2023年8月6日日曜日

間接的安楽死と終末期の鎮静~安楽死制度を議論するための手引き10-2

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間接的安楽死と終末期の鎮静~安楽死制度を議論するための手引き10-2

2023年8月3日 18:00

論点:鎮静は安楽死制度の代替となり得るか

 さて、前回は日本緩和医療学会が発行している『がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き』の2023年度版への改訂において、どの部分が変更になったかや、その意図するところ、特に「間接的安楽死」という概念について総説的にまとめました。

 では、本稿ではこの『手引き』によって医療現場がどのように変わるか、そしてその問題点について考えていきましょう。

①「患者中心」が強調されたことで、本人の権利が守られるように

 まずひとつ目は良いこと。
 前回の記事でも書きましたが、今回の「手引き」では2018年度版で「鎮静を行うに際し、家族の同意を得ること」とされていた記述が「家族の同意を得ることが望ましい」と変更され、患者本人の意思を最優先するべきことが明文化されました。
 持続的な深い鎮静をかけると、多くの場合はそのまま家族と二度と会話ができることなくお別れ、となることが多いため、いわゆる「今生の別れ」を前にして家族がその実施を拒否するパターンが無いとは言えません。それでも「患者が望んでいることだから」と、家族の反対を押し切っても鎮静薬を投与すれば、後々にトラブルとなる可能性もあるでしょう。だからこそ、2018年度版では、「家族の同意を得ること」が鎮静の条件となっていたのでしょうが、それでは本人の人権が守られないと察したのでしょう。患者が主体となって、自らの行く末を自ら決めていく。その当り前のことが、これまで進められていなかったことの方が問題でしたから、これは純粋にGoodです。

②鎮静について「事前に情報提供を行い、同意を得ておく」べき?

 ただ、「患者中心」の方針が打ち出されたことで、新たな問題が出てくると予測されます。これまでの持続的な深い鎮静については、本人が正常な受け答えが難しくなった際に、家族が患者本人の意志を推定する形で実行されていたケースがかなり多かったのではないでしょうか。
 それに対し、今後は「間接的安楽死」まで含めて対応を考えていくうえで「原則として患者本人への(事前の)説明と同意」が必要とされたため、Advance Care Planning(人生会議)の場面において、持続的な深い鎮静についての情報提供とそれに対する本人の意思確認を行っていくことが無難、となっていくでしょう。

 しかし、そうなるとひとつ問題が生じます。

 それは、患者側が(鎮静の要件を満たさなくても)自分のタイミングで「もう眠らせてほしい」と要求を始めることが可能になること。これは、実際に僕もこれまで何人もの方に鎮静について事前の情報提供を行った場合に経験したことです。
 前回の記事でお話ししたように、「間接的安楽死」の要件を満たすためにはいくつかの条件が必要でした。その中で「耐え難い肉体的苦痛が存在していること」「死期が切迫していること」の部分が、患者側から「もう眠らせてほしい」と望まれる場合には問題となるということです。
 普通に考えて、患者は癌が進行するにつれて自らの心身に発生する様々な苦痛を生涯で初めて経験する場合がほとんどでしょう。一般的に、死までの時間が短くなればなるほど、その苦痛は強くなったり、症状が多様になったりしていく場合が多いことは事実です。しかしまた、多くの場合はそれらの多様な苦痛に対して様々な薬剤やケアを用いて緩和することが可能です。しかし、それは「苦痛の程度を10段階で表した時、昨日まで9くらいの苦痛があったのが今日は全くのゼロさ!」なんてことは多くありません。「昨日9だった苦痛は、今日に4になり、そして明日は2まで下がるでしょう」といった感覚のほうが一般的です。その苦痛をゼロまで下げるように薬をどんどん投与すると、結局のところ鎮静状態になってしまうこともあります。なので、僕らは患者に対し「あなたが大切にしたい価値はなんでしょう。その苦痛でどれくらい生活に影響が出ていますか?あなたが大切にしたい価値は、苦痛によって阻害されていますか?もし10段階で1~2くらいの苦痛が残っているとしたら、その痛みと一緒に日常生活を過ごしていくことは可能そうですか」と、伺っていきます。
 つまり痛みを完全に取り除く「除痛」ではなく、生活を送れるようになるくらいのレベルである「鎮痛」を目指しましょう、というのが近年の緩和ケアが採る方針であることが多いのです。

 そのような臨床において、患者はずっと感じる苦痛に対し「こんなに苦しい状態が長く続くのはもう嫌だ。もう眠らせてほしい」と言い出すことがあります。それは当然のことです。だって、患者にとってそれらの苦痛は大抵の場合は「初めて経験する苦しみ」ばかりだから。いつでも「今が人生の中で最高に苦しい瞬間!耐え難い苦しみ!」と患者側は主張してもおかしくないでしょう。
 しかし、この状態のときに実際の残り時間がまだ2~3か月もあったりしたら?これまで多くの患者をみてきた医療者からすれば「耐え難い肉体的苦痛が存在している」ほどではないと判断されたら?それらだと「間接的安楽死」としての鎮静の要件は満たさないため、医者は当然、鎮静を実施できません。
「まだあなたは、眠りにつくべき時ではありません」
と、医者は言いますよね。
 でも患者はその翌日、なんだか昨日よりも苦しい気がして医者に言います。
「先生、やっぱりすっきりしないんです。昨日よりも悪くなっている気がします。明日にはきっと、もっと悪くなりますよね。毎日こんな思いをするのは耐えられません。今日こそ眠らせてください」
 でも、やはり医者は
「まだあなたは眠りにつくべき時ではありません。今日はこのお薬を増やしてみて様子を見ましょう」
 と言うでしょう。そのやり取りが毎日繰り返されるとしたら、患者は次第に「この医者は私が毎日耐え難い苦しみがあるって言っているのに、一向に眠らせてくれない!」と、怒りを感じるのではないでしょうか。でも別に、医者は意地悪をしたいのではなく、法的にも倫理的にも「眠ってもらうことができない」のです。

