2023年6月29日木曜日

幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(中編)

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幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(中編)

2023年6月29日 18:00

論点:安楽死制度を日本で作っていくことは可能か?

 前回、「安楽死制度を日本で作っていくことは無理だと思いますよ。それは安楽死制度が完全に政治的イデオロギーになってしまったからです」と解説してくれた、写真家で多発性骨髄腫というがんの治療を続けている幡野広志さん。

 今回は、「安楽死制度に医者は関わらない方が良い」というところから話がスタートします。

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西:僕自身は、医者が安楽死制度を触れないようにしたほうがいいんじゃないかなって思っているんです。

幡野:確かに。それをやってしまうと医者の裁量で、患者さんをどんどん安楽死に送ることもできる・・・。

西:そうなんです。決定するのも医者、実行するのも医者、ってしてしまうと、どんどんと医者の側が「安楽死を施す理由」を正当化して、際限なく患者さんを死に追いやってしまってもおかしくないんじゃないかって。

幡野:そうかも。患者が望んでいなくても・・・。

西:そういった危険性がありますよね。

幡野:こないだも、あるがん患者さんと会ったんですよ。そのときが、診断されてから3週間くらいってことだったから一番つらい時じゃないかなって思うんですけど。その方は「がんになる前から幡野さんのこととか知っていたので、意外と平気です」っておっしゃっていたんですけど。でも人によっては、その宣告を受けただけで死にたいって思う方もいますよね。そんなときに短絡的な医者が来て「じゃあ死にましょう」って言うかって話なんですけど。

西:そんな医者、いてほしくないと思いますけど全国にゼロとは限りません。ちなみに、がんを宣告されてから、立ち直っていくまでも人によって様々ですよね。

幡野:がんと宣告されると最初の1か月くらいが精神的に死にたくなるほどつらいんですけど、そこを抜けて、死までの長い時間がどういうものになるかって人それぞれなんですよね。

「がんになってもこれで良かったんだ」って思える方もいれば、世の中を呪いながら最期を迎える人まで様々。

その差って結構大きいと思うんですけど、健康だったときに人生に満足できていた人とそうでない人で変わる部分もありそうだとぼくは思っています。

がんになっても自分らしく生きるという言葉は大事だけど、がんになった時点でじつはもう遅いんですよね。

「元気な時にこうしておけばよかった」って後悔を抱えるがん患者さんにたくさん会いましたよ。いま、健康かもしれないけど日々を不満足に生きている方々が、20年後とか30年後にがんになって大変な治療をしたり、治療のすべもなかった場合「死にたい」って思っても安楽死制度が無くて大変な思いをするんじゃないかなって気はします。。

西:そうだとしても医者は、そういうつらいときに「でもこういうことができます」とか「こういう道があります」って、気休めでもいいからきちんと告げていくことが役割なんじゃないかと思っているんです。

患者さんたちを見ていると、生きていく中での選択肢が狭まっていくのがつらそうに見えるんですよね。そのときに「これができます」って医者の言葉を信じられるかどうか・・・っていうのはありますけど。もちろん、それに対して患者さんが「いや、先生はそんな風におっしゃいますけど・・・」って否定的に思うのは患者さん側の自由じゃないですか。でも一方で、「いや安楽死制度って楽になれる方法があるんすよ」って医者が言い始めたら怖いんじゃないかと思うんですよね。

幡野:それは怖いっていうか普通にダメですよね(笑)。

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西:ただ、実際に緩和ケア科に紹介されてくる患者さんを診ていて、「なんでこんなに早く諦められているの」って方を結構見るんですよ。

幡野:それは患者が諦めている、ってことですか・・・?

西:いや、医者が諦めているって意味です。「あなたはこんな状態だったら、もう抗がん剤やっても苦しいばっかりだし、緩和ケアで診てくれるいい病院があるから、そちらに紹介しますね」とか言われて、送られてくる。でも、僕から見たら「なんでこの方1回も抗がん剤されないで諦められてるの?」って思う方がちょくちょくいるんです。確かに、このまま何もしなければ2~3か月くらいしか生きられないと思うけど、でも若いし、ただ単にがんが進行していることで具合悪くなっているだけだし、ワンチャン抗がん剤が効けば、復活する可能性もあるんじゃない?って。実際、いま僕の外来に通われている方の中にも、そうやって諦められていたけど、抗がん剤治療やったことでメキメキ元気になって、体から癌が全部消えて、もう抗がん剤しなくても済むようになった方も何人もいるんです。

