2023年7月27日木曜日

間接的安楽死と終末期の鎮静~安楽死制度を議論するための手引き10-1

見出し画像

間接的安楽死と終末期の鎮静~安楽死制度を議論するための手引き10-1

2023年7月27日 18:00

論点:鎮静は安楽死制度の代替となり得るか

 日本緩和医療学会が発行している『がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き』が2023年に改訂されました。
 そもそもこの手引きは、終末期における鎮静(苦痛緩和を目的として鎮静薬を用いて患者の意識レベルを下げること)に対し、2004年に「ガイドライン」として発行されていましたが、他のガイドラインと異なり論文などの体系的な収集・分析が困難であるという事情から、「手引き」という名前で発行・改訂が続けられてきました。

 そして、今回この2023年度版の中で何度も取り上げられる気になる言葉があります。
 それは「間接的安楽死」
 そもそもは東海大学病院事件の際に、意図的に死期を早める「積極的安楽死」、また生命維持のための治療を中止または開始しないことで自然な死の経過に任せる「消極的安楽死」と並んで取り上げられた概念だそう。
 その内容としては「苦痛を取り除くための治療を行う医療行為の副作用により生命の短縮を伴うもの」とされています。つまり、鎮静も「生命の短縮を伴うもの」と意図されているのであれば、法的にはこの間接的安楽死の定義に該当するとされます。

 実は、前版の2018年の「手引き」にも間接的安楽死の言葉は出てくるのですが、それは付録資料のうちのほんの数行の記述に過ぎませんでした。今回の「手引き」ではその部分に大きく紙幅を割き、検討されているところが異なると言えるでしょう。

 今回は、この改訂された『手引き』の内容を中心に、「間接的安楽死」の概念や、それをもって安楽死を求める声に応えられるか、という点や、この『手引き』自体の問題点などについて話していきましょう。
 長くなりますので、この稿では『手引き』の内容を紹介することを中心とし、僕の具体的な意見については次回でお伝えしたいと思います。

鎮静は寿命を縮めるのか?

 では、本当に鎮静が患者さんの寿命を縮めているのか?については、学会内でも様々な議論や研究があります。
 結論から言えば、「余命が数日~1週間くらいの時期における鎮静は、生命を短縮することは(おそらく)無い」というのが、今回の「手引き」でも僕たち臨床医の感覚としても妥当です。
 ちなみに、この稿で取り上げている「鎮静」とは「持続的な深い鎮静」、つまり「目が覚めないレベルまで眠ってもらう」ことを意図した方法のことで、前にお話した「調節型鎮静(苦痛の程度に応じて鎮静薬を用い、苦痛を感じないように意識レベルをコントロールしていく方法)」とは別のものです。そのように、持続的に鎮静薬を投与して、またその際に点滴などの治療を中止したとしても、寿命に与える影響はほとんど無いだろう、というのが僕らのコンセンサスになっています。

 このように鎮静によって、寿命が縮むことは絶対に無い、と言い切れるのなら、それは正当な医療行為とみなされ、法的には何の問題もありません。
 ただ一方で、「本当に絶対と言い切れるのか」と問われると、「全ての事例でそうとは言い切れない場合も存在する」というところが(実行した医師はそれを意図していなかったとしても客観的に見れば)実際であり、そういった事例も含めて法的には問題があるのか?ということが検討されてきました。

 そしてまた結論を言うと「きちんとした手順・手続きに基づいて行われる限り、仮に生命が縮むことを伴う『間接的安楽死』だったとしても、終末期における鎮静は違法性に問われない」とされています。

 では、その「手順・手続き」とは何かというと、以下の5つの要件を満たす状況であること、が前提とされます。

①耐え難い肉体的苦痛が存在していること
②死期が切迫していること
③苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
④苦痛の除去・緩和のための治療行為として行われること
⑤患者の意思表示

『がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き』2023年版

 ではこの要件のうち、議論となりそうなポイントを3点取り上げていきましょう。

肉体的苦痛が対象で精神的苦痛は対象ではない

 まず①「耐え難い肉体的苦痛が存在していること」について、「肉体的」とあえて限定している点に注目です。海外の安楽死制度においては、肉体的・精神的な苦痛をあえて分けず、また実際に「耐え難い精神的苦痛」を理由として(積極的)安楽死が行われた例も存在しますが、日本においてはそれを認めない立場を、法学的には採っています。
 そもそも法学的立場からは「心身二元論」を前提としており、肉体と精神が別個のものとして扱われているようです。これは僕たち臨床医の感覚からは離れているものですし、緩和ケアの原則とも異なります。しかし、そういった意見もあったことを受けての東海大学病院事件の判決では、

