2024年1月16日火曜日

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(後編)

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(後編)

2024年1月13日 13:29

論点:認知症になる前に書いた安楽死の希望は、認知症後の患者さんにとっても有効か?

 前回の記事では、オランダの認知症をもつ方に対する安楽死およびその裁判について取り上げました。

 オランダでは、事前に書面で意思表示をしていれば、その後に判断能力を失ったとしても事前意思が「現在の意思」として取り扱われることが合法となったのですが、さて日本ではどうしていくべきでしょうか。

 僕は前回記事の最後に
「認知症をもつ方に対し、過去~未来まで全てが揃っている僕たちが、その常識を当てはめて安楽死の是非を議論するのは、そもそもとして間違っているのではないか?」
 という問いを投げました。
 今回はここから、この問題を掘り下げていきましょう。

 そもそも、本人であっても過去と現在の意思が一致していることって、そんなに当たり前のことでしょうか?
 10年前の自分と、現在の自分を比較して、価値観や考え方、そして死生観すらも、気づかないうちに変わっている方は少なくないと思います。さらに、自分の10年後、20年後を正確に想像できる人なんてどれくらいいるでしょう?例えば自分は20年後には還暦をこえて高齢者となっていくのですが、その時に自分が何を考えているかなんて想像もできません。もう仕事をセミリタイアして、遊びまくるぞ~なんて思っているかもしれませんし、今と変わらず仕事に追われて全国を飛び回っているかもしれません。病気や事故などで心身に病を抱え、仕事だ遊びだなんて言ってられない人生を歩んでいるかもしれませんよね。そんな状況になったら何を考えるか、なんてその時になってみなければ分かりません。

 では仮に、「20年後に認知症を抱えている」状況を想像してみましょうか。ひとくちに「認知症」といっても様々な状態がありますが、ここでは論理的整合性や記憶の整合性が失われ、自分一人だけでは生活が難しい状態だとしましょう。
 では、こうなった自分を想像してみて、「それなら今から未来の自分がどうするかを決めておきたい」と考えることが腑に落ちるでしょうか。

 逆に考えてみても良いですよ。

 今、この記事を読んでいるあなたは何歳ですか?30歳、40歳、50歳?20歳以下の人はすみません、仮定が成り立たないのですが、「20年前の自分に今の生き方を決められていたら」どう思いますか?40歳の方であれば20歳の自分に、ですよね。その時仮に、「40歳になったらきっとシワとかシミだらけの顔になっているだろうから、整形手術でも受けてきれいで若々しい顔でいて欲しい」とか言われていても、実際に40歳になった顔を見てみて「まあ、この顔はこの顔で悪くはないよな」と思ったりするでしょう。
 皆さんは20年前に考えていたことの通りに生きていますか?どちらかといえば「あの頃はまだ未熟だったな」と思い返すことの方が多いのではないでしょうか。でも、その当時は「いまの自分の考えが自分の人生でベストな判断」と思って生きてきたでしょう。少なくとも、「40歳の自分の方が良い判断ができるはずだから、判断は保留」して生きてきた方はほとんどいないはずです。それなのに、生死に関することは20年前に取り決めたことに従って生きる、としても良いのですか?

 そうすると反論として「生死に関することは20代とか40代とかでは考えなかった、60代70代になって初めて人生の総決算をするために考えるし、その後に認知症に陥るのがわかっているのであればなおさら、そのときの判断をベストとして良い」という意見が出るかもしれませんね。
 しかしそれは、人生観や死生観までもが60歳70歳がベストということになりますか?仮に認知症を抱えたとしても、80歳のいまの人生観は間違いで60歳のころの人生観に従うべきだ、とする根拠になりますか?

