあげようとすると、うまいこと”回収”されてしまうんですよね。「私たちも、もう少し考えなくてはなりませんね」「私たちも、そういうお気持ちを理解できるようにならなくてはなりませんね」などと。
 私は「こういう言動がイヤだからやめてほしい」と言いたいだけです。それは膨大なリストになるようなものではなく、重要なものに絞れば10項目以下になりそうなものです。でも、それを聞いてもらえたことがありません。そういう話にしようとすると「その前に相互理解が」とか言われて、さらにすり減り、絶望して離れていくことの繰り返しです。あまりにも同じパターンが繰り返されるので、「相手が意図的に、こちらの消耗と絶望を誘起しようとしている」と考えるようになりました。
 増田さんの仲間の当事者の方の「自分がどうしていいのかわからなくなった」という言葉。私も、どうすればよいのかわかりません。でも、現状がおかしいのは、はっきりしています。このおかしな現状を変えなくてはなりません。

彼女のひとつだけの言葉をとって、安楽死や尊厳死の議論に結びつける報道は、生きることや、それを支えることにためらいを生じさせます。いまこの事件をしって傷ついているひとたちに、だいじょうぶ、生きようよ、支えようよ、あきらめないでと伝えて、応援してほしいです。生きていく方法は何通りも、百通りだってあります。ひとの可能性を伝えるマスメディアの視点を強くもとめます。

 
 増田さん。なぜ、そうなるのでしょう? 
 生きることに向かおうという方向は、私も同じくしているつもりです。
 でも、生きる方法や可能性を探る前に、苦痛を取り除かなくていいんですか? 
 少なくともご本人が虐待だと感じていて、読んだ私や友人の障害者たちが「これ虐待だよね」「これだったら私だって死にたくなる」と感じるようなことを、まず止めさせるべきではないのですか?
 そこに女性というジェンダーや、「にもかかわらず」の高学歴や過去の職業キャリアが絡んでいて、苦痛が除去しがたいものになっているとすれば、まず、女性であっても高学歴であっても職業キャリアがあっても快適に今を生きられるようにすべきなのであって、その阻害要因を除去するべきではないのですか? 
 現実の問題として、阻害要因を除去したら抱き合わせで支援が除去されてしまい、生きていけなくなるわけです。その現実に正面から向き合って環境を変えなければ、いつまでもこのままになるのではないのですか?

 私は、その可能性に向かうメディアの一員であろうとしています。
 が、毎日のように「これでもか、これでもか」と繰り返されるポジティブ重度障害者ライフキャンペーンに、ぶちのめされてしまいました。
 ポジティブ要因が悪いと言いたいわけではありません。虐待や差別といったネガティブ要因に蓋をせずにポジティブキャンペーンを展開することだって出来るはずだと言いたいのです。

私は疲れ果て、絶望しています

 ともあれ、私はぶちのめされてしまいました。
 ことさらに誇示されるかのような、ポジティブ重度障害者ライフの数々に。
 「安楽死上等」という意見だって人の意見であり、それも尊重してこその言論の自由なのに、「言ってはならない」と言わんばかりの識者の声の数々に。
 立場の弱い人の主張を支えて拡大する方向や、誰もが自分の言論の自由を行使出来る方向に向かっているとはいえない、本件の報道の数々に。
 虐待や差別や排除が「ある」という事実を認めて無くすのではなく、「つながり」「共生」「包摂」といった実体不明の言葉で明るい将来像が示され続けることに。
 絶望しました。疲れ果てました。
 しばらく本件から離れていようと思います。


https://miwachan.blog.jp/archives/1077921836.html

2021年7月19日月曜日

<後編>脳死状態になることも…自殺を考える人に“もう一度だけ”あがいてみてほしい理由<yuzuka×よしむら香月>

コロナの影響や、著名人の相次ぐ自殺も原因となっていると見られている。これは、異常事態である。まだ希望を持つべき人たちが、次々に命を絶っていく。厚生労働省は、「自殺はその多くが追い込まれた末の死だ」と、言い切った。



面会で“明るく振る舞う”家族の姿

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よしむら香月さん

「自殺を図ったが死に切れなかった人がどうなるのか」を聞いた前回に引き続き、今回は、「自殺を図った人の家族や、自死遺族のこと」、そして、自殺を考えている人に伝えたいことについて、2人で語り合った。

yuzuka:漫画に描かれていた、自殺を図ったことで寝たきりになってしまった患者さんの面会に来られた、ご家族の表情が印象的でした。

 どこか楽しそうというか、笑顔だったのが意外で…… 。何か意図を持って描かれたのでしょうか?

