論点:患者の自己決定権は、十分に保護されているといえるか?
さて、今回は「患者の権利法」について。
僕が前回までお話していた、「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」。覚えていますか?
①緩和ケアの発展と均てん化
②医療の民主化
③患者の権利法
でしたね。今日はいよいよその最後になります。
「患者の自己決定権」は保証されているか
僕は、前回の「医療の民主化」の項で、安楽死制度が運用されるようになるためには、最低限、国民全体における自己主導型知性の獲得が必要、という話をしました。
いま安楽死制度が始まってしまったら、よく批判される日本民族の特徴「同調圧力」によって、本来死を選択するつもりがなかった人が、死に追いやられてしまうおそれがある。そうならないよう、周囲の意見や状況に関わらず、患者自身が自らの生き方を主体的に決めていくことが当たり前という知性を獲得していく必要がある、ということです。
しかし一方で、そのように患者が「自らの生き方を自ら決める」ことが当たり前になったとしても、その決定を誰が守ってくれるのでしょうか?現時点では、患者本人の決定を法的に保護するものは存在しないのです。
もちろん、憲法第13条に「個人の尊重と公共の福祉」が掲げられ、「すべて国民は、個人として尊重される」とされているので、一般的に医療現場においても患者の自己決定権は尊重されるべきものとされているのは事実です。
しかし、現場では往々にして
「患者であるあなたが希望しても、そのような治療方針は医師の私は受け入れかねます」
「1分1秒でも長く生きるのが家族の願いなの。お願いだから先生の言うこと聞いて?」
など、医師や家族などの周囲がいとも簡単に患者の自己決定を覆そうと試みてきます。そこではまるで、「患者の自己決定」と「正当な医療行為」そして「家族の感情」が同等の重さを持つもののように天秤にかけられているのです。仮にその秤の決定によって、「正当な医療行為」が「患者の自己決定」をくじいたとしても、罰則も何もありません。つまり、患者の「安楽死を求める」意思についても、医師や家族が容易に侵害できてしまうのです。
この状況を打破するために必要なのが「患者の権利法」です。どのような医療を受けるかについての決定権は、拒否する権利を含めて、患者に帰属するものとして保障されなければならないことを法的に保証する必要があるのです。
そもそも、「患者の権利法」はすでに様々な形で世界各国で制定されています。代表的なものとしては、スウェーデンの保健医療サービス信頼委員会法(1980年)、フィンランドの患者傷害法(1986年)、イギリスの保健記録アクセス法(1990年)など。1991年には、イギリスにて最初の患者憲章が制定され、1992年には初めての独立した患者の権利法がフィンランドで誕生しており、その後もアイスランド、デンマーク、ノルウエーなど各国で、患者の権利法の制定が続いてきています。
この流れを受けて、日本では1984年に患者の権利宣言全国起草委員会による「患者の権利宣言案」、1990年に日本医師会による「『説明と同意』についての報告」、1991年に日本生活協同組合連合会医療部会が「患者の権利章典」、また患者の権利法をつくる会が「患者の諸権利を定める法律要綱案」を取りまとめました。そして、ついに1997年には医療法が改正され、「医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」、つまり「インフォームドコンセント」が法的に明文化されたのです。
しかし未だ、日本においては「患者の権利法」は成立していません。2010年に、日本医師会医事法関係検討委員会がその答申として「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」を取りまとめ、公表されていますが、この中では「患者の権利法」ではなく「医療基本法」の制定をまず目指すべきとされています。
医療における原則を定めた法規範として、いわゆる「患者の権利法」を制定すべきであるとの議論も根強く存在する。本委員会としても、患者が医療を受ける際に行使しうる一定の権利を有していることに異論を挟むものではないが、一方当事者の「権利」のみを規定した法律を制定することは、法政策としての均衡を失し、かえって医師・患者間の信頼関係に悪影響を及ぼすことが懸念される。真に豊かな医療を実現するためには、まず医療の理念、医療政策の哲学を明確にしたうえで、関係者の権利と義務・責務について、その基本原則を提示するという法のあり方が望ましいものと考える。
「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」
そして、医療基本法とは規範を示すための法であり、罰則規定を設ける性質のものではないことも示されています。
皆さんは、この答申を読んでどのように感じるでしょうか?先ほど僕が、引用した一節、
その意味を?
これもまた、ひとつの論点になるところだと思います。
僕なりの見解を示すことを、ここではあえてしませんが、引用した林かおりさんの文章がその後、どう続くのかをお示ししてこの章を終えるとしましょう。
「医療を提供する『義務』」は、やがて「医療を受ける『権利』」へ、「秘密を守る『義務』」は「秘密を守られる『権利』」へと読み替えられるようになった。こうした「医師の『義務』」から「患者の『権利』」への読み替えが社会全体に認知されていく過程が、患者の権利の全体の歴史の流れといえる。
林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006.
ポジティブ・リストとネガティブ・リスト
「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」において、患者の権利法ではなく医療基本法の制定を目指す理由のひとつとして、当事者(患者)の権利のみを規定した法律を作ることへの危惧が示されているのはなぜなのでしょうか。
同文の中に、その一端が垣間見える記述があります。「2『患者』に関する法的考察」の中、「(4)患者を中心とした医療を実現するための筋道」において、患者の権利は保護されるべきであると述べる一方で、患者の責務についてこれまで十分に議論されてこなかったと指摘しています。
具体的に例を挙げると、患者側が標準治療外の抗がん剤治療を行ってくれ、と依頼しても医師は断ることができますが、逆にその患者に対し医師が標準的抗がん剤治療を強制することもできない、という構図です。これは、一見すると現在の日本でも普通に行われていることではないか?と思えるかもしれませんが、実際の医療現場においては「患者が望まない医療行為」が横行している現状は多々あります。例えば、意識はしっかりしているが体が動かない病状の患者に対し、患者が「もうこんな状態で生きている意味はない。胃瘻からの栄養を止めてほしい」と望んだとしても、医師や家族は「栄養を取らなければ死んでしまう。あなたの命を守ることが最優先」などと言って胃瘻栄養を継続するでしょう。日本の現行の法律では、このような医療行為を行ったとしても罰せられることはありませんが、オランダなら明確な法律違反とされるということです。「患者の権利法」の議論をしていく中で、まず最低限ネガティブ・リストが尊重されることを当たり前としていく必要があります。
日本において、この「患者の権利法」を成立させ、患者の自己決定権に法的根拠を持たせることは安楽死制度を運用する上で重要です。先に述べたように、患者の生き方を示す意志に対し、医師や家族などの他人が簡単に侵害できてしまう現状では制度を安定的に運用できません。
また、「患者の権利法」を制定していくための議論は、医療の主役は医療者でも、また家族でもなく、患者本人であるのだという意識を広く国民の中に育てることにもつながります。この「人権を求める運動」の先に「安楽死制度を求める運動」があると僕は考えています。
次回は、ちょっと各論をはさみます。本当は総論的なことでもう少しテーマにしたいこともあるのですが、話の流れ的に「余命要件」と「疾病要件」の話をした方がスムーズなので。次回もぜひお楽しみに。
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