2023年6月3日土曜日

緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか~安楽死制度を議論するための手引き08-2

論点:緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか

 前回の記事では、緩和的鎮静の定義や最近の考え方などについてご説明しました。
 では今回は、前回の宿題となっていた「終末期と同様な苦痛があっても延命される日本」といったテーマを取り上げましょう。

※以下、自死に関連する概念の記述がございます。ご覧いただく際にはご注意の上、お読みくださるようにお願い申し上げます。

 皆さんは「VSED」という概念をご存知でしょうか。「voluntary stopping eating and drinking」の略、日本語で言えば「自発的な飲食中止」という行為です。つまり患者さんが自分で飲食を止めることで、死期を早めるための方法で、安楽死や医師による自殺幇助が何らかの理由により難しい場合の代替方法として患者自身が選択する場合があります。
 オランダやベルギーなど、安楽死制度が存在する国においても、安楽死を希望する方全員が安楽死を受けられるわけではありません。希望をしていたが適応外とされたり、審査中に死亡してしまうという例もあるということですね。つまり、安楽死の手続きの煩雑さや適応外となった場合に、VSEDによる死を選ぶ人がいるということです。
 2015年オランダの医師708人から回答があったアンケート調査によると、46%がVSEDによる死期の短縮の経験があり、患者の70%以上は80歳以上で、76%は重篤な疾患を持ち、27%はがんであり、77%は日常生活に介護が必要であった方、と報告されました。またVSEDによる死亡までの中間値は7日であり、死亡までの主な症状は痛み、倦怠感、意識障害、口渇でした。
 また、2016年に日本緩和医療学会と日本在宅医学会の専門医の計571人から回答が得られた調査では、185人(32%)がVSEDを実際に試みた終末期患者を診たことがあると報告しています。

 世界的には、VSEDを患者さんが選択した場合に、医師が患者さんに治療(栄養療法など)を強制する方法はなく、よってVSEDを決定した患者の意思を尊重するべきであるという論調です。患者の権利法におけるポジティブ・ネガティブリストにおいても、安楽死は患者の権利法の埒外なので、医師に拒否権がある、という話を以前にしましたが、一方でVSEDはネガティブリストの行使に値するため、患者さんが飲食を止めると判断しても、それを治療する法的根拠が無いということです。

 しかし、VSEDは決して「安らかで楽な死」とはいえません。数日も飲食を止めてしまえば、それに伴う飢餓感と渇きが、猛烈な苦痛として患者さんを襲います。もちろん、それを耐え抜いて死まで至る方もいらっしゃいますが、途中で断念せざるを得ない方も大勢いるということです。
 ではここで考えてほしいのが「VSEDによって死に至ろうとする患者さんが感じている苦痛は、終末期における耐えがたい苦痛と判断してよいか」という命題になるわけです。

 日本という国は不思議なことに、終末期になって延命治療を拒否する、という状況であっても、結果的に延命となる治療を選択するパターンがとても多いです。例えば「認知症の終末期で、寝たきり。周囲も介護できず、床ずれがたくさんできている。もうこれ以上の治療は望んでないが、でも、点滴はずっと続けてほしい」など。もちろんそこには本人や家族の感情的な面があるので、終末期に点滴を続けるかどうかといった点にはまた別の議論は必要なのですが。

 では話を戻して、VSEDによって死に至ろうとする方に対し、「その方が感じている苦痛=終末期における耐えがたい苦痛」としてしまってよいか、の話です。VSEDを選択した時点で、残されている余命は、栄養さえきちんと取ることができれば半年以上はあるとしましょう。つまり適切に治療・療養すればまだまだ生きられる、という状態なわけです。しかし、このまま放っておけばおそらく1~2週間で死が訪れるでしょう。なので、これは終末期である、と解釈することも可能です。

 そう考えていくと、VSEDにおける飢餓感などの苦痛は「緩和的鎮静」によって緩和するべきではないか、という視点が生まれてきます。
 日本においては「治療可能な状態が残っている以上は終末期ではない」といった意識が根強く、誰が見ても明らかに終末期、と思われる事態以外に緩和ケアが適応されない(適応しようという意識が無い)といった問題があります。最近になって、がん以外の「心不全の緩和ケア」などの概念がきちんと提唱されるようになったは、こういった意識からの脱却をめざすといった側面もあるのです。
 つまり、VSEDについても治療さえすれば長く生きられるのだから、そこに緩和ケアを適用するのは間違いである=緩和的鎮静の適応にならない、といった考え方が日本ではスタンダードになりがちということです。