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『自殺を考えている人へ』(よしむら香月)より

よしむら香月さん(以下、よしむら):はい。実際に家族の方で、こういう方が多かったというのを表現しました。当たり前ですが、状況的にはご家族はものすごく辛いんですよね。だけど目の前にいる患者さんに、辛い顔を見せようとしない姿勢を感じるんです。

 実際に、いつも楽しそうに思い出を語られている方が多いのが印象に残っています。おそらくその楽しい雰囲気をベッドに寝ている本人たちに伝えようとしているのかなと思います。もちろん想像の範疇ですが。

yuzuka:辛いですね……。ちなみに面会される方は多いのでしょうか。

よしむら:はい。 他の原因で入院されている患者さんたちと比べると自殺がきっかけで入院された患者さんは、圧倒的に面会が多いです。ご家族だったり、お友達だったりですね。ほとんど毎日いらっしゃる方もいますね。



私が孤独死現場でみた“遺族の姿”

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筆者・yuzuka

yuzuka:そうですか……。実は私、今、特殊清掃の現場に密着で取材を行っているんです。実際に孤独死のあった現場に出て、清掃のお手伝いもさせていただいています。

 孤独死の現場に行ったときに感じるのは、圧倒的な孤独感です。部屋も荒れていて、生前に孤独だったことが空気で分かったりすることがあります。それと同時に、ご家族から冷たい対応を取られることも多い。

 つい最近も、あるアパートのお部屋で孤独死がありました。だけど、すでに腐敗臭もすごいのに、ご遺族が清掃に関するお金を負担したくなくて、そのまま何ヶ月も掃除ができず、対応が宙ぶらりんになっています。今頃そのお部屋は、何ヶ月も血やハエ、ゴキブリまみれだと思います。

 そういうお部屋のお話を聞いたり、出会ったりすると、「一人で死ぬ以外に、方法がなかったのかもしれない」と思うときがあります。もちろん死因は自殺に限りませんが、孤独を肌で感じるんです……。

 だけどよしむらさんのお話をきくと、やっぱり入院されている方たちの中には、生前にもご家族やご友人の愛が確かに存在した方もいると思うんです。それに気づいていたけれどこのような結果になってしまったのか、それとも気づけなかったのか、なんだか、すごく切ない気持ちになりますよね。



「自殺を実行すべきじゃなかった」とは、言えない

よしむら:学校のいじめなどに巻き込まれて自分から命を絶つという選択に至った、という方もいると推察します。僕は基本的に、自分の意見を相手に押し付けたくないです。「自殺を実行するべきじゃなかった」とは、言えない。どういった結果であれ、そこに至るまでのその人の気持ちがあったと思うから。きっとその人には自死以外に方法がなかったのかもしれないですよね。

 ただ……。脳症というかたちで寝たきりになってしまった患者さんの中には、 「ずっと意識があった」という方もいらっしゃいます。意識がある状態の中で、目も開けられず、何もできない状態になってしまう。辛い状況から抜け出したくて自死を選んだのに、客観的に見るともっと辛いだろうと思う状況で、そのまま生き続けなければならない患者さんを見ていると、きっとこの方は、こんな状況になるなんて知らなかったんじゃないかなって、どうしても思ってしまうんです。

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『自殺を考えている人へ』(よしむら香月)より

 だからこそ、あの漫画を描きました。もちろんそれを、どう受け取られるかは分かりません。僕の作品がきっかけで自殺を止める人もいるかもしれないし反対に、確実に死ねるようにしようと思う人もいるかもしれない。だけど僕は、僕が見たありのままの事実を伝えるべきだと思ったんです。

yuzuka:作品への反響は大きかったですか?