苦痛については客観的な判定、評価は難しいといわれるが、精神的苦痛はなお一層、その有無、程度の評価が一方的な主観的訴えに頼らざるを得ず、客観的な症状として現れる肉体的苦痛に比して、生命の短縮の可否を考える前提とするのは、自殺の容認へとつながり、生命軽視の危険な坂道へと発展しかねないので、現段階では安楽死の対象からは除かれるべきである

横浜地裁平成7年3月28日判決・判例時報1530号28頁

と結論し、精神的苦痛による安楽死は許容されない、という立場をとっているのです。
 ただし、これはあくまで平成7年(1995年)と30年近く前の判決を元にしているだけであり、現在の「痛みの定義」からもかけ離れているうえに、緩和ケアで標準的とされる「全人的苦痛」の考え方とも異なるため、議論の余地があるところと感じます。

終末期と「死期が切迫している」の違い

 次に②「死期が切迫していること」について、あえて「切迫」という文言を用いていることの意味です。これは、文言として「終末期の状態」と書かれたときに受けるイメージと比べ、「より短い時間である」ことを示唆する意図があります。
 では具体的に、この要件で設定された時間とはどの程度を指すのか、という部分ですが、実はこの点を明確に示すことができる法的根拠は存在しません。ただ、医療者の一般的に考えて鎮静を実施した際に生命が短縮するのが「ほとんど無い、あったとしてもわずか」と捉えているので、その前提に立つと「数日~10日前後」と考えるのが妥当かなと思います。2~3週くらいでも許容されるのでは、とも言われていますがそこは個別の要因もあり、法的に問題ないかは保証されていません。しかし一方で、1か月・2か月という「月の単位」の予後が想定されている場合の鎮静の実施は、明確に「寿命を大幅に短くする」ことが前提となっているので、許容されないでしょう。

患者の意思=家族の意思ではない

 そして⑤「患者の意思表示」について。今回の「手引き」では2018年度版で「鎮静を行うに際し、家族の同意を得ること」とされていた記述が「家族の同意を得ることが望ましい」と変更され、患者本人の意思を最優先するべきことが明文化されました。
 しかし一方で、間接的安楽死としての鎮静を実行するのであれば、患者本人への説明と同意が原則として必須である、ということも示されました。これはつまり、鎮静が必要そうな病態をたどることが予測される患者を中心に、まだ意識が清明できちんと判断ができる時期に、鎮静について情報提供を行っておかなければならない、という意味です。
 これまでの臨床では、鎮静について事前に情報提供を行うことはほとんど無く、実際にかなり苦しい状態になってから
「これまであらゆる手を尽くしてきましたが、あなたの苦痛を緩和する有効な手立てがありません。そこで、麻酔薬のようなものを使って、あなたの意識レベルを下げ、苦痛を感じずに眠って過ごせるようにするという方法があるのですがどう考えますか」
などと説明し、同意を得ていたのです。もちろんその頃にはほとんど受け答えができなくなっている患者も多々いますので、その場合は家族に同じ説明をし、同意を得ることをしていました。
 もちろん、今回の『手引き』でも、本人の意識が無い場合は、家族などの代理人が「本人が判断できるなら下すであろう結論」を推定して方針を決めていくことは許容される、とはしていますが基本的には患者本人と事前に話し合っておくように、ということが強調されています。
 このことが生む、新たな問題点については次回にお話していきます。

生命という最高法益

 (刑)法学の立場を理解しようとするとき、その大前提として「生命は絶対不可侵であり、あらゆる権利よりも優先して保護される最高法益である」ということを押さえておくと分かりやすいです。
 これは、例えば「人の命を奪う」犯罪を犯したときは殺人罪に問われますが、それがもし「本人の同意や承諾があった」ことが明らかであれば同意殺人罪となり、法定刑がかなり減刑されます。しかし、逆の見方をすれば、本人がその死について同意・承諾していたとしても、刑法上の罪として裁かれることは免れないことを意味しており、つまりは自分の生命を処分する権利(死の権利)は日本の法律上認められていないということなのです。
 自己決定権は、日本国憲法に明示されていないものの13条に規定される「個人の尊重」「幸福追求に関する国民の権利」という包括的基本権に含まれるとされていますが、その自己決定権をもってしても、「生命の絶対不可侵性」を超えることはできない、ということです。