幡野:それはすごいな。

西:もちろん、改善する見込みの乏しい状態で治療をさせ続けるっていうのもどうかとは思いますが、見切りが早すぎるのも。だから、こんな医者もいる中で、片方の手では「抗がん剤治療もありますよ」って言う一方で、もう片方の手で安楽死制度も取り扱うなんていうのは、絶対に全国一律にはならないって思うんですよね。オランダの家庭医システムのように、若いころからずっとその患者さんのこと診ているって中で、「あなたとは長い付き合いだけど・・・」って前提で始まるならまだしも、日本の医療システムみたいに医者と患者の付き合いがめっちゃ短い中では、患者さんを目の前にして「初めまして。抗がん剤をしますか、それとも安楽死にしますか、どうしますか」、なんてやっていくのはかなり難しいと思います。

幡野:西先生の考えでは、実行も医者以外がすべきということですか?

西:いや、実行は医師免許を持っている方がやらざるを得ないでしょうね。薬物の取り扱いを含め、医師以外が安楽死を実行するとなると法律を変えないとならない部分が多いのではないかなと思うので。裁判所の命令書を受けて、医者が実行するって感じになるのかな。

幡野:でもやっぱり、どこまでいっても政治的イデオロギーになってしまうんじゃないかと思いますよ。誰しもが、黒ひげ危機一髪の最後のナイフは刺したくないわけで。医者側としては、今夜を気持ちよく寝るためには、そんなことはせずに患者が医者に感謝して文句も言わずに死んでいってくれた方が丸く収まりますよね。

西:そうなんですかね・・・。でも確かに、政治家を動かすのは難しいかもしれないですよね。

幡野:この数年間の安楽死を延命治療の医療費と結びつけたコスパ的な議論のせいで、安楽死問題がイデオロギー化してしまったのは本当にもったいないと思うんです。延命治療をコスパじゃなくて尊厳や倫理で議論するべきだった。

イデオロギー化したツケを払うのに、少なくともこの数年ではまず無理。20年後、ワンチャンあるかなってところ。

基本的に死を否定することがポリコレとなって社会正義になってしまった。健康な人たちにとっては、安楽死なんて無いほうが気持ちよく眠れますって。

だから、こんな状況にもかかわらず緩和ケアの医師たちによって「鎮静なんてとんでもない」といって、医師の気まぐれで鎮静の運用がバラバラになってる場合じゃないと思うんです。

西:そうですね。だから僕としては、少なくとも現在の状況の中で、患者さんの人権がきちんと守られるって社会にしたいなと思っているんです。人権運動の一環として、安楽死制度を求めていくっていうところが現実的なのかなと。

幡野:安楽死って倫理の話のはずなのに、コスパで語られてしまう部分が多いのも問題ですよね。

「人は苦しみながら死んでいいのか」とか「本人の希望ではなく、家族と医者の判断で人生を決められて良いか」とかの話の先にあるはずなのに。

人権って切り口で行くのは確かに良いと思うのですけど、どうやっても政治の問題に行きついてしまいそうな気がしています。

どうがんばっても治らずに、死を待つしかない人がいる。本人が望んでいない延命治療をすることって正しいんですかね。

だからやっぱり「20年後とかに、ようやく議論スタート」ってくらいじゃないですか。

(後編に続く)

2023年6月23日金曜日

幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(前編)

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幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(前編)

論点:安楽死制度を日本で作っていくことは可能か?

 これまで、この連載では安楽死制度を議論するために、どういった考え方をすればよいのか?について連載を続けてきました。

 そんな僕に「安楽死制度を日本で作っていくことは無理だと思いますよ」とご意見をくれた方がいます。
 それは、写真家で多発性骨髄腫というがんの治療を続けている幡野広志さん。

 以前は、「日本でも安楽死制度を作るべき」と話されていた幡野さん。『だから、もう眠らせてほしい(晶文社)』でも対談しましたが、この3年間で考え方がどのように変わったのか、そしてどこが変わらないのか?幡野さんの真意を確かめるべく、お話を伺いに行ってきました。

