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新・のぶさんのペイシェント・カフェ 鈴木信行
ここは、ある下町にあるという架空のカフェ。オーナーののぶさんのいれるコーヒーの香りに誘われ、今日もすてきなゲストが訪れて、話が弾んでいるようだ。(ゲストとの対話を、お届けします)
【今月のゲスト】永森志織(ながもり・しおり)さん
NPO法人難病支援ネット・ジャパン理事、日本の患者会WEB版編集部、全国難病センター研究会事務局長補佐、一般社団法人全国膠原病友の会監事。16歳で難病の全身性エリテマトーデス(SLE)を発病。28歳から難病患者団体で当事者相談員として勤務。平日は難病患者支援のNPOで働き、休日は同じ病気の人の患者会のために活動。日本に患者会ができ始めた70年前からの資料を収集し公開する事業(日本の患者会WEB版)を実施している。「病気を持ちつつ懸命に生きた人たちの思いを、今を生きる人たちの希望につなげたい」 ・特定非営利活動法人難病支援ネット・ジャパン https://nsn-j.com ・日本の患者会WEB版 https://pg-japan.jp ・全国難病センター研究会 https://n-centerken.com ・一般社団法人全国膠原病友の会 https://kougentomo.xsrv.jp/
私がカウンターに立つカフェには、病気を持った方が多く訪れる。見た目ではわからなくても、痛みや苦悩を抱えている方も少なからずいる。 今日、お越しになった永森志織さんも病気と付き合っているようには見えない。私がドリップしたコーヒーを口にしながら、落ち着いた様子で思い出話を語り始めた。 「30年ほど前の、高校生のときです。微熱と関節の痛みがなかなか引かなくて。風邪をこじらせたかな、という感じが、いま思えば始まりだったんですよね」 近隣の大学病院で「全身性エリテマトーデス(SLE)」という聞きなれない診断が下された。 全身性エリテマトーデスは、膠原病(こうげんびょう)と呼ばれる病気のひとつだ。原因不明の自己免疫疾患で、患者は女性が圧倒的に多く、若い年代で発症する。 発熱や全身の倦怠(けんたい)感、皮膚炎や関節炎など様々な症状が出る。ステロイドの飲み薬で炎症を抑える治療が基本だが、病気そのものを治す治療法はみつかっていない。
体育の授業に出られず留年 特別支援学校に転校
「当時は驚きました。だって、難病なんだから、『もう少しやれることはないの?』って思って。放り出されたような気持ちでした」 医師を責めているのではない。今以上に、医療になすすべがなかったのだろう。 通学する日々に戻ったものの、手の痛みでペンが持てない。登校するだけで体力を使い果たした感じが続いた。授業中も、意識がもうろうとして、内容が頭に入らない。休む日が増え、体育の授業は参加できず、留年が決まった。 このままでは何年たっても卒業できない。そこで、各自の体調に合わせた授業が可能な特別支援学校へ転校して、入院生活を送ることになった。 当時はステロイドの飲み薬と鎮痛剤による症状の緩和が、ほぼ唯一の対処方法だったという。 しかし、強い鎮痛剤を服薬すると、副作用のために肝臓が悪くなるなど、別の問題が生じてしまい、なかなかうまくいかなかった。検査データは良くても、自分では体調の悪化を感じるなど、検査結果と自覚症状がうまくリンクしないことも多かった。病気との付き合い方に難しさを感じていた。 「薬を飲んでも飲まなくても、症状が変わらないという感じがあって……」 医師にもなかなか理解しがたい状況。治る見込みのない病気。10代という多感な時期を、自分の体と向き合うことに労力を注ぐことになった。
高校卒業後、一人暮らしに挑戦 しかし、就活は……
しかし、彼女の真価はここで発揮された。 「自分で改善できることは自分でやる」 そう考えたそうだ。 治療は、医療にだけ頼るものではない。入院中も、病院のベッドで寝てばかりいてはだめだと考え、体を動かすなどした。自分の可能性を、自分で広げた。多くの大人が反対するなか、高校卒業後、子どもの頃から決めていた一人暮らしを始めた。 大学へ進学する頃には症状にも慣れてきた。一見、体調は落ち着いていたようだった。しかし、就職活動をする時期になると、優れない日々がまたも続くようになった。希望した就職はできず、大学院修了後は不本意ながら実家に戻ることにした。
難病連でのボランティアがきっかけで
北海道での難病医療・福祉相談会で患者さんの話を聞く永森さん。右奥は、現・難病支援ネット・ジャパン代表の伊藤たておさん(永森さん提供)
「職に就ける見込みが全然ないって、不安で仕方ありませんでした」
地元の難病の方たちのために交流会や正しい知識の普及などを手掛ける「財団法人北海道難病連」でボランティア活動をしていたところ、事務局長から、ここで働くことを提案された。
「『患者の経験を生かして相談員にならないか』と言われて、マイナスにしか思えなかったことが人の役に立つと知り、驚くとともに、うれしかったんです」
この発想の転換が、彼女の人生を大きく変えることになった。それからの彼女は、患者支援という立場に進むことになる。私も20歳でがんに罹患(りかん)した経験が、いまの人生に強く好影響しているので、彼女の気持ちがわかる気がする。