 さて、では次回はこれらの前提を元にして、論点である「鎮静は安楽死制度の代替となり得るか」についてお話していきましょう。


https://note.com/tnishi1/n/n02b9edc78019

2023年7月23日日曜日

安楽死制度を議論するための手引き09(感想編)

見出し画像

安楽死制度を議論するための手引き09(感想編)

2023年7月13日 18:00

「安楽死制度を議論するための手引き09」では、全3回にわたって写真家・幡野広志さんとの対談の様子をお届けしてきました。

 ただ、僕はリアルタイムで幡野さんとお話しているとき、幡野さんがおっしゃるところの、
「安楽死がポリコレになっちゃって、生きることが社会的な正義で安楽死は社会悪って風潮ができあがってしまった」
という言葉の意図を、くみとり切れていなかったように思います。

 このnoteを読まれている方の年代が、僕にはわからないんですけど、少なくとも今の40歳以上の方々って、「汚いものや猥雑なものの中にこそ真実があり、小ぎれいに飾った見栄えのするものは虚飾である」って価値観を、何となくでも理解できると思うのですよ。
 でも、いまの若い世代を中心とした世界の方向性は「きれいなものの中にこそ真実や正義がある」に変わってきてしまっているのですね。そして中高年世代も、世界全体がその流れの中にあるから、知らず知らずのうちに昔ながらの価値観が失われて新しい価値観に置き換わっているはずなんですけど、その変化に気づいていない。まるで20年前から「きれいなものの中に真実がある世界だった」と思い込んでしまっているのです。

 これは岡田斗司夫さんなどが「ホワイト社会の到来」というテーマで発信をしていますが、日本だけではなく世界全体で「正しさ」が「清廉さ」と置き換えられてしまっていて、アニメや映画の表現の幅も狭められてしまったり、有名人などはその経歴の過去にさかのぼって「正しくない」行為を糾弾されたりする社会になりつつあります。

 このホワイト化された社会の中では、前向きに生きることこそが「正義」であり、今後ますます「死の権利」を持ち出すことは「悪いこと」化される可能性が高いです。

 本来であれば、多様な価値観を認め合うことが名目上は「正しいこと」とされているわけなので、「生きたい」と願う人がいる一方で「死にたい」と願う人がいることも肯定されるべきだと思うのですが(その思いそのものと実行することの是非は別に考えなければなりませんが)、実際には「死にたい」と口にすることすら「悪」とされる風潮は強くなっています。
 これは「多様な価値観を認め合う」という言葉だって、その字面が「美しい」、だから「正しい」と捉えられているだけなのかもしれません。その本質を追求することはタイパが悪い、めんどくさい。「大勢が『正しい』と考える価値観の範囲でのみ、多様性を認める」となっている。深く考えずに表面をなぞって、「美しいからそれでいいんじゃない」って言っている間に、地の底で喘いでる人々がいることすら、その大勢は気づいていないのでしょう。

 橘玲さんはその著書の中で、人を含めたすべての生物は、快感を求め苦痛を避けるようにプログラムされており、その「快感」の中には「正義の行使」があることを指摘しています。

メディアが「こんなことが許されるでしょうか」といつも騒いでいるのも、SNSで不道徳な者がさらし者にされるのも、現代社会にとって正義が最大の「娯楽(エンタテイメント)」だからだ。

橘玲『バカと無知』(新潮新書)より抜粋

 ここ最近のSNSを中心とした「叩いて良いと判断されたものを完膚なきまでに徹底的につぶす」風潮の中、安楽死制度も「道徳的に正しくないこと」のカテゴリーの中で排除されつつあるのでしょう。