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西:あ、ご無沙汰してます~。

幡野:すみません、遅くなって。道に迷ってしまって。

西:大丈夫ですよ。もう注文してますから、ゆっくり食べながら話しましょう。
※この収録は川崎市内の天ぷら屋さんで行いました。

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西:では、さっそくですけどなぜ日本では安楽死制度はできないと思うのでしょうか。

幡野:本来、安楽死って医療行為の先だったり、緩和ケアだったり、がん患者やALSの先にあるはずだったけど、完全に政治的なイデオロギーになってしまいましたよね。だから無理だと思う。

西:政治的イデオロギー。

幡野:そう。安楽死がポリコレになっちゃって、生きることが社会的な正義で安楽死は社会悪って風潮ができあがってしまったように感じるんです。実際に、苦しんでいる患者さん、安楽死を求める患者さんはいるけれども、そういった方々のために議論していくわけではなく、「社会的な弱者が安楽死によって死に追いやられてしまう」って捉えちゃう。政治的な正しさとしては「その命を救おう」ってしてしまいますよね。

西:なるほど、「命を救おう」って言った方が、政治的には正しいから支持されやすい・・・。

幡野:仮に、与党議員が法制度化を提言したり、厚労省が「議論しましょう」とか言っても、政治も社会も反発が起きますよ。なので、制度を成立させること自体が困難なのではないかと思うんです。安楽死に反対するのが正義なんだと思います。

西:なるほど。

幡野:だから僕は、少なくともこの20年くらいは無理だと思うけど、いまの40~50代くらいの人たちががんになって、切羽詰まったときに気づくんじゃないかな。僕自身はどちらにしても日本で安楽死は無理だと思っていたから、何かが変わるわけではないけど、これから癌とかになっていく人たちがきついんじゃないかなと思う。

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西:僕は医療の現場を見ていて思うんですけど・・・「自分も、年取るんだよ」って。それが、そのように想像できない人たちがたくさんいるというか・・・永久に健康でい続けられるって思っているんじゃないかって。それが不思議なんですよね。

幡野:やっぱり、人はその状況にならなければわからないんじゃないかなって思いますよ。

西:うん。まあ・・・そうですかね。

幡野:僕、去年の秋に盲腸の手術したんですよね。それから半年くらい経つんですけど、今でもときどきお腹に激痛が走るんですよ。新幹線の中とかでドクターコールした方がいいんじゃないかってくらい。それで、おかしいなと思って主治医に相談したんですけど、そしたら「腫瘍が骨に転移していて、それで痛みが出ているのではないか」って言われたんです。それで1か月くらいかけて検査してみたんですけど、結果的に腫瘍は無かったんですね。それはよかったんですけど、僕もこの病気になって「いつか骨に来る、そしたらお終いだ」と覚悟はしていたつもりだったんですね。でも、実際にその状況になってみると、この1か月間不安で不安で仕方が無かった。だから、こんなこと言うと身も蓋も無いですけど、やっぱり病気になってみないとわからないんじゃないかなって。

西:検査の結果出るまでは、患者さんたち皆さんつらいっておっしゃいますね。

幡野:健康な人たちは「健康」という安全圏からものを見すぎなんですよ。自分が癌になという視点ではなく、癌の人を看取るって視点になっている。僕は病気になって親類縁者と縁を切りましたけど「安全圏からものを見る親族たち」に治療方針を口出されるのが、みんな怖くないのかなって思いますもん。
医療的なパターナリズムって、今の時代だいぶ少なくなってきたと思いますけど、家族によるパターナリズムが強くなっただけであって、患者の人権ってないのが現実かと思うんです。それでもみんな、「自分だけは大丈夫」って自信があるんでしょうか。

西:僕は何か、そういう話になると「意外と医者って信頼されているんだろうな」って思うんですね。仮に病気になったとしても、お医者さんがきっと何とかしてくれる、って信頼。うちらにとってはありがたい話だけど、現実の医者は十人十色ですからね。治療はともかく人生観については。

幡野:その点においては医者ガチャが過ぎるっていう部分がありますよね・・・。病院全体の口コミとかも当てにならないと、よく聞きます。よほど運が良くないと、っていうのがありますね。

(中編に続く)

2023年6月3日土曜日

緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか~安楽死制度を議論するための手引き08-2

論点:緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか

 前回の記事では、緩和的鎮静の定義や最近の考え方などについてご説明しました。
 では今回は、前回の宿題となっていた「終末期と同様な苦痛があっても延命される日本」といったテーマを取り上げましょう。