つらかっただろう当時を話す彼女の表情はとても明るい。ポジティブに変換できた先だからこそ、この笑顔があるのだろうか。まさに、彼女の存在そのものが多くの方の生きる力になると感じる。
ドリンクのおかわりのご注文をいただいた。私は、またドリップ用のお湯を沸かし始めた。
難病の患者会の会報誌や資料を収集してウェブサイトで公開
「翌日は寝込んでもいいように仕事を組んでいるんです」
いまの彼女は、NPO法人難病支援ネット・ジャパンで、様々な業務をこなしている。立場的にも重責を担っており、日々忙しい。
体調は、学生の頃よりは落ち着いてきたものの、楽なわけではない。数年ごとに病気の大きな波がやってきて、起き上がれないほどつらくなる。
仕事中は気力で元気そうにしているが、帰宅したら動く力が残っていないときも多い。特に、大きなイベントや会合があると、その後は動けなくなる可能性が高いという。
しかし、医学は急速に進歩してきた。それがいまの生活を力強く支えてくれている。
「新しい薬や治療法が次々に出てきて、感謝しています」
ステロイドの飲み薬に加えて、様々な生物学的製剤や免疫抑制剤が治療に使えるようになった。ステロイドの効果が十分でなかったり副作用で増量が難しかったりする場合でも、治療の選択肢が増えた。
治療法の進歩による安心感が、日々の生活を前向きにさせてくれているようだ。
設立時の資料 目的やきっかけ、患者の困難な実態を反映
患者会の資料、ウェブサイトの翻訳に取り組む永森さん(左、永森さん提供)
日本では多くの難病患者が集まる団体が、会報の発行などを通じて、情報を発信し続けている。それらは各団体に所属している会員や協力している組織などに配布されている。
「せっかくの貴重な資料が、年月とともに散逸してしまう心配もあり、社会に共有されず失われてしまうのは、もったいないと考えました」
そこで、彼女が活動しているNPO法人難病支援ネット・ジャパンは、難病団体が発行している会報を整理し、まとめ、ウェブサイトで会員以外の人でも閲覧できるようにした。
数年前に、厚生労働省の難病患者サポート事業の助成対象となり、運営的にも安定してきたという。
患者団体などが発行している会報誌やニュースを収録。とりわけ、発足当時の記録は、その団体の設立の目的やきっかけ、活動の目的や要望、患者の困難な実態が反映されており、重要視している。
「難病団体や患者会は何千もあり、情報が発信され続けているので、この事業に終わりはありません」
患者が社会参画するにあたり、さまざまな運動を起こしてきた人にインタビューし、当時の様子などを伝えていく活動も始めた。
全国の難病相談支援センターが集う研究会を開催
2018年に札幌で開催した全国難病センター研究会第30回研究大会。03年の第1回から事務局を務めている(永森さん提供)
NPO法人難病支援ネット・ジャパンのもう一つの活動は、全国難病センター研究会の開催だ。各都道府県には難病相談支援センターがある。各センターで難病の方を支援している人たちや医療関係者、企業、行政、患者会など、幅広い立場の人たちが一堂に会し、事例発表による知識のブラッシュアップや交流会による意見交換を行う。
最近は、難病患者の就労支援が話題になることが多い。ほぼ毎回、100人を超す参加者があり、地元での円滑な難病支援に役立ててもらっている。
コロナ禍のため、昨年は予定していた沖縄での開催を断念し、初めてオンラインでの開催となった。今年10月にも、オンラインでの開催を予定している。
私自身、生まれつきの身体障がい者であり、就労時には様々な苦労があった。その時に、このような支援をしてくれる方がいてくれたら、どれほど心強く、より自分に適した仕事を探せただろう。
日本の「難病」資料を英訳して海外に情報発信
患者団体の情報を英語に翻訳し、日本の難病団体の状況を世界に発信していくことが、これからの彼女の夢だ。 「日本語の『難病』に、ぴったりと合う英語の表現って実はないんです。それを説明するだけでも大変です」 柔軟な翻訳が必要とのことで、それを想像しただけでも私には気が遠くなる。記念誌やインタビューの英訳をいくつか公開しており、海外の人に日本の難病の患者団体について、わかりやすく伝えていきたいという。 いま、このカフェでコーヒーを飲み、笑顔で話をしている様子からは、難病があることは感じられない。長年の病気との付き合いが、それを可能にさせているのだろう。 逆に、自分の力を発揮できる生きがいを見つけ、実行に移していることが、私に力をくれる。店を出ていく後ろ姿に、お礼の言葉をかけつつ、感謝の気持ちが湧いてきた。
鈴木信行(すずき・のぶゆき)
患医ねっと代表。1969年、神奈川県生まれ。生まれつき二分脊椎の障害があり、20歳で精巣がんを発症、24歳で再発(寛解)。46歳の時には甲状腺がんを発症した。第一製薬(現・第一三共)の研究所に13年間勤務した後、退職。2011年に患医ねっとを設立し、より良い医療の実現を目指して患者と医療者をつなぐ活動に取り組んでいる。著書に「医者・病院・薬局 失敗しない選び方・考え方」(さくら舎)など。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0bbf7c23b6a30f3cad801520cadf1eeb7a96e227?page=1
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