よしむら:そうですね。 今回の作品を投稿した際には、肯定的な意見以外にも、否定的な意見もありました。「寝たきりになることなんて知っている! それでも死にたいんだ!」というような意見も多かった。僕はすべてに目を通していますし、どの意見も否定しません。

 だけど「寝たきりでもいいんだ」と話す人と実際に話してみると、その人の頭の中にあるのは、ドラマで見た綺麗な寝たきりの患者さんの姿だったりするんです。僕も介護士として働く前は、「寝たきり」がどういう状態かなんて、知らなかった。だけど今では分かるから、やっぱり伝えるべきだと思っています。

yuzuka:寝たきりってしんどいよ、とか、孤独死の現場ってこうなんだよ、とか。そういうのって言葉で伝えてもなかなか限界があって……。だから私はできるだけ取材にいって、自分自身も現場を体験して、さらに写真を撮って伝えようというのを心がけています。そうでなければ伝わらないと思っていて。

 だからこそ、よしむらさんはイラストを使って伝えられるところが素晴らしいと思っています。私はそこに現実がある限り、伝える人が必要だと思っているけれど、グロテスクなものは見たくないという人もいますからね……。だけど写真が難しくても、よしむらさんの絵なら見られる、という人は多いと思うんです。


誰にでもいいから、悩みを話して

image8yuzuka:よしむらさんから、自殺を考える人に伝えたいことはありますか?

よしむら:誰にでも良いから、悩みを話してほしいです。ネットの知らない人でも良い。僕でも良い。もしかしたら悩んでることへの解決の糸口がみつかるかもしれない。自死を選ぶのであれば、これ以上やることがないってくらいまで他の方法を探してみてから選んでも遅くはないと思います。

yuzuka:そうですよね。とっさに自死を選んでしまう人もいるから、自殺を防止するって、すごく難しいと思います。私が自殺を考えていたときも、周りの言葉なんてなんにも響かなかった。

 全部が綺麗ごとに思えたし、自分の周りにある世界だけがすべてに見えて、希望なんて一生手にできないような気持ちになってくるんです。私も首を吊ろうとしたことがあるから、全部じゃないけど、その時の気持ちが想像できます。この記事を読んで、「だから死なない」と思うのは難しいと思います。この記事の中の話が、死にたい理由の根本的な解決にはならないと思うから。

 だけど、1日考える猶予が持てるなら、やっぱりそれには意味があると思うんです。「寝たきりになるのはちょっと怖いな」とか、生きる理由なんて、それだけで良いと思う。そうやって1日先延ばしにして、もう1日先延ばしにして、そしていつか本当の生きる理由を見つけてほしいって思います。

 よしむらさんが言うように、「どうせ死ぬんだから」って、最後にあがくのはすごく大切だと思います。死ぬ気になった人間って強いと思うから。私の場合も死ぬ気になってはじめて、「なんだっていいや」と思えたんですよね。「なんだっていいや」と思って行動すると、実はどうにでもなることがあったりもする。助けてくれる制度だってたくさんあります。


「まったく関係のない人の話を聞いてみる」ということ

よしむら:その通りだと思います。僕はとにかく、自分とはまったく関係のない人の話を聞いてみるってすごく大切だと思っています。世の中には、自分とは全然違う考えや生き方の人がたくさんいて、そういう人を見つけられるのがSNSだったりしますから。何かヒントがあるかもしれないので、そういう人に直接、メッセージを送ってみても良いと思います。

yuzuka:そういえばこの前、作家の末井昭さんとお話する機会があったんです。『自殺』という本を出版されている方で、子どものころにお母さまが不倫相手とダイナマイトを使って自殺をしたというた壮絶な過去を持つ方です。

 母親も失って、彼自身多額の借金も作って、ギャンブルで返そうと思って、さらに泥沼にはまっていたそうです。だけどある時から、彼も「なんだっていいや」って思えたそうなんです。すべてをネタにして生きていこうと思えてから、ようやくふっきれたと話しておられました。そしてそういう生き方にしたら、面白がってくれる人がたくさんいたんだ、と。

 私は彼とマインドが似ています。私も風俗嬢になったり、借金にまみれたり自殺未遂をしたり誹謗中傷から整形をしたり。いろいろとあったけど、いろいろとあったから、今はなんだっていいやと思える。だからお互いの昔の話をして、「それは大変だったね」と、クスクス笑い合うことができるんです。