 さて、ここまで見てきたところでようやく話は「子どもの安楽死は認められるか」まで戻るのですが、この項で僕は

「緩和的鎮静」が日本において適切に運用されているかどうか、という懸念がある点で、その問題をどうとらえるかによって今回の③のケース(未成年かつ本人の意志が最初から確認できない場合)の安楽死制度適応も認めるか認めないかが変わってくるのではないかと思います。

と書きました。つまり、「終末期におけるあらゆる苦痛は、適切な緩和ケアによって取り除くことができるはず」という前提が、このVSEDにおける日本の現状意識を考えたときに、揺らぐ部分があるということなのです。
 つまり、患者本人が未成年で、本人の意思が最初から確認できない場合(例えば脳性まひなど)で、家族から見れば明らかに「耐えがたい苦痛」があるとしましょう。しかし、その方は栄養療法さえ続ければ少なくとも10年単位で生きながらえることが可能な「いのち」です。医師から見れば、その生命維持を何らかの方法で止めるなどあってはならない、と考えるが普通でしょうし、医師なら当然そう考えてほしいところです。しかし、家族の側で「この子の生命維持に関するものを全て止めてください」との申し出があった場合にはどうするか。昨日まで「10年単位で生きられる」はずだったいのちが、今日には「あと数日」のいのちになってしまう。そんな状況に手を貸せる医師がどれくらいいるだろうか?という懸念があります。それはすなわち、「仮に家族が勝手に生命維持を勝手に中止したとしても、それに伴う苦痛についても医師は協力しない(生命維持の処置を戻せばその苦痛も取れるのだから)」ということを意味しており、結果的に患者さんは生かされる、という道を選ばざるを得なくなるでしょう。

 ここで「だからこそ、安楽死制度が必要だ」と考えるか「いや、だからこそ安楽死制度を作ってはならない(少なくともこういった子どもに適応してはならない)」と考えるかが分かれ道だと思います。
 結局のところ、緩和的鎮静は、終末期における医療行為のひとつであり、医者が終末期と判断しなければそもそも適応とならないし、代替手段がある場合も適応と言えません。あくまでも「医者が主導する行為」です。
 一方で安楽死制度があれば、そういった医師の解釈は必要なく、「緩和ケアを受けても苦痛が緩和されず、余命が限られた」状態と判断され、死に至る可能性を患者家族が自ら選択することが可能になります。

 僕個人としては、医療行為に分類される行為を、患者さんや家族の求めがあったからといって、その適応を無視して施すというのは厳に慎むべきと考えています。緩和的鎮静も、患者さんの求めに応じて行うことを良しとするのであれば、その適応範囲は限りなく広がっていき、それはイコール「安楽死の代替」になし崩し的になってしまいます。だから、あくまでも緩和的鎮静は医療行為で医師に専決権があるもの、安楽死制度は患者さん側に専決権があるもの、と分けて考えた方が良いと思っています(もちろん、どちらも双方に相談が必要なのですが)。

 ただ一方で、VSEDや、治療中止を求められた場合の患者さんについて「それは終末期である」と解釈し、緩和的鎮静を含めた緩和ケアが適応となるべきか、といった視点はきちんと議論すべきです。患者さんの自己決定権は尊重する、としたうえで「その自己決定によって苦痛に苛まれたとしても自業自得である」から医者として手を差し伸べないのは倫理的に正しいでしょうか?
 どんな生き方であっても尊重されるし、死に至る前に苦痛を感じずに済むのは本人の人権を守ることである、といった世界が緩和ケアによって確立されないなら、やはり安楽死制度があるのがベストである、という結論になってしまうのだと思います。

★VSEDに対する支援
アメリカのCompassion & Choicesという支援団体、オランダ王立医師会やアメリカ看護協会では、VSEDを実行する患者の治療やケアの方法が紹介されています。
Compassion & Choices:https://www.compassionandchoices.org/
アメリカ看護協会:https://www.nursingworld.org/
※それぞれ「VSED」でサイト内検索することでページにアクセス可能
オランダ王立医師会:「KNMG Royal Dutch Medical Association and V&VN Dutch Nurses’ Association Guide」で検索することでPDFがダウンロード可能

https://note.com/tnishi1/n/nb0b22a27349d

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