2020年8月19日水曜日

終戦とALS女性嘱託殺人事件に見る終わりなき地獄

しばらく滞っていたブログの更新が、今月は3度目になる。今までになかったことだ。

今までは、あまり余計なことを書かないようにしてきたつもりだった。しかし、ALS女性嘱託殺人事件があり、お盆の時期が重なった。何か話さずにはいられない気持ちになった。

私は繰り返し、安楽死を認めない現在の制度の残酷さを訴えてきた。
他の政治問題とは次元の違う残酷さがあると訴えてきた。
戦争や大量虐殺事件よりも理不尽で残酷だと訴えてきた。
しかし、いくら訴えても、その残酷さを理解できない人がいる。

亡くなった林優里さんは、ブログ内で母の命日について記述している。
https://ameblo.jp/tango522/entry-12428415472.html
顔をしかめて苦しそうにしていた母が、意思表示できない状態になり、そこで医師から延命措置を止めるか聞かれた。当然のように断った話だ。

彼女は自分が苦しむ立場になり、その苦しさと母の姿を重ね合わせた。
母が頑張ろうとしていると感じたのは、自分に都合の良い解釈だった。母に要らない苦痛を強いる決断だったと悔やんだのだ。

今、ネット上には安楽死制度を望む多くの重度障害者がおり大きな勢力になっている。彼女が使っていたような視点入力装置の普及も関係しているのだろう。
多くの人にとって、彼らの言葉は重みがあり、説得力があると感じるだろう。今回の事件をきっかけに、彼女らの情報発信は徐々に制限を受けることになるかもしれない。

もう一つの大きな勢力が毒親育ち、いわゆる親との関係が良くない状態で育った人達である。
心を閉ざし、表情を失ってしまった子供の気持ちがわかるだろうか。
自分の辛さを伝え、自分の事をわかってもらおうと必死に言葉を選ぶ。この思い出す作業自体が、痛さを思い出す事、辛かった自分を客観的にみる事に繋がり、苦痛を伴うのである。
やがて伝えることをあきらめ、心を閉ざし、表情を失う。その状況になれてしまった子供は、周囲と正常な関係を築けなくなってしまう。

林優里さんは、自身の決断を悔やんだ一方で、遺族が延命治療中断の決断をすることは難しいと言った。
私であれば中止の決断をしたはずだ。苦しむ姿を見ていたくはない。
医師は延命治療を簡単に辞めようとしない。医師が止めるか聞いてくるということは、もう難しいと考えるだろう。その後の状況について、私は責任を持てない。
通常、遺族は希望を棄てきれない。そんな遺族に判断を委ねる医師は、無責任で卑怯だと感じる。

私は多くの辛い経験をしてきた。辛さを引き受けることに慣れてしまっていた。自分以外の者が虐められているのを見ると辛い気持ちになった。赦せない気持ちになった。

ベッドの上で動けなくなった肉親を見ると、辛い気持ちになった。医療がなければ、既に亡くなっていた命。数週間の後に訃報があると、更に辛い気持ちになった。
いつも通りの日常、私が学校にいた時間、テレビを見て笑っていた時間、どれほど辛く感じられただろう。どれほど長く感じられただろう。見守る事しか出来ない理不尽で残酷な時間。

同じ悲劇を見ても感じる辛さはそれぞれ。
林優里さんは自分の身体が動かなくなるまで、その辛さに気付けなかった。
どのように説明すれば気付いて貰えるのだろうか。もっと残酷な話をするべきか、それとも実体験をもとにした生々しい話をすべきか。そのような活動をしてきた。
同じ話をしても感じる辛さはそれぞれなのだ。

林優里さんは、安楽死を求める一方でヘルパーの手配を精力的に行っていた。
生きることに意欲的ともとれる行為だが、苦しみたくなかったのだ。
安楽死を求める重度障害者の多くは、それと同時に社会福祉制度の充実を求めている。

既に24時間体制のサポートを実現する為に20人を超える体制が必要とされている。安心して生活する為には質も量も足りないらしい。
自分が仕事をせず、20人以上を超えるスタッフに囲まれながら生活することを想像できるだろうか。
他人の世話にはなりたくない。そんな人間が出来ないことを受け入れ、介護を受け入れ、安心して生活する為に障害者福祉の充実を訴えるようになっていくのである。
本人達が望むならいくらでも充実させれば良いと思う。

林優里さんは、かろうじて目の動きで意思表示ができる状態であった。目の動きがなくなれば、TSL完全閉じ込め状態となるのだ。苦痛から逃れるためにどのような手段を駆使してもTSLになれば、もう何もできない。
どのような苦痛に襲われても、誰も知るよしもない。
私が知る限り、TLS患者数はよくわからない。ALS患者数が1万人程度とし、そのうち10%程度がTLS状態にあるとすると1,000人程度いることになる。
障害者福祉を無限に充実させても、安楽死制度の必要性は変わらない。

