(富山大学名誉教授:盛永 審一郎)
安楽死を許容する動きが世界で加速している。コロナ禍のなか、スペイン、ポルトガルで安楽死法が合法化ないし可決された。
2002年、世界で最初に安楽死法を立法したのはオランダだった。それから18年後の2020年、コロナ禍によりオランダではおよそ1万5000人が命を落とす中、安楽死の数は19年度より577件増え、6938件となった。二番目に安楽死法を成立させたベルギーは2020年は2444件と、前年度より211件減っている。これは、一つにはコロナ大流行のため医療が逼迫し、患者の受け入れが手控えられたこと、もう一つには医師が告発されるケースが出てきたため医師たちが安楽死の実施に慎重になったことが原因とされている。
世界は“安楽死法”立法化の流れ、日本は真逆
2016年に安楽死法を施行したカナダの状況については、あまり知られていないので少し詳しく報告しておこう。
2016年1018人、2017年2838人、2018年4478人、2019年5660人で、2020年には7595人の「介助死亡者」(法の規定の下、医師が薬物を提供して本人の自殺を介助する形での「安楽死」)が報告された。2020年の全死亡者の2.5%が介助自殺者である。2020年12月31日までのカナダでの合法化から報告された介助死亡の総数は2万1589人となった。2021年も上半期の6カ月間に少なくとも4000人の介助死亡が報告されている。数値の上ではオランダを上回るが、人口比で言えば、カナダは約3800万人とオランダの約2倍である。だから人口比で見れば、オランダの安楽死数が一番多い。
以上、最近の世界における終末期の状況を垣間見ると、安楽死法の立法への流れがあるのに対し、日本では反対にこれを阻止しようとする動きがある。例えば安楽死を認める動きや、無益な延命治療を行うべきではないとするような風潮を「〈反延命〉主義」と一網打尽にレッテルを貼り、生産性や同調圧力から、障害者・弱者の命を守ることを主張する動きである。
私はもちろん、生命を生産性の観点で比較・選別したり、多様な個人に一つの価値観を強要したりする、日本の風土病的な「村社会」に根ざす同調圧力から、個人、特に障害者・弱者の命を守ることに賛同する。
しかし他方、安楽死容認の背後に弱者・障害者排除や優生思想しかみない、安楽死問題を封じ込めるような同調圧力には、まさに彼等の主張する多様性の観点で反論したい。そもそも1970年代にアメリカで起こったバイオエシックス(生命倫理)運動の背景の一つには「価値多元的社会」における平和的で非宗教的な倫理学の構築があったことを忘れてはならない。
死刑を廃止する欧州がなぜ安楽死を認めるか
さて、オランダで、「温室に飾られた鉢植え植物のようには生きたくない」と言っていた認知症患者の安楽死裁判で、2020年にオランダ最高裁判所は、安楽死を行なった女医を無罪とする判決を下した(参照:拙著『認知症患者安楽死裁判』丸善出版、2020年)。
なぜ「鉢植え植物としては生きたくない」という安楽死の要請に対して手を貸した医師が免罪となったのだろうか。オランダ安楽死法においては、安楽死が是認されるための六つの要件があげられている。その中でも特に重要な2要件の一つは、医師の行為がこの患者に「自発的で十分熟慮した願い」を確信した上での行為(自律・プライバシー権の尊重)であり、もう一つは「絶望的で耐えがたい苦しみ」を確信した上での行為(尊厳を守る・思いやりからの行為)である。
医師はこの2要件、「患者の願いを尊重する義務」と「患者の尊厳を守る義務」から、患者を致死させたのであり、この行為はオランダが締約したヨーロッパ人権条約2条で禁止された「意図的な生命の剥奪」の一形態ではないと考えたからである。
諸外国の法律と日本の法律では異なることはたくさんあるとしても、なぜオランダでは法律で安楽死が許容されるのか、生命に関わる問題だけに不思議に思う人がいるだろう。
生命に関わる問題と言えば、たとえばヨーロッパでは死刑制度がベラルーシを除いて廃止されている。実は、安楽死が認められる理由を考えるに当たり、この死刑制度の廃止の根拠を考えることは参考になる。日本は、この12月21日に3人が死刑を執行されたとの報道があったが、なぜヨーロッパは死刑制度を廃止したのだろうか。もちろん、極悪人といえども生命は尊重されなければならないという理由があるだろう。しかし廃止した真の理由はそれではない。
死刑は「人間の尊厳」を毀損するから――。これが本当の理由である。それでは、なぜ死刑制度は「人間の尊厳」を損なうことになるのか。
死刑が「人間の尊厳」を毀損する理由
人々の前で絞首される姿は、自尊心を汚し恥ずかしいからだ、と考える人がいるかもしれない。しかし公開処刑はすでに19世紀初頭には姿を消していく。20世紀に入り、公開処刑が行なわれたのはプロパガンダのためにやったナチスである。このように、公開処刑は自尊心、あるいは自己の尊厳を毀損するかもしれないが、死刑が毀損する人間の尊厳とはそれとは別のことである。それでは死刑が毀損する人間の尊厳とは何か。