 そしてさらに考えるべきは、認知症を抱えた後の自分は、それ以前の自分とは整合性が取れていない、という面です。

先ほどまでの、「40歳になった自分」と「20歳の頃の自分」には、考え方や価値観に違いがあるにしても「同一自己」としての連続性・整合性はあるはずです。しかし一方で、「健常な60歳の自分」と「認知機能が低下した80歳の自分」の間には、本人の中での時間的連続性や整合性は失われてしまっているかもしれません。この状況において、「人生には過去があって、未来があって、そして現在がある」のが当然の社会に生きている僕たちの論理を当てはめて良いのでしょうか。それはどうも、強者の論理に傾てはいませんか?そして、強者の論理に傾くということは、すなわちそこに優性思想が隠れている可能性があり、その論理展開で安楽死制度を語っていくことは、制度化の賛成派にとっては不利に働くと僕は思います。

 もちろんこれは、法的な意味での同一性や人権としての個の保持とは別の話です。オランダの考え方は、どちらかと言えばこの法的権利としての考え方から、「事前指示書による安楽死」が認められているのでしょう。もちろん法的・人権としては日本でも同一性は保持されるべきですが、安楽死に関わる意思決定として、「80歳の自分」の価値観・人生観を無視して、「60歳の自分」の意志を優先するのはどうなのか、と考えなければなりません。

 この連載は、これまでも何度か申し上げていることですが、そもそもの前提として安楽死制度の賛成・反対を僕自身が明確に示すためのものではありません。あくまでも、「安楽死制度を議論するためにはこういう論点が考えられて、この点をきちんと考えないと賛成派も反対派も、有効な議論になりませんよ」という材料を提供するためのものです。
 ただ、僕個人はどちらかといえば安楽死制度には反対の立場を取っている以上、どうしても賛成派にとっては耳が痛い論調になることは事実です。
 今回のオランダの決定についても、僕個人的には賛成はしかねます。欧米的な契約論と個人主義的考えから言えば、この決定に妥当性があることはわかります。ただそれでも、今回の前編・後編で指摘したように、そこに「強者の論理を持ち込む」ことを許容したオランダの判断は、いわゆる「すべり坂」を下りかけているように思えてなりません。
 認知症をもつ個人の意思を、ひとりの「今そこにいる」人間として評価する。そんな、言葉にすれば当たり前のことを、実行するのがどれほど難しいことか。それはやはり自分の中にも「強者の論理」を持ち出して何とも思わない「無意識の差別」が隠れているからかもしれません。


https://note.com/tnishi1/n/n38d38797e5a5

2024年1月5日金曜日

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(前編)

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(前編)

2023年12月31日 16:44

論点:認知症になる前に書いた安楽死の希望は、認知症後の患者さんにとっても有効か?

 さて、前回の記事では「認知症をもつ方の意志決定はどうすれば良いのか」を考えるため、まずは現在における「人生会議=Advance Care Planning」について見直してみたのでした。

 では今回は、さらに考察を深めて「認知症をもつ方に対して安楽死制度は適応とすべきかどうか」を考えてみましょう。

オランダでの強制安楽死事件

 認知症をもつ方に対する安楽死制度を考えるために、実際にオランダで起きた事件を取り上げましょう。
 これは2016年に、アルツハイマー型認知症を患ったある患者さんに対し、安楽死を行った医師が、検察に起訴されたという事件です。

 患者さんは74歳の女性で、2012年にアルツハイマー型認知症と診断され、その1か月後にはオランダ安楽死協会にて安楽死要請書に署名しています。 
 盛永審一郎著『認知症患者安楽死裁判(丸善出版)』によると、その認知症条項には
「私は夫と一緒に家に住むことが大好きです。それがもはやできなくなったとき、私に自発的安楽死を適用する法的権利を行使したいと思います。確かにいえることは、本当に私は認知症の高齢者のための施設に置かれたくないということです」
と記載されていたとのことです。
 そして、同書の記載からその後の経過を追うと、患者さんは次第に認知機能が低下していき、2016年には介護施設に入ることになりました。そこで主治医となった医師が、安楽死宣言書の存在を耳にし、さらに施設入所後「落ち着きがなく、混乱している」「患者が死にたいと少なくとも1日20回は口にする」といった状況をみて、安楽死の適用を考え始めたそうです。
 そのうえで、医師は家族に状況について説明し、他のスタッフや安楽死の専門施設の医師、精神科医などとも相談したうえで、「安楽死の要件を満たしている」と判断しました。
 2016年4月22日、主治医は家族が同席する中で、患者さんを眠らせるために彼女のコーヒーに睡眠薬を入れて眠らせ、安楽死の薬を投与しようとしたが、患者さんが起き上がろうとしたために家族に患者さんの体を押さえさせ、そのうえで薬の投与を行ったということです。ちなみに、睡眠薬の投与も、安楽死の実行についても「患者は既に病気についての認識や、意思決定能力が無い」との考えのもとで、本人への相談や事前告知は行われなかったそうです。

