2022年9月28日水曜日

月間医療費1千万円以上、過去最多の延べ1517人…高額医薬品の相次ぐ登場で急増

2021年度に1か月の医療費が1000万円以上かかった人は延べ1517人で、過去最多を更新したとの調査結果を健康保険組合連合会(健保連)が発表した。5年前の16年度(延べ484人)から3倍に急増しており、高額な医薬品の相次ぐ登場が影響したとみられる。 健康保険組合には大企業の社員や家族らが加入している。全国に約1400組合あり、加入者数は計約2900万人。健保連は、加入者の1か月の医療費を、診療報酬明細書(レセプト)を用いて分析した。 その結果、1000万円以上かかった人は延べ1517人で、うち162人が2000万円以上だった。 最高額は1億6852万円で、7人が1億円を超えていた。いずれも、全身の筋力が徐々に衰える難病「脊髄性筋萎縮(いしゅく)症」の患者で、20年に登場した治療薬「ゾルゲンスマ」を使っていた。 上位100人のうち48人が、19年に登場した白血病などの治療薬「キムリア」を使用していた。 これらの金額は治療にかかった医療費の全額で、患者の自己負担は、国の高額療養費制度などを使い、数十万円以下になることが多い。残りは健保組合が賄う。 健保連は「画期的な薬に医療費を使うことは必要だが、このまま高騰の一途をたどると、公的医療保険の維持は困難になる。制度見直しの議論を進める必要がある」としている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/955318e4d8f54b8ac66643207bd18247d742c94f

2022年9月4日日曜日

安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素~安楽死制度を議論するための手引き02(第4部)

安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素~安楽死制度を議論するための手引き02(第4部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2022年9月3日 08:00 

論点:患者の自己決定権は、十分に保護されているといえるか?

 さて、今回は「患者の権利法」について。

 僕が前回までお話していた、「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」。覚えていますか?


①緩和ケアの発展と均てん化
②医療の民主化
③患者の権利法

でしたね。今日はいよいよその最後になります。

「患者の自己決定権」は保証されているか

 僕は、前回の「医療の民主化」の項で、安楽死制度が運用されるようになるためには、最低限、国民全体における自己主導型知性の獲得が必要、という話をしました。
 いま安楽死制度が始まってしまったら、よく批判される日本民族の特徴「同調圧力」によって、本来死を選択するつもりがなかった人が、死に追いやられてしまうおそれがある。そうならないよう、周囲の意見や状況に関わらず、患者自身が自らの生き方を主体的に決めていくことが当たり前という知性を獲得していく必要がある、ということです。
 しかし一方で、そのように患者が「自らの生き方を自ら決める」ことが当たり前になったとしても、その決定を誰が守ってくれるのでしょうか?現時点では、患者本人の決定を法的に保護するものは存在しないのです。
 もちろん、憲法第13条に「個人の尊重と公共の福祉」が掲げられ、「すべて国民は、個人として尊重される」とされているので、一般的に医療現場においても患者の自己決定権は尊重されるべきものとされているのは事実です。

 しかし、現場では往々にして
「患者であるあなたが希望しても、そのような治療方針は医師の私は受け入れかねます」

「1分1秒でも長く生きるのが家族の願いなの。お願いだから先生の言うこと聞いて?」
など、医師や家族などの周囲がいとも簡単に患者の自己決定を覆そうと試みてきます。そこではまるで、「患者の自己決定」と「正当な医療行為」そして「家族の感情」が同等の重さを持つもののように天秤にかけられているのです。仮にその秤の決定によって、「正当な医療行為」が「患者の自己決定」をくじいたとしても、罰則も何もありません。つまり、患者の「安楽死を求める」意思についても、医師や家族が容易に侵害できてしまうのです。

 患者の「権利」の歴史の前には、医師をはじめとする医療従事者の「義務」の長い歴史があった。これは、いわゆる「ヒポクラテスの誓い」として古代から連綿と受け継がれてきた伝統的なものであるが、ここで想定されているのは、病人やけが人に医師たちが医療を提供する「義務」であり、患者の側の「権利」ではない。「義務」が行き過ぎると、結果的にパターナリズムに陥ることにもなり、患者の「権利」とは真っ向から対立することもあり得る。

林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006. 

 この状況を打破するために必要なのが「患者の権利法」です。どのような医療を受けるかについての決定権は、拒否する権利を含めて、患者に帰属するものとして保障されなければならないことを法的に保証する必要があるのです。
 そもそも、「患者の権利法」はすでに様々な形で世界各国で制定されています。代表的なものとしては、スウェーデンの保健医療サービス信頼委員会法(1980年)、フィンランドの患者傷害法(1986年)、イギリスの保健記録アクセス法(1990年)など。1991年には、イギリスにて最初の患者憲章が制定され、1992年には初めての独立した患者の権利法がフィンランドで誕生しており、その後もアイスランド、デンマーク、ノルウエーなど各国で、患者の権利法の制定が続いてきています。
 この流れを受けて、日本では1984年に患者の権利宣言全国起草委員会による「患者の権利宣言案」、1990年に日本医師会による「『説明と同意』についての報告」、1991年に日本生活協同組合連合会医療部会が「患者の権利章典」、また患者の権利法をつくる会が「患者の諸権利を定める法律要綱案」を取りまとめました。そして、ついに1997年には医療法が改正され、「医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」、つまり「インフォームドコンセント」が法的に明文化されたのです。

 しかし未だ、日本においては「患者の権利法」は成立していません。2010年に、日本医師会医事法関係検討委員会がその答申として「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」を取りまとめ、公表されていますが、この中では「患者の権利法」ではなく「医療基本法」の制定をまず目指すべきとされています。