雪崩で遭難する登山家は、絶体絶命であるとしても、まだ雪崩から脱出する希望を失ってはいない。しかし死刑囚には死刑を逃れる希望はない。死刑囚は「未来を自ら切り開く自己決定」ができないのだ。このことが人間の尊厳を毀損しているのだ。
© JBpress 提供 「死を逃れられぬ囚人がもつ、彼の目の前の未来に対しての完全で比類のない無力さである。・・・それ故に死刑は必然的な仕方で人間の尊厳を毀損する」
「真正性、すなわち自らの生の作者であると言うことは、個々の人格性の理想に属する。ある人格の自己決定へ強力に干渉することは、従っていずれにせよその人の人間の尊厳を傷つけるように思われる」
「死刑は人間の尊厳に値しない。なぜなら、死刑は、人間の自律、人間の実践的能力を、比べものにならない仕方で侵害するからだ」(以上、シュテッカー「死刑と人間の尊厳」、2007年より)
このように自己決定できるということ、自律こそ、まさに人間の資格、人格であり、「人間の尊厳」なのである。ところが死刑囚は、死刑を宣告されたことにより、それを奪われている。
昨年コロナの流行で、よく読まれた『ペスト』を書いたアルベール・カミュはそのことを死刑囚は「二度死刑にされる」と語っている。一度目は死刑を宣告されることにより、二度目は死刑を執行されることにより、と。
「人間は死刑執行を予期することによって、死ぬよりはるか以前に壊滅してしまう。彼が殺したのは一度だけであるのに、二度の死が科せられることになる」
「数ヶ月、時に数年もの間、なにものをも食らいつくし痛めつけずにはおかぬ恐怖が死刑囚に科されるが、この恐怖は死よりもさらに苛酷な苦痛であり、・・・」
「絶望的で無力な状態に陥れる」(以上、カミュ『ギロチン』紀伊国屋書店、1968年より)
だからこそ、欧州各国では死刑制度の廃止が進んだ。そして、まさに治療法がない終末期に置かれた患者は、死刑を宣告された死刑囚と変わらない。
「いつ死ぬか」「いかに死ぬか」は個人の人格権
「生の質」とは、患者が苦痛でもだえ苦しんでいる様相を指すのではない。患者が「人格」として取り扱われているか否か、ということである。すなわち「人格」であるとは人間の尊厳を持つということ、「尊厳を穢す」とは人格が「もの」として取り扱われているということである。拷問や非人道的な取り扱いがその最たる例である。そして死刑も(だからヨーロッパでは死刑を廃止した)、終末期を宣告された患者もそうだ。
従って、もし患者が「絶望的で耐えがたい苦しみから、死を選択していたとしたら」、そして患者に「絶望的な耐えがたい苦痛を確信したら」、「患者の自己決定権を尊重し」、人間の尊厳を穢されていることに対する思いやりから患者を致死させる医師が、患者の人間の尊厳を守ることになる。
© JBpress 提供 人権条約8条「患者の私生活の権利の尊重」と人権条約3条「思いやりからの、患者の尊厳を守る行為」、これが、まさに「生の質を保護する」ということであり、「生の量の保護」としての生命権の尊重の不可抗力となるのである。
だから、「いつ死ぬか」、「いかに死ぬか」といった死を選ぶ仕方は、各人のプライバシー権(人格権)の一つなのである。日本でもエホバの証人患者輸血事件の最高裁判決(2000年)で、裁判官は「人はいずれは死すべきものであり、死に至るまでの生き様は自ら決定できる」と述べ、エホバの証人の輸血拒否を人格権として認めている。
以上で見たように、治療法がない終末期に置かれた患者に安楽死が認められないことが「人間の尊厳」を毀損することになると考えられる第一の理由は、未来を切り開く自己決定権(これが人間の資格であり、人間の尊厳をなしている)が蔑ろにされているからである。
自己決定の破滅
しかしそれだけではない。人権裁判所の報告には次のような箇所がある。
「治療が個人に対する屈辱や堕落、人間の尊厳に対する敬意の欠如、または穢したり、個人の道徳的および身体的抵抗を弱めたりすることができる恐怖、苦悩、または劣等感を喚起したりする場合、それは品位を下げるものとして特徴付けられ、また第3条〈拷問、非人道的な取り扱いの禁止〉に該当する可能性がある」
『サウルの息子』という映画を見たことがあるだろうか。サウルはユダヤ人でありながら、生き残るために、SS(ナチ親衛隊)の命令の下、強制収容所のガス室でユダヤ人焼却作業に従事するゾンダーコマンドとして働く。このように死の恐怖の下では、人間は倫理観・価値観・宗教を完全に失い、単にユダヤ人を焼却する生存機械になってしまう――尊厳のない生の実例である。