 この安楽死については、オランダで安楽死法が成立して以後、初めて医師が訴追される事件となりました。

 安楽死審査委員会は、患者さんが自ら安楽死の要請を行っていないにも関わらず医師らが安楽死の実行を決定したとし、また実際に実行の際に患者さんが起き上がるなど処置に抵抗するそぶりを見せたにも関わらず、それを押さえつけて安楽死を完遂したことを問題視しました。
 しかし、この委員会報告などに基づく訴追の結果、地方裁判所が出した結論は「無罪」というものでした。安楽死法には「書面による宣言書を患者自身が作成していた場合、医師は、この要請に従うことができる」とされており、「患者が意思表示できなくなった場合には、書面による意思表示書が現在の意思とみなされる」とするオランダ保健福祉大臣の安楽死法に関する回答も、2014年に出されていたのです。

 そして、オランダ最高裁判所は2020年、
「これまでは、患者に対して安楽死を求める意思を実施前に確認する必要があったが、今後はその必要がない」
との判断を下しました。
 つまり、認知症をもつ患者さんが事前に書面で意思を示していれば、その事前意思に従って安楽死を施すことは合法である、とされたのです。

認知症をもつ方の現在の意思とは?

 さて、では日本で安楽死制度を作るとして、このオランダの要件を日本にも導入すべきでしょうか?

 そもそも、認知症をもつ患者さんが現在見ている世界は、認知症が無い時に「認知症になったら・・・」と想像していた世界と本当に同一なのでしょうか?
 認知症は、本当にざっくりした言い方をすると、「過去を失っていく病」という面があります。最初のうちは、今朝食事したかどうか(何を食べたかではなく)や、昨日誰と会ったか、といった比較的最近の事柄を覚えていられなくなります。段々と、過去に獲得した様々な経験や技術も失われていき、自宅の場所や電話番号、親しい人の顔、トイレへの行き方、そして最後には食事の食べ方も分からなくなってしまう、といった経過を辿ります。その過程は、1日2日で進行していくものではなく、年単位で悪化していきますが、最初のうちは「自分は認知症である」と認識できたものも、その認識が失われていくため「何が何だか分からない」となり、世界に対して恐怖を覚え始めたりする場合もあります。
 皆さんは「過去を失う」経験をしたことが無いから、その恐ろしさがどれくらいか想像したことが無い・・・というか、生まれてこの方当然のように存在していた「過去」が無くなってしまうことなど、想像もできないはずです。
 人は、「過去」があり、「未来」を想像できるからこそ、「現在」に立脚できる、という考え方があります。つまり、その「過去」がぐらつくことは「未来」を失わせ、そして「現在」すらもあやふやにしてしまう、という恐さがあるのです。
 ただ、逆に言えば認知症の患者さんには「現在がある」と言い換えることもできます。「過去」や「未来」は存在しなくても「現在」は感じることができる。認知症があっても、いまどうしたいのか、という感情はその人の本当の感情です。

 そう考えていくと、認知症をもつ方に対し、過去~未来まで全てが揃っている僕たちが、その「常識」を当てはめて安楽死の是非を議論するのは、そもそもとして間違っているのではないか?とも思うのですがいかがでしょうか。
 次回、後編ではこの点についてもっと深く掘り下げていこうと思います。


https://note.com/tnishi1/n/n80fe3d2b38f5

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...