 安楽死を願う当事者と、それに反対する外野では、その重きを置く価値観は全く異なりますし、それぞれの世界の見え方も当然異なるはずなのですが、このギャップを理解できないままにそれぞれの「正義」をぶつけあったとしても、結論には絶対にたどり着けません。
「多様な価値観を認め合う」理想が達成された社会なのであれば、お互いがお互いの正義をぶつけあって、つぶし合うなんてことも起こり得ないはずなのに、です。
 そしてさらに近年ではこのホワイト化された社会の価値観の中で「死」を遠ざける傾向がさらに顕著になってしまっているため、「安楽死制度が政治的イデオロギーになってしまった」と言えるのだと思います。

 さらに日本においてやっかいなのは、このホワイト社会の到来が「人権」に立脚せず、「思いやり(道徳的正しさ)」の上に成り立ってしまっているところです。
 この立脚点の違いが、安楽死制度の成立にどう影響するかについては、またこれからの稿でお話します。楽しみにお待ちください。


https://note.com/tnishi1/n/n52ac9f2f8ed3

2023年7月9日日曜日

幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(後編)

見出し画像

幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(後編)

2023年7月6日 22:12

論点:安楽死制度を日本で作っていくことは可能か?

 前回まで、「安楽死制度を日本で作っていくことは無理だと思いますよ。それは安楽死制度が完全に政治的イデオロギーになってしまったからです」と解説してくれた、写真家で多発性骨髄腫というがんの治療を続けている幡野広志さん。

 今回は、「そもそも日本において、安楽死の議論は可能なのか」というところから話がスタートします。

***************************

西:そもそも安楽死の「議論」ってスタートしていくと思います?

幡野:ははは、そもそも僕は議論に意味ないと思っているので。

西:『安楽死を遂げた日本人(小学館)』などの著書がある宮下洋一さんは、ある番組の中で「オランダやベルギーでは、安楽死制度を求める市民運動・・・ムーブメントが起きていった結果として、制度化を認めようという流れになった。そういう歴史があるからこそ、現在の姿がある。一方で日本は、そういうのが全く無いにも関わらず、いきなり制度を作っていくなんて無理」とおっしゃっていましたね。

幡野:いや、でもそれは欧米人の価値観と日本人の価値観が全然違うじゃないですか。欧米人の価値観になんで日本人が合わせなきゃいけないんですか。

日本人の価値観は「人に迷惑をかけたくない。人に排泄の世話をされるなら死にたい」って思う人がいますよね。

欧米の歴史をなぞるような運動が起きるはずはなく。声すら上げないまま黙って自殺していくような国ですから。だから海外のように日本がなっていくのは無理だと思うし、必要もないと思います。

西:そうですね。日本においては他の社会課題を見ていても運動、ムーブメントまで発展することはほとんどないですよね。

幡野:僕がもう一つ思うことは、こうやって番組や取材とかで安楽死制度を否定して、それは健常者の皆さんにとってはハッピーエンドかもしれないけど、僕ら病人にとっては苦しさが無くなるわけじゃないんですよね。

それなのに、安楽死を否定した代わりに何があるのか?ってことは誰も提案しませんからね。反対してもいいんですけど、その先に何も示せないなら、それは患者を絶望に追いやっているだけじゃないかと思います。

西:確かに、絶望だけを与えて、希望が無い。

幡野:ただ、スイスとか他の国で安楽死をするのは僕は反対です。自分もスイスの安楽死団体に登録した手前、あまり強くは言えないですけど、実際にそういうことを希望する前に、よく考えた方がいいんじゃないかなって思っています。

西:おっ、そうなんですか。それはなぜ、そういう考えになったんですか?

幡野:それは、西先生が先ほど言った、「安楽死をしたいです」「はい、どうぞ」がまかり通ってしまう世界だと思うから。それに、単純にスイスが遠すぎる。

登録した人の何パーセントがスイスで死を迎えているんでしょうかね?僕も、登録はしたけど「海外で安楽死すること」に魅力があるわけじゃないです。

登録したのは自動車保険に入った感覚なんですよね。安心感はある。だけど自動車事故を起こしたくはない。

それでも、患者さん全員がその保険を使える状態であった方が良いとは思うんですけど。

西:幡野さんは以前から「安楽死という切り札のカードを持っておきたい。それがあるから安心して生きられる」といったことをおっしゃっていましたし、海外でも同じことをおっしゃっている方が何人もいますね。

幡野:今回、「骨に転移しているかもしれない」って言われて1か月検査したって言ったじゃないですか。

その時に、もう一度真剣に考えてみたんですよね。それで「やっぱりスイスには行かないな」って思いました。

子どもがもっと小さかったり、独身だったら行っていたかもしれないけど、もう子どもも小学生になって・・・小学生だからできないって理由はうまく言葉にはできないんですけど、いまの状況ならスイスで安楽死をするのはベストではないなって思っているんです。

画像

西:僕は、幡野さんのおっしゃる「海外で安楽死することの魅力は無い」っていうのがよく分からないのですけど、じゃあもし日本で安楽死ができるとしたら、それは「魅力ある選択肢」になるのですか?