 そのように考えていくと、今回の『手引き』の記述に従い、「間接的安楽死」の可能性もカバーする形で運用するためには、事前の情報提供の際の説明を工夫する必要がありそうです。
 具体的には、
「苦痛の緩和を○○などを用いながら行っていきますが、もし今後あらゆる手を尽くしても耐え難い苦痛が残ってしまう場合、麻酔薬のような薬を使って最後の時間を過ごしてもらうことができます。ただし、それを行うには条件が5つ揃わないとならないとされていまして・・・(5要件を見せながら)、これが揃ったときではないと法律違反になってしまう可能性がありますので、いつでもあなたが希望するときに実行できるということではないことをご理解ください。ただ、この5要件を満たすかどうかは、私とあなたの間だけで決めることではなく、家族や他の医療者も含めたみんなで話し合いをしながら進めてまいります。また、もしこの5要件を満たす状態になったとしても、そういった麻酔薬を使って眠ってしまうのは避けたい、という考えもあって良いと思います。その点について、今の私の話を聞いてどう思いますか・・・」
 などと、「あくまで法的に決められた基準であって、医者が恣意的にコントロールできるものではない」とお話ししていくしかないのかな・・・と思っています。

③鎮静の要件で「肉体的苦痛」が強調されている

 間接的安楽死の5要件がクローズアップされたことで、「肉体的苦痛」が強調された一方で「精神的苦痛」の取り扱いが難しくなりました。
 前回の記事でもお伝えしたように、法学的立場は「心身二元論」を採用しており、そのうえで鎮静の対象となるのは「肉体的苦痛」と限定しています。しかし、僕は「肉体的苦痛」と「精神的苦痛」を分けるのは難しいと考える立場を取っているので、今回の『手引き』において「肉体的苦痛」だけが強調されているのには明確に反対したいです。
 もちろん、法学的立場からはそうとしか言えない、というのはわかります。「患者の権利法」のような基本法も存在せず、判例も少ないうえに、これまでこの部分における議論すらほとんど行われてこなかった背景があるからです。
 一方で臨床家である僕らは、本来その議論を始められる立場にあると思います。それなのに今回の『手引き』では、精神的・スピリチュアルな苦痛も耐えがたい苦痛の原因になりうる、と認めたうえで「精神的・スピリチュアルな苦痛単独では持続的な深い鎮静の対象とならない」と、心身二元論に則った結論に逃げている。これは「法的にそう言われているんだから、そうなんだろう」と、臨床側が流されているようにも読めてしまいます。
 しかし、緩和ケアの原則からは、肉体的・精神的・スピリチュアルな苦痛は「ひとつの痛み(全人的苦痛)」として解釈されるのが、少なくとも近代的緩和ケアの分野では常識とされてきた中で、「肉体的苦痛」だけ取り上げて、それが耐え難いのかそうではないのかと議論することに意味があるのでしょうか。
 僕の個人的な意見としては、「患者が感じている痛みは肉体的・精神的と分離することは困難という前提において、仮に肉体的な症状が客観的に激烈とは言えないとしても、それに加えて精神的な苦痛も十分に重篤な場合においては、その患者が経験している1日という時間の中で、それは『耐え難い苦痛』と表現されても了解可能なものである」としたいところです。つまり、肉体的苦痛や精神的苦痛それぞれひとつずつは、バラバラにすればどれも「耐え難い苦痛」とは言い難いけど、それを全て統合した時に一個の人間が体験する時間とすれば、そりゃあ「耐え難い」と言って差し支えないでしょう、ということです。

 もちろん、肉体・精神の複合的な苦痛があったとしても、「死期が差し迫っている」という条件を満たしていない状態で、本来生きられるはずだった時間を大幅に短縮することには与しません。

 これまで見てきたように、鎮静の『手引き』は2018年度版と比較して大きく進歩した部分も多くあります。患者の自己決定権を尊重したところや、法学的見解をかなり大きく紙幅を割いて掲載し、議論を促しているところなどは賞賛に値します。
 しかし一方で、まだまだ議論が不足しているところが多々あること、またこのまま『手引き』がこの記載のままで運用されることで、不幸な転機をたどる患者がゼロにはならないだろう意味で、今後も改訂を続けていく必要性があると感じます。
 その意味で、この『手引き』において「間接的安楽死」の文言が強調された一方で、その要件が以前よりも厳しくクローズアップされた結果、安楽死制度賛成派にとってはその代替手段としての鎮静という道は遠のいたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


https://note.com/tnishi1/n/nf14e87b85cb8

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