医療における原則を定めた法規範として、いわゆる「患者の権利法」を制定すべきであるとの議論も根強く存在する。本委員会としても、患者が医療を受ける際に行使しうる一定の権利を有していることに異論を挟むものではないが、一方当事者の「権利」のみを規定した法律を制定することは、法政策としての均衡を失し、かえって医師・患者間の信頼関係に悪影響を及ぼすことが懸念される。真に豊かな医療を実現するためには、まず医療の理念、医療政策の哲学を明確にしたうえで、関係者の権利と義務・責務について、その基本原則を提示するという法のあり方が望ましいものと考える。


「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」


 そして、医療基本法とは規範を示すための法であり、罰則規定を設ける性質のものではないことも示されています。

 皆さんは、この答申を読んでどのように感じるでしょうか?先ほど僕が、引用した一節、

患者の「権利」の歴史の前には、医師をはじめとする医療従事者の「義務」の長い歴史があった。

林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006.

その意味を?
 これもまた、ひとつの論点になるところだと思います。
 僕なりの見解を示すことを、ここではあえてしませんが、引用した林かおりさんの文章がその後、どう続くのかをお示ししてこの章を終えるとしましょう。


「医療を提供する『義務』」は、やがて「医療を受ける『権利』」へ、「秘密を守る『義務』」は「秘密を守られる『権利』」へと読み替えられるようになった。こうした「医師の『義務』」から「患者の『権利』」への読み替えが社会全体に認知されていく過程が、患者の権利の全体の歴史の流れといえる。


林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006.


ポジティブ・リストとネガティブ・リスト

「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」において、患者の権利法ではなく医療基本法の制定を目指す理由のひとつとして、当事者(患者)の権利のみを規定した法律を作ることへの危惧が示されているのはなぜなのでしょうか。

 同文の中に、その一端が垣間見える記述があります。「2『患者』に関する法的考察」の中、「(4)患者を中心とした医療を実現するための筋道」において、患者の権利は保護されるべきであると述べる一方で、患者の責務についてこれまで十分に議論されてこなかったと指摘しています。

 つまり、
「治療、療養にあたり医師の療養上の指導、指示に従うこと」
「診療料金を支払うこと」
「急変時を除き、受診の際は、医療機関が定める診療時間、予約システム等に従うこと」
「自ら摂生を心がけ、常に自身の健康状態に関心を払うこと」
(いずれも原文ママ)
などについては、患者が最低限守るべきルールとして当然に承認されるべきである、としているのです。
 そして、続く文章でこれらルールを超える過度な要求を患者側から受ける懸念が示され、それがゆえに

「患者側の権利を法的に(一方的に)擁護する法制定は均衡を崩す」おそれが示されているように読めます。

 これは、安楽死制度の運用に対しても大きな影響を与える懸念といえます。
 もし、患者の権利法に基づき、安楽死制度の利用を患者側が欲したとき、その自己決定権が一方的に擁護される状況では、医師側がその要求を拒否できる根拠が失われてしまいます。つまり、診察室において患者が「いまこの場で安楽死を施してほしい」と請求した場合、医師側にそれを拒否する根拠が無いばかりか、法に基づき罰を与えられる可能性もあるということです。

 では、海外においてはこの課題をどのように解決しているのでしょうか?
 例えば、オランダでは独立した「患者の権利法」は無く「医療契約法(民法・契約法の一部)」がその役割を担っていますが、その運用においてポジティブ・リストとネガティブ・リストでは扱いが異なるとされています。
 ポジティブ・リストとはつまり「患者側から医師側に『○○をしてほしい』とする行為」のこと。それに対しネガティブ・リストとは「患者側から医師側に『○○はしないでほしい』とする行為」です。そしてオランダでは、ネガティブ・リストについては必ず守らなければならない義務が医師に求められますが、ポジティブ・リストについては医師側に拒否権が認められています。

 具体的に例を挙げると、患者側が標準治療外の抗がん剤治療を行ってくれ、と依頼しても医師は断ることができますが、逆にその患者に対し医師が標準的抗がん剤治療を強制することもできない、という構図です。これは、一見すると現在の日本でも普通に行われていることではないか?と思えるかもしれませんが、実際の医療現場においては「患者が望まない医療行為」が横行している現状は多々あります。例えば、意識はしっかりしているが体が動かない病状の患者に対し、患者が「もうこんな状態で生きている意味はない。胃瘻からの栄養を止めてほしい」と望んだとしても、医師や家族は「栄養を取らなければ死んでしまう。あなたの命を守ることが最優先」などと言って胃瘻栄養を継続するでしょう。日本の現行の法律では、このような医療行為を行ったとしても罰せられることはありませんが、オランダなら明確な法律違反とされるということです。「患者の権利法」の議論をしていく中で、まず最低限ネガティブ・リストが尊重されることを当たり前としていく必要があります。

 日本において、この「患者の権利法」を成立させ、患者の自己決定権に法的根拠を持たせることは安楽死制度を運用する上で重要です。先に述べたように、患者の生き方を示す意志に対し、医師や家族などの他人が簡単に侵害できてしまう現状では制度を安定的に運用できません。
 また、「患者の権利法」を制定していくための議論は、医療の主役は医療者でも、また家族でもなく、患者本人であるのだという意識を広く国民の中に育てることにもつながります。この「人権を求める運動」の先に「安楽死制度を求める運動」があると僕は考えています。

 次回は、ちょっと各論をはさみます。本当は総論的なことでもう少しテーマにしたいこともあるのですが、話の流れ的に「余命要件」と「疾病要件」の話をした方がスムーズなので。次回もぜひお楽しみに。



分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...