まともに生きようとしすぎると、疲れてしまうから

考える女性
※イメージです

yuzuka:だけど末井さんと話している時にふと、普通に生きていたら、お互いこういう人種に出会うことってなかなかないよね、という話になりました。だって世の中で普通に生活している人たちの多くは真面目で、誠実だから。

 もちろんそれも大事です。だけど、時々苦しくなる原因でもあると思うんです。真面目に、まともに生きようとしすぎると、疲れてしまうから。それに比べてネットって、よしむらさんが仰るように、いろんな人に出会えます。

 私も看護師だけをしているときには、こんなにいろんな人がいるなんてこと、生き方があるなんてこと、知らなかったです。私のようなどうしようもない奴でも生きているんだってバカにしてもらって、それで生きてみようかなって思ってもらえるだけでも良い。実際そういう声も多いです。死にたくなったら私のことをバカにして、なんでもいいのでメッセージをくれると嬉しいです。

image13よしむら:自死を選んだ人は自死を選ぶ以外になかったのだと思います。その気持ちは決して否定したくない。だけど患者さんの姿を見ていると、どうしてもその姿を望んでいたとは思えないんです。だから今現在、自死が選択肢の中に入っている人には、他の選択肢も探してみてほしいです。

 もしかしたら、それ以外に選択があるかもしれない。探せば、見つかるかもしれない。どうかそれを、見つけようとしてほしい。僕はそんな気持ちで、これからも作品を描き続けます。もちろん辛かったら、僕にもメッセージをください。

image5<取材・文/yuzuka>

介護士が見た、自殺に失敗した人の“その後”。「寝たきりは、想像する姿と違う」<yuzuka×よしむら香月 前編>

越えられそうにない夜を、過ごす人がいる。

 世の中に絶望して、生きることを放棄したくなっている人が、この日本では、あとをたたない。

【マンガを読む】よしむら香月さんが描いた漫画『自殺を考えている人へ』

 2020年、日本の自殺者数は11年ぶりに上昇し、前年を上回る2万1081人になった(4.5%増)。男性は前年より23人減ったのに対して、女性は935人も増えて7026人が自ら命を絶った。コロナの影響や、著名人の相次ぐ自殺も原因となっていると見られている。これは、異常事態である。

終末期病棟で働く介護士が見たものとは?
 まだ希望を持つべき人たちが、次々に命を絶っていく。厚生労働省は、「自殺はその多くが追い込まれた末の死だ」と、言い切った。

 私は普段から、精神科で看護師として働いていた経験と、自分自身が自殺未遂をした当事者であるという目線から、自殺防止の啓発活動を行なっている。今回の企画では、この「自殺」について、さまざまな視点から掘り下げる。

 特殊清掃員である小島美羽さんと対談した前回に続き、今回は「自殺を図ったが死に切れなかった人はどうなるのか」という部分について、実際に終末期の病棟で介護士をしながら、漫画家として活動をしているよしむら香月さん(@tuki_no_kodomo)と対談した。

Twitterに投稿された漫画「自殺を考えている人へ」
 対談のきっかけは、彼がツイートした『自殺を考えている人へ』という4ページの漫画だ。

「最近、ウチの病院に入院される方で若い患者さんが増えています。大体14、15歳くらいの思春期が多く、皆、意識がありません。つまりいわゆる植物人間。彼らは皆、自殺失敗者です」

 と始まるこの漫画では、自殺を図ったが死に切れず、一生残る後遺症を負ってしまったり、脳死状態になってしまった人の、実状が描かれています。この漫画でよしむらさんは、「考え方やそれに伴う選択肢は十人十色」としながらも、「自損行為にはリスクを伴うことも知っていただきたい」と呼びかけています。

「自殺に失敗する」という可能性
 警察庁の統計によると、自殺の手段としては“首吊り”を選ぶ人が圧倒的に多く、ネット上にも「成功率が高い」との情報が多い中、「僕の病棟にいる患者さんは、首吊り自殺に失敗された方がほとんどです」と語るよしむらさん。

 後遺症で寝たきりになった患者さんの状態、病院にかかる費用まで、オンラインで話をきいた。

yuzuka:ここ最近、自殺を図ったものの死に切れなかったという方からのメッセージが増えました。みなさん口を揃えて、「こんなはずじゃなかった」「自殺未遂をする前に戻りたい」と話します。障害が残ってしまった方や、傷が残ってしまった方も多いです。

 自殺を計画される方の多くは、「自殺に失敗してしまう」という可能性や、死に切れなかったときの、その先を見ていない傾向にあるのではないかと思いました。そこの部分を掘り下げたいと思い、今回はよしむらさんにご依頼しました。まずはよしむらさんが働いている病院について聞かせてもらえますか。

よしむら香月(以下、よしむら):ありがとうございます。僕が働いているのは療養型の病院で、入院されている患者さんの8割が終末期医療、つまりは看取りまでをそこで過ごされる方です。

yuzuka:年齢層はどうですか?