※以下、自死に関連する概念の記述がございます。ご覧いただく際にはご注意の上、お読みくださるようにお願い申し上げます。

 皆さんは「VSED」という概念をご存知でしょうか。「voluntary stopping eating and drinking」の略、日本語で言えば「自発的な飲食中止」という行為です。つまり患者さんが自分で飲食を止めることで、死期を早めるための方法で、安楽死や医師による自殺幇助が何らかの理由により難しい場合の代替方法として患者自身が選択する場合があります。
 オランダやベルギーなど、安楽死制度が存在する国においても、安楽死を希望する方全員が安楽死を受けられるわけではありません。希望をしていたが適応外とされたり、審査中に死亡してしまうという例もあるということですね。つまり、安楽死の手続きの煩雑さや適応外となった場合に、VSEDによる死を選ぶ人がいるということです。
 2015年オランダの医師708人から回答があったアンケート調査によると、46%がVSEDによる死期の短縮の経験があり、患者の70%以上は80歳以上で、76%は重篤な疾患を持ち、27%はがんであり、77%は日常生活に介護が必要であった方、と報告されました。またVSEDによる死亡までの中間値は7日であり、死亡までの主な症状は痛み、倦怠感、意識障害、口渇でした。
 また、2016年に日本緩和医療学会と日本在宅医学会の専門医の計571人から回答が得られた調査では、185人(32%)がVSEDを実際に試みた終末期患者を診たことがあると報告しています。

 世界的には、VSEDを患者さんが選択した場合に、医師が患者さんに治療(栄養療法など)を強制する方法はなく、よってVSEDを決定した患者の意思を尊重するべきであるという論調です。患者の権利法におけるポジティブ・ネガティブリストにおいても、安楽死は患者の権利法の埒外なので、医師に拒否権がある、という話を以前にしましたが、一方でVSEDはネガティブリストの行使に値するため、患者さんが飲食を止めると判断しても、それを治療する法的根拠が無いということです。

 しかし、VSEDは決して「安らかで楽な死」とはいえません。数日も飲食を止めてしまえば、それに伴う飢餓感と渇きが、猛烈な苦痛として患者さんを襲います。もちろん、それを耐え抜いて死まで至る方もいらっしゃいますが、途中で断念せざるを得ない方も大勢いるということです。
 ではここで考えてほしいのが「VSEDによって死に至ろうとする患者さんが感じている苦痛は、終末期における耐えがたい苦痛と判断してよいか」という命題になるわけです。

 日本という国は不思議なことに、終末期になって延命治療を拒否する、という状況であっても、結果的に延命となる治療を選択するパターンがとても多いです。例えば「認知症の終末期で、寝たきり。周囲も介護できず、床ずれがたくさんできている。もうこれ以上の治療は望んでないが、でも、点滴はずっと続けてほしい」など。もちろんそこには本人や家族の感情的な面があるので、終末期に点滴を続けるかどうかといった点にはまた別の議論は必要なのですが。

 では話を戻して、VSEDによって死に至ろうとする方に対し、「その方が感じている苦痛=終末期における耐えがたい苦痛」としてしまってよいか、の話です。VSEDを選択した時点で、残されている余命は、栄養さえきちんと取ることができれば半年以上はあるとしましょう。つまり適切に治療・療養すればまだまだ生きられる、という状態なわけです。しかし、このまま放っておけばおそらく1~2週間で死が訪れるでしょう。なので、これは終末期である、と解釈することも可能です。

 そう考えていくと、VSEDにおける飢餓感などの苦痛は「緩和的鎮静」によって緩和するべきではないか、という視点が生まれてきます。
 日本においては「治療可能な状態が残っている以上は終末期ではない」といった意識が根強く、誰が見ても明らかに終末期、と思われる事態以外に緩和ケアが適応されない(適応しようという意識が無い)といった問題があります。最近になって、がん以外の「心不全の緩和ケア」などの概念がきちんと提唱されるようになったは、こういった意識からの脱却をめざすといった側面もあるのです。
 つまり、VSEDについても治療さえすれば長く生きられるのだから、そこに緩和ケアを適用するのは間違いである=緩和的鎮静の適応にならない、といった考え方が日本ではスタンダードになりがちということです。

