2024年4月16日火曜日

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

2024年4月15日 20:38

論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか

▼前回記事

「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳にすることがあります。
 確かに、日本においては時々過激な人が過激なことを言って炎上して終わるくらいなもので、安楽死制度構築に関する建設的な議論は進んでいるとは言えないかもしれません。そもそも、(積極的)安楽死制度どころか、終末期において治療を差し控えていく、いわゆる尊厳死(消極的安楽死)についてすら、法整備が進んでいるとは言い難い状況が何十年も続いています。
「各種ガイドラインに従い、手順を踏んで関係者と話し合いさえしていけば、現在の制度内でも尊厳死(消極的安楽死)は可能である」
と、一部の人は言うかもしれませんが、「法的根拠が無い」ということは「医療業界の常識になり得ない」ということでもあります。
 前回の記事でも話題になった、「京都嘱託殺人事件」においても、亡くなられたAさんは生前、胃瘻からの栄養療法の中止を求めたにも関わらず、医師がその願いを聞き入れることは無かったとされています。医師としての「常識」として、仮にそれが患者本人の意思だとしても、明らかに生命を縮める可能性が高い行為に手を貸すことへは強い拒否感が生まれるのです。しかし一方で、胃瘻からの栄養療法も含む「医療行為」はそもそも、患者と医師との契約に基づいて実行されるべきものですから、患者の意思を無視して医療行為を続けることはできないはずなのです。しかしそれでも「慣例」や「常識」に従って、とにかく命を延ばす治療が最優先される・・・「法的根拠が無い」とはこういうことなのです。

 では、このような現状において、安楽死制度の議論を呼びかけていっても無駄なのでしょうか?
 いわゆる「賛成派」がいくらSNSなどで呼びかけても、「反対派」もまた声をあげ続けますし、一歩も先に進まない感のある現状においては、いくら活動を続けたところで徒労に過ぎないのでは・・・と考えてしまうのも頷けます。

 しかし、僕はこういった議論を呼びかけていくことは、決して無駄ではないと考えています。
 それは、「呼びかけを行わない限り、分母が増えない」と考えているからです。

 例えばある村で、安楽死制度に興味がある人が200人いるとしましょう。そのうち50人は賛成派、また一方で反対派も50人。そして残りの100人は、「興味はあるけどどっちつかずの人」です。ここで、もしこの村で安楽死制度を実現するために必要な賛成票が「100票」必要だとしたら、あなたならどうするでしょうか?
※なんだか変なルールですが思考実験なのでお付き合いください。

 まず第一に考えるのは、反対派と議論して彼ら彼女らを論破することです。確かに、完膚なきまでに論理で勝利すれば、50人のうち何名かは、賛成派に転じてくれるかもしれませんね。ただ、論破した=賛成票を投じるとは限らない。逆に論破されたことで意固地になってしまう可能性もあります。つまり、この反対派50名を賛成派に転じさせることは、労力の割に合わないほど難しいのです。
 次に、どっちつかずの100人を懐柔することを考えます。これも賛成派なら、丁寧に安楽死制度の必要性を説いたり、感情に訴えかけることによって、100人のうち40人は賛成票を投じてくれる側になってくれるかもしれません。しかし一方で、反対派だって同じことを考えて、同じように懐柔を図ります。結果として、100人のうち40人が反対票を投じることになれば、賛成票は90、反対票も90、どっちつかずのまま20(投票しない)となって、安楽死制度は成立しませんでした、という結果になるのです。
 つまり、ここで言いたいことは、それだけ「他人の意見を覆すことは難しい」ということです。

 だとしたら、どうするか。
 ここで、この村のルールを思い出してください。この安楽死制度が成立するために必要な賛成票は「100票」です。これは、「過半数」という意味ではなく、絶対的に「100票」集めれば成立する、というルールなのですね。

