2024年1月5日金曜日

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(前編)

認知症と安楽死~安楽死制度を議論するための手引き12(前編)

2023年12月31日 16:44

論点:認知症になる前に書いた安楽死の希望は、認知症後の患者さんにとっても有効か?

 さて、前回の記事では「認知症をもつ方の意志決定はどうすれば良いのか」を考えるため、まずは現在における「人生会議=Advance Care Planning」について見直してみたのでした。

 では今回は、さらに考察を深めて「認知症をもつ方に対して安楽死制度は適応とすべきかどうか」を考えてみましょう。

オランダでの強制安楽死事件

 認知症をもつ方に対する安楽死制度を考えるために、実際にオランダで起きた事件を取り上げましょう。
 これは2016年に、アルツハイマー型認知症を患ったある患者さんに対し、安楽死を行った医師が、検察に起訴されたという事件です。

 患者さんは74歳の女性で、2012年にアルツハイマー型認知症と診断され、その1か月後にはオランダ安楽死協会にて安楽死要請書に署名しています。 
 盛永審一郎著『認知症患者安楽死裁判(丸善出版)』によると、その認知症条項には
「私は夫と一緒に家に住むことが大好きです。それがもはやできなくなったとき、私に自発的安楽死を適用する法的権利を行使したいと思います。確かにいえることは、本当に私は認知症の高齢者のための施設に置かれたくないということです」
と記載されていたとのことです。
 そして、同書の記載からその後の経過を追うと、患者さんは次第に認知機能が低下していき、2016年には介護施設に入ることになりました。そこで主治医となった医師が、安楽死宣言書の存在を耳にし、さらに施設入所後「落ち着きがなく、混乱している」「患者が死にたいと少なくとも1日20回は口にする」といった状況をみて、安楽死の適用を考え始めたそうです。
 そのうえで、医師は家族に状況について説明し、他のスタッフや安楽死の専門施設の医師、精神科医などとも相談したうえで、「安楽死の要件を満たしている」と判断しました。
 2016年4月22日、主治医は家族が同席する中で、患者さんを眠らせるために彼女のコーヒーに睡眠薬を入れて眠らせ、安楽死の薬を投与しようとしたが、患者さんが起き上がろうとしたために家族に患者さんの体を押さえさせ、そのうえで薬の投与を行ったということです。ちなみに、睡眠薬の投与も、安楽死の実行についても「患者は既に病気についての認識や、意思決定能力が無い」との考えのもとで、本人への相談や事前告知は行われなかったそうです。

 この安楽死については、オランダで安楽死法が成立して以後、初めて医師が訴追される事件となりました。

 安楽死審査委員会は、患者さんが自ら安楽死の要請を行っていないにも関わらず医師らが安楽死の実行を決定したとし、また実際に実行の際に患者さんが起き上がるなど処置に抵抗するそぶりを見せたにも関わらず、それを押さえつけて安楽死を完遂したことを問題視しました。
 しかし、この委員会報告などに基づく訴追の結果、地方裁判所が出した結論は「無罪」というものでした。安楽死法には「書面による宣言書を患者自身が作成していた場合、医師は、この要請に従うことができる」とされており、「患者が意思表示できなくなった場合には、書面による意思表示書が現在の意思とみなされる」とするオランダ保健福祉大臣の安楽死法に関する回答も、2014年に出されていたのです。

 そして、オランダ最高裁判所は2020年、
「これまでは、患者に対して安楽死を求める意思を実施前に確認する必要があったが、今後はその必要がない」
との判断を下しました。
 つまり、認知症をもつ患者さんが事前に書面で意思を示していれば、その事前意思に従って安楽死を施すことは合法である、とされたのです。

認知症をもつ方の現在の意思とは?

 さて、では日本で安楽死制度を作るとして、このオランダの要件を日本にも導入すべきでしょうか?

 そもそも、認知症をもつ患者さんが現在見ている世界は、認知症が無い時に「認知症になったら・・・」と想像していた世界と本当に同一なのでしょうか?
 認知症は、本当にざっくりした言い方をすると、「過去を失っていく病」という面があります。最初のうちは、今朝食事したかどうか(何を食べたかではなく)や、昨日誰と会ったか、といった比較的最近の事柄を覚えていられなくなります。段々と、過去に獲得した様々な経験や技術も失われていき、自宅の場所や電話番号、親しい人の顔、トイレへの行き方、そして最後には食事の食べ方も分からなくなってしまう、といった経過を辿ります。その過程は、1日2日で進行していくものではなく、年単位で悪化していきますが、最初のうちは「自分は認知症である」と認識できたものも、その認識が失われていくため「何が何だか分からない」となり、世界に対して恐怖を覚え始めたりする場合もあります。
 皆さんは「過去を失う」経験をしたことが無いから、その恐ろしさがどれくらいか想像したことが無い・・・というか、生まれてこの方当然のように存在していた「過去」が無くなってしまうことなど、想像もできないはずです。
 人は、「過去」があり、「未来」を想像できるからこそ、「現在」に立脚できる、という考え方があります。つまり、その「過去」がぐらつくことは「未来」を失わせ、そして「現在」すらもあやふやにしてしまう、という恐さがあるのです。
 ただ、逆に言えば認知症の患者さんには「現在がある」と言い換えることもできます。「過去」や「未来」は存在しなくても「現在」は感じることができる。認知症があっても、いまどうしたいのか、という感情はその人の本当の感情です。

 そう考えていくと、認知症をもつ方に対し、過去~未来まで全てが揃っている僕たちが、その「常識」を当てはめて安楽死の是非を議論するのは、そもそもとして間違っているのではないか?とも思うのですがいかがでしょうか。
 次回、後編ではこの点についてもっと深く掘り下げていこうと思います。


https://note.com/tnishi1/n/n80fe3d2b38f5

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