この問題は調べれば調べるほど恐ろしい話に感じる。
メディアには、安楽死に反対する重度障害者が多く登場する。
一方で人工呼吸器を選択するASL患者は3割に過ぎず、7割が付けずに死亡しているとするデータが大きな話題となった。
一般的な日本人へのアンケートでは、7割以上が安楽死に賛成と言われている。
重度障害者のアンケートでは、どのような結果になるのであろうか。
医師の管理下にある重度障害者が、精神的に自由に回答できる環境を作れるのかも疑問である。
安楽死制度に反対する障害者は、特殊で希少な選ばれた人達のように感じる。

安楽死制度を求める重度障害者は、苦痛を避けるために延命治療を続けながら、最後に安楽死を求めているように見える。
安楽死制度を求める私は、人々が苦しむのを見たくないので、自分が苦痛を引き受けたいと考える。理不尽な苦痛のない社会を実現する為に命を捧げたいと願う。

安楽死に反対する障害者は何を望んでいるのであろうか。私は、安楽死のない高福祉社会は、それで救われる人がいる一方で、必ず地獄を生み出すことになると考えている。お金を使って地獄を生み出しているのだ。
既に多くの地獄が生み出されているのに、気付かない人は気付かない。

2020年8月10日月曜日

8月9日に思う。戦争、虐殺よりも残酷な行為。

 前回の記事がどのように解釈されたのか心配である。

この時期になると、人と人が殺し合う理不尽さと向き合うことになる。
戦争という不幸に思いをはせ、命とは何か、生きるとは何か、現代社会と向き合うことで、様々な思いが溢れてくる。

安楽死制度は、もっとも残酷で重要な問題として、他の政治問題とは切り離して考えたいと思っている。

労働問題、原発問題、社会保障制度、少子化問題、食品安全、外交、戦争、テロ、虐殺事件、どれも非常に重要な政治問題である。しかし、それでも安楽死制度は、もっとも残酷で重要な問題であり、他の政治問題とは切り離して考えたいと言っているのである。わかって欲しい。

人権、生存権は、重要な概念である。その重要な人権、生存権がなぜ曖昧で抽象的な概念のままなのかを考えて欲しい。死の権利が確立されていないからである。

なぜ、生きる権利は存在しないのか。なぜ、生きる権利ではなく、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利となったのか。健康で文化的な最低限度の生活と死の権利の間をどのように定義するのか、そろそろ死の権利の重要性に気付くべきだ。

死の権利がなければ何も始まらない。人権も生存権も曖昧で抽象的なままでは虚しい。
安楽死制度の成立。できるだけ良い形でスタートする事が大切だと考えてきた。人権や生存権の前進に繋げたいと考えてきた。

ALS女性嘱託殺人事件が、その考え方を変えた。少しでも苦しむ人を救うために、早く変えたい、少しでも変えたい、そう思った。

一例として、近年ALS患者が人工呼吸器をつける選択を迫られた場合、3割がつけ、7割が死を選ぶそうです。一度つけると取り外すことができない。それが怖くて死を選ぶそうです。
今回の事件は胃ろうをつけた事を後悔した話でした。ネット上には胃ろうをつけた事を後悔し共感する患者自身の書き込みが複数見られました。

医師は当然、つけることを勧めるだろうし、患者に生きる希望を与えるべきです。私はそのような医師のあり方は正しいと思います。
しかし、それを拒絶する患者の立場は辛いと思います。支えてくれた医療スタッフを裏切るような気持ちになると思います。死にたい訳ではない、つけた後の生活が怖い、死ねなくなるのが怖いから、医師や家族の気持ちを裏切り、死を選ぶのだと思います。

なぜ死の権利が認められないのでしょうか。死の権利があれば、当然、人工呼吸器や胃ろうを選択する患者は増えるだろうし、もっと納得の出来る最期を迎えることが出来るはずです。
なぜ自然死の体裁にこだわるのでしょうか。薬による安楽死、呼吸器の取り外しによる死、選択された死は望ましくないものなのでしょうか。

私は将来、選択できる死を選びたい。納得できる最期を選びたいと考えています。
それは、家族に対してもそうあって欲しいと思います。最後まで支えたい。本人の意思を受け入れたい。最期まで見届けたい。安らかな最期を迎えて欲しいと願うからです。
何人もの家族、親族の死を受け入れてきました。医療の発達した現代社会において自然死の体裁にこだわり続けることは、多くの場合において不自然だと感じています。

話を戻します。胃ろうや人工呼吸器の取り外しに関わる分野は、尊厳死の分野に入ると思います。以前の私であれば、私の考えるような安楽死制度の成立を目指すことで、多くの不幸をなくすことが出来る。まず、そこを目指すことが大切と考えていました。しかし今は、尊厳死の分野だけでも変えたい。少しでも早く変えたい。少しでも不幸をなくしたいと考えています。

呼吸器を選択しなかった人、なぜ医師や家族の勧めを拒否し、呼吸機能の低下を待って死ななければならないのでしょうか。この事だけでも不自然で理不尽です。
もっと理不尽なのは、医師や家族の勧めに従って胃ろうをつけて後悔した方です。後悔しても誰も助けてくれません。意思表示能力が無くなれば、誰も本人の気持ちに気付くことができず、家族や医療スタッフは本人が喜んでくれているに違いないと感じながら何年にもわたる介護生活を続けることになるのです。こんなに理不尽で残酷な話はないと思います。
今回の事件は、目の機能が衰え、まもなく意思表示能力を失いそうな中での事件でした。