よしむら:幅広いですね。一番若い方が14歳、もちろん100歳を超えるご高齢の方もいらっしゃいます。

yuzuka:よしむらさんの作品の中で、最近自殺が原因となって入院する患者さんが目に見えて増えた、という一文がありました。立て続けにそういう方の入院があったのでしょうか?

よしむら:そうですね。同じ月に2名入られて、そのときに、半年前にも同じ理由で入院された方がいたことを思い出しました。以前は若い患者さんの入院が滅多になかったので、印象的でした。


「寝たきり」とは“ただ眠っている”だけではない
yuzuka:自殺がきっかけで入院された患者さんについて、伺える範囲で、状態などを聞かせてください。

よしむら:多くは、首吊り自殺を実行した方です。首を吊った後、心臓がまだ動いている、もしくは止まってすぐの段階で家族や友人に発見されて、病院に搬送されて処置を受けたために、生き延びたという方が多いですね。

 その状態から蘇生が成功したとしても、蘇生後脳症、低酸素脳症などの重篤な状況に陥ることが多いんです。そうなってしまうと、僕のいるような療養型の病院に入院されることになります。年齢としては、10代の方が多かった印象ですね。

yuzuka:状況としては、いわゆる植物状態。意識が戻らない状態ですね。

よしむら:はい。はっきりと意識がある方がうちに入院されることは少ないので。

yuzuka:首吊りって、自殺の中でも成功率が高いといわれているんですよね。「確実に死ねる」と書かれているサイトさえあるんです。だから、他の方法と比べても実行する人が圧倒的に多い。だからこそ、よしむらさんの漫画に描かれていた、「一命は取り留めたが身体リスクを負った方は自損行為者総数の約60%」という数字に、私も驚きました。

 多分、死のうとする人たちの中には、そういった現実を知らない人がたくさんいます。もしくは失敗といっても、もう少し程度が軽いものを想像していたり、仮に「寝たきりになるかも」という思いがあったとしても、よくドラマなどに出てくるような、まるで白雪姫のように美しく眠っているような姿を想像している人が多いんじゃないかなって。だけど私は、その想像と現実にはかなりギャップがあると考えているんです。

よしむら:僕も同じです。

寝たきりになった患者さんへの介護
yuzuka:実際に自殺を図ったことで寝たきりになった患者さんには、どのような介護をされているのでしょうか。

よしむら:いわゆる植物人間と呼ばれる状態では、患者さんの自身の力では身体がまったく動かせません。なので、僕たちがお手伝いすることの中に、まずは排泄介助があります。おむつに定期的に排尿や排便があるものを、僕たちがきれいにする介助です。

yuzuka:お部屋の中で排泄があると、廊下にまでにおいが充満します。そのにおいもそうですし、親族や知らない人にオムツを替えられるということ自体に激しい羞恥心を感じて苦しまれる患者さんも多いですよね。

よしむら:そうですね。排泄の処理の他には食事介助もあり、これは看護師さんにやってもらっています。お鼻から胃まで、マーゲンチューブという管を通して、そこに液状の食事を直接胃に注入します。

 体位変換も欠かせません。寝たきりになると、寝返りも打てなくなるんです。そのままにしておくと、同じところに圧がかかってそこに褥瘡(じょくそう。床ずれ)ができたり、拘縮(こうしゅく)がひどくなってしまいます。それを回避するために、クッションを使って2時間に一度、身体の向きを変えます。


拘縮や褥瘡…寝たきりの患者さんの身に起きること
yuzuka:拘縮や褥瘡も大きな問題ですよね。看護師をしていたので見たことがあるのですが、寝たきりの期間が長くなっていくと、筋肉や骨は硬くなりながら縮んでいき、身体はどんどんまるまって、動かなくなっていくんですよね。

