
安楽死制度を議論するための手引き09(感想編)
「安楽死制度を議論するための手引き09」では、全3回にわたって写真家・幡野広志さんとの対談の様子をお届けしてきました。
ただ、僕はリアルタイムで幡野さんとお話しているとき、幡野さんがおっしゃるところの、
「安楽死がポリコレになっちゃって、生きることが社会的な正義で安楽死は社会悪って風潮ができあがってしまった」
という言葉の意図を、くみとり切れていなかったように思います。
このnoteを読まれている方の年代が、僕にはわからないんですけど、少なくとも今の40歳以上の方々って、「汚いものや猥雑なものの中にこそ真実があり、小ぎれいに飾った見栄えのするものは虚飾である」って価値観を、何となくでも理解できると思うのですよ。
でも、いまの若い世代を中心とした世界の方向性は「きれいなものの中にこそ真実や正義がある」に変わってきてしまっているのですね。そして中高年世代も、世界全体がその流れの中にあるから、知らず知らずのうちに昔ながらの価値観が失われて新しい価値観に置き換わっているはずなんですけど、その変化に気づいていない。まるで20年前から「きれいなものの中に真実がある世界だった」と思い込んでしまっているのです。
これは岡田斗司夫さんなどが「ホワイト社会の到来」というテーマで発信をしていますが、日本だけではなく世界全体で「正しさ」が「清廉さ」と置き換えられてしまっていて、アニメや映画の表現の幅も狭められてしまったり、有名人などはその経歴の過去にさかのぼって「正しくない」行為を糾弾されたりする社会になりつつあります。
このホワイト化された社会の中では、前向きに生きることこそが「正義」であり、今後ますます「死の権利」を持ち出すことは「悪いこと」化される可能性が高いです。
本来であれば、多様な価値観を認め合うことが名目上は「正しいこと」とされているわけなので、「生きたい」と願う人がいる一方で「死にたい」と願う人がいることも肯定されるべきだと思うのですが(その思いそのものと実行することの是非は別に考えなければなりませんが)、実際には「死にたい」と口にすることすら「悪」とされる風潮は強くなっています。
これは「多様な価値観を認め合う」という言葉だって、その字面が「美しい」、だから「正しい」と捉えられているだけなのかもしれません。その本質を追求することはタイパが悪い、めんどくさい。「大勢が『正しい』と考える価値観の範囲でのみ、多様性を認める」となっている。深く考えずに表面をなぞって、「美しいからそれでいいんじゃない」って言っている間に、地の底で喘いでる人々がいることすら、その大勢は気づいていないのでしょう。
橘玲さんはその著書の中で、人を含めたすべての生物は、快感を求め苦痛を避けるようにプログラムされており、その「快感」の中には「正義の行使」があることを指摘しています。
メディアが「こんなことが許されるでしょうか」といつも騒いでいるのも、SNSで不道徳な者がさらし者にされるのも、現代社会にとって正義が最大の「娯楽(エンタテイメント)」だからだ。
ここ最近のSNSを中心とした「叩いて良いと判断されたものを完膚なきまでに徹底的につぶす」風潮の中、安楽死制度も「道徳的に正しくないこと」のカテゴリーの中で排除されつつあるのでしょう。
安楽死を願う当事者と、それに反対する外野では、その重きを置く価値観は全く異なりますし、それぞれの世界の見え方も当然異なるはずなのですが、このギャップを理解できないままにそれぞれの「正義」をぶつけあったとしても、結論には絶対にたどり着けません。
「多様な価値観を認め合う」理想が達成された社会なのであれば、お互いがお互いの正義をぶつけあって、つぶし合うなんてことも起こり得ないはずなのに、です。
そしてさらに近年ではこのホワイト化された社会の価値観の中で「死」を遠ざける傾向がさらに顕著になってしまっているため、「安楽死制度が政治的イデオロギーになってしまった」と言えるのだと思います。
さらに日本においてやっかいなのは、このホワイト社会の到来が「人権」に立脚せず、「思いやり(道徳的正しさ)」の上に成り立ってしまっているところです。
この立脚点の違いが、安楽死制度の成立にどう影響するかについては、またこれからの稿でお話します。楽しみにお待ちください。
https://note.com/tnishi1/n/n52ac9f2f8ed3
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