私は、障害当事者であり知性を感じる彼女に、ツイッターで質問をしていました。事件後にそのツイートにいいねが押されたことをきっかけに当時の記憶が蘇りました。辛かったです。

話は変わりますが、今回の事件では、障害当事者の書き込みが多く見られました。今までは、あまり無かったことです。亡くなられた女性同様に視点入力装置等によってインターネットを出来る環境が整ってきたからだと感じています。私の知る限り、皆さん匿名で書き込みをされているようでした。


私が安楽死制度を、もっとも残酷で重要な問題と考え、他の政治問題とは切り離して考えたいと感じている理由。原爆や戦争よりも、大量虐殺事件よりも残酷だと感じる理由は少しでも理解していただけたでしょうか。
まだまだ話足りないことはたくさんありますが、今回はこの辺りで失礼します。

2020年8月7日金曜日

8月6日に思う。戦争、虐殺よりも残酷な行為。

8月6日に思う。広島、長崎、そして終戦記念日。
原発、都市空襲、民間人と狙った大量虐殺である。
私は元自衛官であり、当然戦争法も学んでいる。
戦争は兵士と兵士の争いだ。
軍事施設ではなく、都市部、民間人を狙った攻撃は、戦時中に行われた民間人大量虐殺事件であり、これは決して戦争ではない。許されない行為である。

戦争は悲惨である。戦場で仲間を殺めた帰還兵の話を聞いたことがある。
仲の良かった仲間が攻撃を受けて負傷したのだ。とても助けて帰れる状況ではなかった。
変わり果てた姿、痛みで錯乱した仲間が「殺してくれ」と訴える。
「楽にしてやる」一思いに切りつけ。最期を見届けてから逃げたそうだ。
涙が止まらず、手には感触が残っているそうだ。
最も辛かった体験として話された話だったと思う。

兵士は殺すべきではなかったのだろうか?
万が一にかけて助けを呼びに行くべきだったのだろうか?
人を殺すのは悪いことなのだろうか?
苦しむ仲間を置き去りにするのは残酷なことだろうか?
答えはないのだろうか?

鳥、豚、牛、食用の動物達がいる。彼らは適切な年齢で屠殺される。若くして亡くなるのだ。
私達が口にすることになる彼らを、愛さずにはいられない。短い人生をより良く生きてもらいたい。辛い思い、苦しい思いをせず最期を迎えて欲しい。
私は水産加工工場で働いていたことがある。最初は切落された魚の頭が並ぶのを見て気分が悪くなっていた。
しかし人は馴れる。切落された頭が並ぶ様子を見ても何も感じなくなる。
私達は、野菜や果実を含め、あらゆる命を戴きながら生きている。その罪の意識を感じることなく生きることは許されて良いものなのだろうか?

先日のALS女性嘱託殺人事件は、ショッキングなニュースであった。
多くの人が、SNSで助けを求めるしかなかった女性の境遇に同情した。
安楽死制度を求める声も多く上がった。そして今回はALSで苦しむ当事者の匿名の声がネット上に多く寄せられた事が特徴的であった。
しかし、多くのマスコミは殺害した医師を凶悪犯罪者のように書いた。
優勢思想という言葉がトレンドになった。
マスコミは今までと同じように、安楽死が認められれば重度障害者が生きたいと言い辛い社会になると警告した。前向きなALS患者の記事で埋め尽くした。
私も死にたいと思ったことがある。それを乗り越えて今がある。安楽死を考えることは危険である。
おそらく安楽死制度が必要と感じる圧倒的世論を感じながら書かれている。様々な表現で安楽死制度を遠ざけるような記事が書かれ続けた。

事件が報道されてから、もう2週間になる。今回は長い。
繰り返しによる印象操作である。
明らかな庶民の敵であった消費税が、繰り返しの印象操作によって認められた。
人々が納得するような上手い説明があった訳ではない。
多くの人々は常に税制に関心を寄せているわけではない。繰り返しの印象操作によって納得してしまったのである。

私は、この問題を他の政治問題と切り離して考えている。
政治問題は重要である。しかし、この問題だけは次元が違う。絶対に許されない行為が行われていると思う。
今の医療制度は狂っている。戦争や原発よりも理不尽で残酷なことをしている。
患者を並べて、無責任に生きる希望を与えている。そして人は馴れる。苦しむ患者達のすぐ近くで、テレビを見ながら笑うような平穏な生活をしている。
彼らは重要な決定権を患者にあたえない。そして時に重要な決定を放棄している。

そして残酷なことに、私達も共犯者になっている。苦しむ人々を放置しているのだ。
何か事件が起こると安楽死制度の必要性を訴えて、そして忘れる。
私達は、いつまでも共犯者のままである。
安楽死制度は難しい問題ではない。安楽死制度は必要。難しいのは線引きである。
安楽死制度が成立しても、すべての問題が解決するわけではない。
私達は命と向き合い、より良い制度を目指さなければならない。

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...