イエスの十字架上の磔は、イエスに最後の言葉を叫ばせる。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか)」(マルコの福音書15章34節)。拷問は人間の尊厳である道徳的抵抗感を弱めてしまう(イエスだって神への信仰を失いかける)。
このように死は自らの未来を開く自己決定権を閉ざしてしまうだけではなくて、自己決定それ自体を破滅させてしまうのである。自分の人生観やアイデンティティとそぐわない生き方を自分の弱さのために強いられる、これが人間の尊厳の毀損の第二の理由である。
「人間は、人格的生活を送るという努力によって他の生物から区別される」
現在ドイツで一つの裁判が世間の関心を集めている。96歳の女性の殺害幇助裁判である。この女性は、75年前にナチスの強制収容所で所長秘書として1万1000人の殺害者名簿をタイプした。裁判では、この女性はタイプした名前の人達が殺害されることを当時知っていたかどうかが焦点となっている。「最終解決の機械の中のちっぽけな歯車」にすぎないと自らの無罪を主張したアイヒマン裁判と同様に、組織の歯車の「思考の停止」が問題となる事件である(現在の日本の忖度官僚達の行為にも同じく「思考の停止」がみられる)。
75年前の事件を裁くのは、滑稽な裁判だろうか。75年も以前に犯した過失で、75年後の現在過失なく生きている人の行為を問うことは一体意味があるのだろうか。もし人間がパラパラ漫画の残像現象にすぎないのだとしたら、その1コマ1コマに対して責任を負わせることはできないだろう。しかし1コマ1コマに通時的・統合的な「私」が実在しているとするなら、私は1コマ1コマに対して責任を負わざるを得ないだろう。
後者のように考えるとすると、死の恐怖の下で、サウルのように、自分の人生観やアイデンティティとは異なることを私が選ばせられるとするなら、「そんな自己の姿を見ることは耐えられない」と考えて、自ら死を選ぶ行為のいったい何が問題だというのだろうか。むしろ責任ある人間の行為ではないのか。
たしかに人間は一つの生物である。けれども、単なる生物に過ぎないのではない。現代ドイツを代表する哲学者クヴァンテはつぎのように言う。
〈人間は、人格的生活を送るという努力によって他の生物から区別される。自分自身の生活を送り、自分自身の道を歩もうという要求、および自分の行為に「人格的な」特徴を与え、「人格」のスタイルを展開するというイメージは自分の人格体であり、自分自身の性格を展開するという人間生活の基本的目的を表現する2つの様式である〉(クヴァンテ『ドイツ医療倫理学の最前線』リベルタス出版、2014年より)
そう、人間は人格でもありうるのだ。だから、かつて2011年にNHKで放映された『18歳の選択』において、透析を拒否して家での生活を選んだ華子さんは、「命は長さじゃないよ。どう生きていくかが問題だと思う」と語ったのだ。
「鉢植え植物のようには生きたくない」と願った認知症女性の安楽死に手を貸した医師の行為はヨーロッパ人権条約2条で禁止されている「意図的な生命の剥奪の一形態」ではないというオランダの裁判官の判決を、私は支持したい。そしてこの行為は「〈反延命〉主義」の行為ではないとも言いたい。「彼女が人生の終わりの瞬間を過ごすことを選ぶ方法は生きる行為の一部であり、彼女はこれも尊重されなければならないと主張する権利がある」。まさに「生きる行為」なのだ、と。
もちろん、内圧、外圧から誤った生の決定がなされないための、さまざまな生を保護する制度を構築する必要があることは言うまでもない。さもなければ、気弱な人は、「他人に迷惑を掛けるのは忍びない」とか、「自分は生きていてはよくないのでは」と考え、安楽死に駆り立てられるだろう。オランダはそのような偽りの自己決定を防ぐために、保護する制度を構築してきた。家庭医制度(日本の「かかりつけ医」とは異なる)、第三者の医師による確認、安楽死審査委員会、高福祉社会の実現・・・などなどだ。
一方、安楽死・尊厳死を「〈反延命〉主義」と批判する人たちは、「鉢植え植物のようには生きたくない」という患者の願いの中に、弱者・障害者排除、優生思想だけしかみていない。しかし、「健康でありたい」という願いが自然の生命感情であり、優生思想ではないのと同様に、「鉢植え植物のようには生きたくない」という願いは人格の価値感情であり、優生思想ではない。
優生思想とは、健康を絶対視して、病人・障害者・弱者の存在を否定してしまう狂信主義の考えである。この区別をきちんとつける必要がある。すなわち、デンマークの哲学者・キルケゴールが言うように、「相対的価値には相対的に関わる」という態度が必要なのである。「相対的な価値を絶対的にしてしまう」ところに狂信主義者が生まれるのであり、それは、「〈反延命〉主義」と批判する延命主義者にも当てはまるのである。
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