 だんごむしのような姿勢を想像すれば分かりやすいかもしれない。それを拘縮と呼ぶのですが、例えば折りまがったまま固まってしまった腕は、伸ばそうとしても、まったく伸びてくれないほどになってしまう。無理に負荷をかけると、簡単に骨が折れてしまうくらいです。

よしむら:オムツ介助のときに股関節を開いて洗浄するのにも苦労するほど、筋肉や骨が縮んで固まってしまっている方も多いです。顔も、口を開けたまま痩せこけてしまって……。よく床頭台に、 元気だった頃の写真が飾られてあったりするんですが、ふとそれを見たとき、面影がなくて驚くと同時に、切なくなることがあります。

yuzuka:多くの寝たきり患者さんが悩むことになる褥瘡(床ずれ)も、一旦ひどくなると、仙骨とよばれるおしりの骨の部分周辺に、拳が一つ入るほどの穴が開いてしまうこともありますよね。皮膚の中身がさらけ出された状態で膿が溜まっていますから、においは激しいし、穴の中までえぐって洗浄する必要があるので、きっと痛いんじゃないかなって思います。意識がある患者さんだと、いつも叫んでいたし……。

寝たきりの自分を本当に想像できているのか?
よしむら:こればかりは、実際に見たことがない人は想像もできないことかもしれませんね。

yuzuka:吸引も毎日、毎時間の業務ですよね。痰の排出もご自身ではできなくなってしまうので、鼻や口から管を入れて吸い取るんです。これがおそらく苦しくて痛いんだと思います。ほとんど動かない人なのに、その時だけ苦しそうな顔をする人もいました。

 看護師をしているとき、そういった状態の患者さんを多く見てきました。そしてたくさんの患者さんに言われたんです。「殺してくれ」「死んだ方がマシだ」と。その度に言葉につまりました。私にできることなんてほとんどなかったから。

 寝たきりになっても良い!という人はたくさんいます。だけど、それは本当に正しくその姿を想像できているのだろうか? という疑問はあります。1年、2年、3年、いつか自然に命が尽きるまで何年もその状態が続くことを、本当に想像できているのかなって……。金銭的な負担も大きいですよね。

よしむら:金額は個々のケースによって異なりますが、長期の入院となればけっして「たいした額ではない」とは言えない金額ではないでしょうか。

yuzuka:もちろん自死を考える方全員が、ご家族の負担を心配できるような状況にはないと思います。むしろご家族が原因でそうせざるをえなかった人もいると思うから「実行した後のことなんて関係ない!」という人もいるかもしれない。

 だけど、実際に自殺をされた方の現場に入られた特殊清掃の方のお話などを聞いていると、一概にそうとはいえないと思うんです。

 最後まで、ご家族やご友人に、できるだけ迷惑がかからないようにとご準備をされて亡くなられる方が本当に多い。そういう人にとっては、もしも死に切れなかったときにそれだけの負担がご家族にかかるというのは、やっぱり知っておくべきことだと思います。
<取材・文/yuzuka>

<悩みを抱えたときの相談先>

・こころの健康相談統一ダイヤル
0570-064-556
※相談対応の曜日・時間は都道府県によって異なります。(一覧はこちら)

・#いのちSOS(特定非営利活動法人 自殺対策支援センターライフリンク)
0120-061-338(フリーダイヤル・無料)
※毎日12時から22時

・よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)
0120-279-338(フリーダイヤル・無料)
岩手県・宮城県・福島県から 0120-279-226(フリーダイヤル・無料)

・いのちの電話(一般社団法人 日本いのちの電話連盟)
0570-783-556(ナビダイヤル)
※午前10時から午後10時。IP電話(アプリケーション間の無料通話を除く)からは03-6634-2556(通話料有料)へ。

・厚生労働省「まもろうよ こころ」
※電話相談、SNS相談の方法や窓口の案内

【yuzuka】
エッセイスト。精神科・美容外科の元看護師でもある。著書に『君なら、越えられる。涙が止まらない、こんなどうしようもない夜も』『大丈夫、君は可愛いから。君は絶対、幸せになれるから』など。動画チャンネル「恋ドク」のプロデュース&脚本を手がけた。Twitter:@yuzuka_tecpizza

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...