 そして先ほどの描写では、この村には「本来いるはずの人」がカウントされていませんよね?
 そう、実は「安楽死制度なんて知らない/興味がない人」がいるはずなんです。それが例えば、先ほどの200人に加えて1000人いるとしましょう。
 この状況であれば、「安楽死制度なんて知らない/興味がない人」に対して、「安楽死制度を知ってもらう/興味を持ってもらう」ほうが、実は簡単なのです。安楽死制度に関するキャンペーンを打つ、CMを打つ、ポスターを貼る、SNSを議論で埋め尽くす・・・などなど、もちろん労力やお金はかかりますが、それがムーブメントとなることで「興味関心」を人の心に灯すことは、それほど難しいことではないのです。
 では、この1000人のうち、キャンペーンなどによって200人が興味をもって、票を投じてみようかなに変化したとします。その方々は当然のように、個々に「賛成」「反対」「どっちでも良い」にまた分かれるわけですが、その時に最初のように賛成50人、反対50人、どっちでも良い100人となるとしたらどうですか?
 結果的に、村人1200人のうち、投票した人は200人。賛成は100、反対も100、となって安楽死制度成立に必要な賛成票を満たしました!・・・となります(残りの1000人のうち興味あったけどどちらでも良かった人200人、最後まで無関心の人が800人)。
「こんなこと、現実では起こり得ないじゃん」
と言ってしまうのは簡単ですが、本当に「起こり得ない」ですか?現実の日本の選挙でも、現在同じことが起きていませんか?例えば最近の国政選挙での投票率は大体50~60%ほどですが、そのうちの票の過半数を占めた党が与党となり国政を担うわけなので、実質、国民の意見の30%くらいしか政治には反映されていないわけです。つまり、国において物事が決まるためには別に過半数の意見を押さえる必要など全くなく「ある程度の数の声が社会で上がっている」だけで十分なのです。問題は、その「閾値」がどれくらいなのか、という点だけです。
 そう考えていくと、実は安楽死制度の議論は、反対派を賛成派に転じさせるような議論をしていくのではなく、「裾野を広げる」キャンペーンをしていった方が効率が良いことになります。キャンペーンによって興味関心を持つ人が増えさえすれば、その人たちは自由意志によって賛成・反対と分かれていきますが、結果的に「賛成の声」の絶対数が高まることで、社会は変わっていくのです。

 ちなみにこのロジックは、他の様々な場面で応用できます。

 例えば、「良い写真を撮りたい」と言っているのに、1日に写真を1枚しか撮らないとしたら、1日に1000枚写真を撮る人にかなうはずがありません。それは単純に「たくさん撮った方が写真がウマくなる」だけではなく、絶対数を高めることで、その中に「良い写真」が含まれる確率を高めるということです。
 ビジネスでも「成功したい」と思うのであれば、とにかくチャレンジしてみる母数が増えなければ成功者も出ません。だとしたら、完璧なビジネスプランが組みあがるまでスタートを遅らせ続けるのではなく、失敗したとしても何度でも気軽に挑戦できる、という文化がある方が、結果的に成功する人たちは増えていくはずです。

 このように「母数を増やす」アプローチは、「質を高める」アプローチと時に対になって語られることが多いですが、僕は活動においてはまず「母数を増やすアプローチ」こそ重要と考えています。
 安楽死制度の議論を行う上でも、この「母数を増やす」ことを意識して、あまり苦しそうに議論したり、攻撃的な議論を繰り返したりしないほうが、結果的に安楽死制度が具体化するのを早めると、僕は思っています。

 そして、そうやって増やした母数の方々が、より建設的な議論を展開できて、時間と労力を無駄にしないために、僕はこのシリーズをこれまで書いてきたわけです。つまり、写真で例えるなら1000枚中1枚の良い写真しか得られなかったのを、3枚、4枚と増やしていけるためのアプローチです。これからも、このシリーズを読んでいただければ嬉しいです。


https://note.com/tnishi1/n/n5a712e933770?sub_rt=share_h

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...