2019年11月24日日曜日

安楽死反対の理由が明らかになりました。

https://ironna.jp/article/8622
の記事について、


 安楽死が「殺」であることは間違いないが、それがすなわち「安・楽」とは異質なものとはならない。
 安楽死のためにスイスに行く事例は増えている。
https://www.swissinfo.ch/jpn/society/命の尊厳_台湾の有名司会者がスイスで安楽死-その後台湾で起こった大きな運動とは-/44993418
日本人女性がスイスで安楽死したドキュメンタリーは、京都の障害者団体によってBPOに訴えられた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191001-00000195-kyodonews-cul
番組が良質であったことから大きな話題となり障害者団体は批判にさらされた。
安楽死制度を強行に反対する、製薬業界、医師会、障害者団体の体質は世界的な問題である。

多くの人がスイスでの安楽死のあり方に感銘を受け光を見出している。多くの人が痛みと苦しみに耐えながら光を求めている。その実態を隠し、強硬に反対しているのが製薬業界、医師会、障害者団体である。彼らを犬飼状態にし、そこから利益を得ている。利用しようとしている。
 モルヒネ漬けにされるのが嫌で自殺を選んだ人がいる。彼らは、そのような事例が多数あることを知っているはずだ。彼らは、自殺は自分達の責任ではないと考えている。尊厳死・安楽死を許してはいけないと政治的に圧力をかけている。ゲスの極みです。
 彼らは、明日は我が身という気持ちにならないのだろうか?自分が同じ立場になった場合はどのようにするのであろうか?その答えが、以下の文章のなかにある。
比較対象は、自殺、延命治療を施し、痛がり苦しみ続ける状況に寄り添い続ける行為になると思います。そのような実態を当たり前のようにとらえる医師に命を預けることになるのです。家族にとって複雑な気持ちだと思います。
 持続的深い鎮静は、事実上の安楽死です。80年代に、患者や家族に選択肢を与えずに、あらゆる手を尽くして平均寿命を延ばすかのような医療が蔓延しました。そのような医療の在り方は問題視され社会問題となりました。患者の選択肢は少しづつ拡大し、当時の状況に比べ、現在の医療は非常に良くなったと思います。しかし、まだまだ多くの悲劇が存在することは否定できないと思います。

痛がり苦しみ続ける患者の希望を否定し、痛みを取ることは可能であると主張する。痛みさえ取ることが出来れば問題がないとでも言うのでしょうか?
 先ほど、明日は我が身、自分が同じ立場になった時のことを考えないのだろうかと疑問を投げかけました。おそらく彼らには医療知識があり、事実上の安楽死である持続的深い鎮静を選択するのではないでしょうか?
 安楽死を否定する気持ちは、死というものと真剣に向き合えば向き合うほど、同じ人間として理解できるものではありません。
 私は、母の終末期に付き合ったので、少し話が長くなりそうです。
 私の母は、亡くなる半年前には自力歩行が困難になり、その時点で回復を見込めない状態になりました。それでも母は、最期まで病気を治そうという強い意志を持ち続けていました。
 ある日、妹が見舞いに来ました。やせ細り点滴に繋がれた姿を見て、「かわいそうに、いつまでもこんな姿で生きていたくないだろうね。」と言いました。私も同じ思いでした。ところが妹が病室を出ると両手を振って悔しがりました。思いがけず、まだ元気になりたいという思いは消えていなかったことに気付かされました。
 父親と二人で仮眠をとりながら母に付き添いました。痛みを取り除けるというのは嘘だと思います。母に異変があるたびナースコールを押し、モルヒネの量を調整して貰いました。母は常に痛みと戦い続けていたと思います。異変があったのは、あまりの痛みに耐え切れなかった時のみだと思います。
 普通の人が見れば死にたくなって当然だろうと思うような状況でも、母は生きる意思を示しました。だからこそ私は、最後まで対応してくれた医師にも感謝し、最後まで見守ることが出来て良かったと思うことも出来ました。
 母の医療費は月額100万円を超えていました。しかし、実際の負担は8万円程度で、年間の医療費控除もあるので負担額はそれほど大きなものではありませんでした。このような医療制度の在り方も、非常に有難いものであると感じています。

 しかし振り返って考えると、やはり母は明らかに回復の見込みのない状態であったように思います。回復の見込みのない患者に、元気な状態に戻れるかのような希望を持たせることは、人間として正しいことなのでしょうか?回復の見込みのない患者に判断を下すのは、本人でもなく家族でもなく、専門家である医師の努めではないでしょうか?
 母は、もう一度元気になれると信じて最後まで死の淵で戦い続けたのです。そのような患者を見守り続ける家族の気持ちを考えないのでしょうか?
 回復の見込みのない家族の看病を続けるものは多くいると思います。そのような現状を当たり前のこととして受け入れることが正しいことなのか疑問に感じます。

 話を戻します。現状で医療者には十分なスキルがないようです。十分なスキルが身についたとして解決する問題なのでしょうか?
 どうして高額なモルヒネを湯水のように使う提案を平然と行えるのでしょうか?人間としての良識を疑います。

追記:父方の祖母は父の収入を超える額(30万円相当)の年金を貰っていたと思います。もしも母が高齢で高額年金受給者だとしたら、母が死ぬことを許さないだけで、父は働くこともせず、家族で余裕をもって生活していくことが出来ます。このような事例が社会に蔓延しているのが現代社会ではないでしょうか。
これはもう安楽死制度の説明。多くの人が病院で最期を迎える現状に対して、多くの人は自宅で最期を迎えることを望んでいる。現在広がりつつある持続的深い鎮静は、事実上の安楽死であり、自宅で最期を迎えることができる素晴らしい制度。

 壮絶な落ちであると思います。一度きりの人生、安楽死でも持続的深い鎮静でも本当に安楽に死ぬことはできず、医師にとって限りなく都合のいい制度THPケアシステムこそが安楽に死ねるただ一つの方法だそうです。ご丁寧に最後は自著の宣伝までされています。
 命を扱う医師の立場です。ここまで極端な主張ができる医師は、ほんの一握りだと思います。その証拠に80年代以降、患者の選択肢は増え医療の在り方は大きく変わりました。持続的深い鎮痛の適用も広がっていると思います。日本は良い国になりました。
 それでも、もっとも現場に近い立場で尊厳死や安楽死の法制化に反対し続ける業界団体の罪は大きいと思います。
 いくら良心的な医師が多くて実態として改善されていたとしても、業界の在り方が変わらなければ根本的な解決にならないのではないでしょうか?だからこそ、このように極端な主張が出来る医師が重宝される構造になると思います。同じ医師の立場であれば、表立って批判することは難しいと思います。
 本当は全部知ってるんじゃないですか?血も涙もないと思います。

 医療と安楽死制度の問題は世界共通の問題だと思います。
 命の問題と真剣に向き合うのであれば、安楽死制度は必ず実現しなければならない制度だと思います。

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...