幡野:少なくとも、海外でするよりは魅力があると思います。それが、何でなのかっていうのは・・・う~ん。

西:じゃあ、ちょっと質問を変えますが、幡野さんの中で魅力のある・・・というか理想的な安楽死制度の形というのはあるんですか?

幡野:それは、自分で望んだタイミングで苦しまずに死ねるってことですね。それはやっぱり、鎮静では、それを実行する医者のボーダーラインがまちまちだから難しいですよね。逆に、鎮静も、自分でタイミングとかを選ぶのが自由になるんであれば、それは全然日本でも良いんじゃないかと思っています。

西:う~ん。でもそれは「海外で安楽死する魅力の無さ」の答えとはつながらないですかね。

幡野:こう考えてみたらどうでしょう。安楽死を望む人たちって、多くは似たような意見じゃないかと思うんですけど「苦しんで死にたくない」なんですよ。ただ、その「苦しむ」っていうのに人それぞれあって、「人に迷惑かけたくない」とか「家族に苦しんでいる姿を見せたくない」とか。僕にとっての「苦しくない」は、「家族に苦しんでいる姿を見せたくない」のと「家族・親族にコントロールされて死を迎えたくない」ってこと。逆に言えば、そこさえクリアできるのなら、そもそも自分にとって安楽死は必要ないのかもしれません。

西:なるほど。

幡野:実際、安楽死を実行することで遺された家族が受けるダメージもあるわけじゃないですか。

よく「人の命は、その人だけのものじゃない」という価値観の人がいます。

自分のいのちを「株」みたいに例えると、人生ってその株券を渡した相手と会社を作っていくみたいなものです。

僕が病気になったときって子どもはまだ1歳半だったんですけどもう7歳です。年齢が上がったことで単純に、子どもの持ち株が増えていると思うんですよ。妻の持ち株は変わらないけど。

そうなってくると必然的に、子どもの意見も尊重しないとならないとは思っています。

それでやっぱり子どもは、反対すると思うんですよね・・・。これから生きていく人たちが生きやすいようにしていった方が良いなと考えたとき、家族の今後の人生を守ることも大切にしないとなとは思います。

子どもには意見を言う権利があるし、僕は子どもの意見を聞くべきだと思います。僕のいのちの株の大株主ですから。

そう考えていくと、やはりスイスでの安楽死は難しいなと思うんですよね。だけど、僕みたいな状況のがん患者っていうのは少数派ではあるので、僕にとって必要ないってなっても、大多数の他の人も同じとは限らないですよね。だから、日本にあった方が安心だとは思いますよ。

西:なるほど。遺される家族の人生を考えたときに、スイスで安楽死するのが現実的と思えないということですね。

画像

幡野:あと言いたいことは、今現在は緩和ケアに対する不信感もありますね。緩和ケアに対する信頼感が上がれば、安楽死を望む方は少なくなるんじゃないかとも思うんですよね。

さっきの僕みたいに、諸条件がクリアされれば、安楽死は必要なくなる人っていると思うんですよ。

だから、20年後にもっと緩和ケアが充実して、鎮静を取り巻く状況も改善したら「安楽死制度必要なかったよね」ってなる未来も、ひとつの理想だとは思っています。

西:そうですね。さすがに20年も経って緩和ケアも今の状況と変わっていないとは思いませんけど、20年後と言わず今現在もがんに伴う苦痛に苛まれている患者さんはたくさんいるわけで、1日でも早く緩和ケアの充実をはかっていかないとなりませんね。

幡野:そうですね。

西:では、天ぷらも食べ終わったことですし、お終いにしましょうか。今日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございました。

幡野:いえいえ、こちらこそ。美味しかったです。

(了)


https://note.com/tnishi1/n/n0efe755f3b66

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...