 さて、ここまで見てきたところでようやく話は「子どもの安楽死は認められるか」まで戻るのですが、この項で僕は

「緩和的鎮静」が日本において適切に運用されているかどうか、という懸念がある点で、その問題をどうとらえるかによって今回の③のケース(未成年かつ本人の意志が最初から確認できない場合)の安楽死制度適応も認めるか認めないかが変わってくるのではないかと思います。

と書きました。つまり、「終末期におけるあらゆる苦痛は、適切な緩和ケアによって取り除くことができるはず」という前提が、このVSEDにおける日本の現状意識を考えたときに、揺らぐ部分があるということなのです。
 つまり、患者本人が未成年で、本人の意思が最初から確認できない場合(例えば脳性まひなど)で、家族から見れば明らかに「耐えがたい苦痛」があるとしましょう。しかし、その方は栄養療法さえ続ければ少なくとも10年単位で生きながらえることが可能な「いのち」です。医師から見れば、その生命維持を何らかの方法で止めるなどあってはならない、と考えるが普通でしょうし、医師なら当然そう考えてほしいところです。しかし、家族の側で「この子の生命維持に関するものを全て止めてください」との申し出があった場合にはどうするか。昨日まで「10年単位で生きられる」はずだったいのちが、今日には「あと数日」のいのちになってしまう。そんな状況に手を貸せる医師がどれくらいいるだろうか?という懸念があります。それはすなわち、「仮に家族が勝手に生命維持を勝手に中止したとしても、それに伴う苦痛についても医師は協力しない(生命維持の処置を戻せばその苦痛も取れるのだから)」ということを意味しており、結果的に患者さんは生かされる、という道を選ばざるを得なくなるでしょう。

 ここで「だからこそ、安楽死制度が必要だ」と考えるか「いや、だからこそ安楽死制度を作ってはならない(少なくともこういった子どもに適応してはならない)」と考えるかが分かれ道だと思います。
 結局のところ、緩和的鎮静は、終末期における医療行為のひとつであり、医者が終末期と判断しなければそもそも適応とならないし、代替手段がある場合も適応と言えません。あくまでも「医者が主導する行為」です。
 一方で安楽死制度があれば、そういった医師の解釈は必要なく、「緩和ケアを受けても苦痛が緩和されず、余命が限られた」状態と判断され、死に至る可能性を患者家族が自ら選択することが可能になります。

 僕個人としては、医療行為に分類される行為を、患者さんや家族の求めがあったからといって、その適応を無視して施すというのは厳に慎むべきと考えています。緩和的鎮静も、患者さんの求めに応じて行うことを良しとするのであれば、その適応範囲は限りなく広がっていき、それはイコール「安楽死の代替」になし崩し的になってしまいます。だから、あくまでも緩和的鎮静は医療行為で医師に専決権があるもの、安楽死制度は患者さん側に専決権があるもの、と分けて考えた方が良いと思っています(もちろん、どちらも双方に相談が必要なのですが)。

 ただ一方で、VSEDや、治療中止を求められた場合の患者さんについて「それは終末期である」と解釈し、緩和的鎮静を含めた緩和ケアが適応となるべきか、といった視点はきちんと議論すべきです。患者さんの自己決定権は尊重する、としたうえで「その自己決定によって苦痛に苛まれたとしても自業自得である」から医者として手を差し伸べないのは倫理的に正しいでしょうか?
 どんな生き方であっても尊重されるし、死に至る前に苦痛を感じずに済むのは本人の人権を守ることである、といった世界が緩和ケアによって確立されないなら、やはり安楽死制度があるのがベストである、という結論になってしまうのだと思います。

★VSEDに対する支援
アメリカのCompassion & Choicesという支援団体、オランダ王立医師会やアメリカ看護協会では、VSEDを実行する患者の治療やケアの方法が紹介されています。
Compassion & Choices:https://www.compassionandchoices.org/
アメリカ看護協会:https://www.nursingworld.org/
※それぞれ「VSED」でサイト内検索することでページにアクセス可能
オランダ王立医師会:「KNMG Royal Dutch Medical Association and V&VN Dutch Nurses’ Association Guide」で検索することでPDFがダウンロード可能

https://note.com/tnishi1/n/nb0b22a27349d

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...