2024年2月1日木曜日

すべり坂は止められるのか~安楽死制度を議論するための手引き13

見出し画像

すべり坂は止められるのか~安楽死制度を議論するための手引き13

2024年1月30日 17:16

論点:いわゆる「すべり坂」を予防することは可能か?

 前回の記事では、認知症のある方に対し、健常者の論理で回っているこの世界の「常識」を当てはめて判断するのは、いわゆる「すべり坂」を下りかけているように思えてなりません、という話をしました。

 これは、オランダだけの問題ではなく、安楽死制度を許容した他の国でも同様で、制度が定められた当時に想定していた安楽死対象者よりも幅広い方へその権利が与えられるようになっています。
 これがまさに「安楽死制度をひとたび認めてしまうと、最初は肉体的苦痛に苛まれる終末期患者のみ、としていた対象が、あれよあれよと精神的苦痛や小児、終末期ではない方々にまで拡大していく」という「すべり坂現象」です。当初、オランダもその他の諸外国も「すべり坂」なんてことは起こらない、と嘯いていたにも関わらず、少なくとも遠い国である日本から眺める立場では、どう見ても彼らは坂をずるずると下って行っています。
 しかも恐ろしいのは、その国の方々が「下って行っている」ということに無自覚なのではないか?と見えることです。もう少し正確に言えば、実際にはすべり坂を下って行っているにも関わらず、そこにもっともらしい理由をつけて「これはすべり坂ではない」と言い張っているだけのように見えます。

「すべり坂ではない」という反論では、「こういったケースは本国において、社会的に十分な議論を重ねたうえでの結末だ。裁判でも何度も審議された。そもそも制度とは、国民が求めるものに従って常にアップデートされるべきだ。それは安楽死制度だって例外ではない」などと言うでしょうか。
 しかし、「国民が求めている」「十分な議論と法的検討を重ねた」「改悪ではなく改善だ」という見え方は否定しないまでも、それと「すべり坂かどうか」は別の枠で考えるべきです。「すべり坂」が、先に示したように「ひとたび安楽死制度を認めると、その対象者がどんどんと拡大していく」と定義されるのであれば、諸外国はどんなに言い訳をしたところで、確実にすべり坂を下っています。
 それならいっそのこと、「安楽死制度を認めると、(少なくとも現状のシステムの中では)すべり坂を下っていくことを防ぐことはできない」と開き直ってくれた方が、日本を含めた他の国々でも安楽死制度を議論・設計するときの役に立つのですがね・・・。

そもそも、なぜ「すべり坂」を下ってしまうのか

 どんなに優れたシステムがあっても、そして社会が有効に機能していたとしても、安楽死制度は「すべり坂」を下って行ってしまうのなら、その理由は何でしょうか。
 もちろん様々な理由は考えられると思いますが、僕はその一番の理由は「死による問題解決の甘美さ」だと思っています。
 死による問題解決が甘美、などという言葉を用いると少なからず批判を受けそうですが、これは宗教的にも何百年もの昔から言われ続けてきたことです。例えば、宗教はその教えによって死を超越した境地にたどり着くことをその目的としている場合がありますが、それと同時にその死の世界に自ら赴くことを禁じていたりします(そうではない宗教もありますが)。これは、宗教的解脱によって、死の恐怖から解き放たれたとき、生の世界の醜さや理不尽さよりも死の世界を求める欲求が勝る場合があるから、とされているそうです。
 そして僕自身も、病院で死に瀕している方々と何百人と接してきた中で「死による問題解決」への誘惑を感じたことは1度や2度ではありません。毎日毎日繰り返される、怨嗟と悲嘆の声。仮に、身体の痛みは完全にゼロになったとしても、患者さんたちのこの世への呪いの声はとどまることを知らない・・・という場面はしばしばあります。その声を聞くために、毎日毎日病室へ足を運ぶ日々を想像できますか?
 もちろん、僕らにとってはそれが仕事ですから、その声を受け止めることからすべてが始まる、という面がありますし、患者さんの死を望んだことなどは一度たりともありません。しかし、患者さんが徐々に弱っていって昏睡状態になり、呪いの声を出せなくなったその朝に「ああ、もう彼の苦しみを受け止めなくても良いんだ」という安心感が心の片隅に浮かんでぞっとすることがあります。医師としての倫理観があるから、湧き上がってくるそんな感情に蓋をすることは可能ですが(それはおそらく宗教者も同じ境地なのでしょうが)、感情コントロールの訓練を受けていない市井の方々が、「死による問題解決」の誘惑に耐えられる人ばかりでしょうか?
 僕は諸外国の安楽死制度が、明確にすべり坂を下って行っている現状に対し、「人であれば当然そうなってしまうだろう」とある意味同情的に眺めています。

では「すべり坂」は予防可能なのか

 僕は先ほど、安楽死制度を運用している諸外国では「安楽死制度を認めると、(少なくとも現状のシステムの中では)すべり坂を下っていくことを防ぐことはできない」ことをまずは認めるべきだ、といった主旨の発言をしました。
 それはまず、この前提を共有できなければ、その予防を考えることは不可能だからです。例えるなら「風邪なんて存在しない」と主張されている社会で、風邪の予防を考えようなんて気にならないですよね、ということです。「すべり坂は存在する」。この前提から予防できるかを議論すべきです。安楽死制度に賛成派の方は「すべり坂は存在しない」という主張はもう取りやめた方が、建設的な議論に向かえると思いますよ。

 また一方で、ここで考えるべきは「すべり坂があるから安楽死制度は止めよう」ではありません。安楽死制度をめぐる議論では、反対派からこの内容も飽きるほどに提言されますが、賛成派から「運用をきちんとすればすべり坂は防げる」という反論をくらって手詰まりです。その後は「できる」「できない」の水掛け論が繰り返されるだけで時間の無駄ですから、そんな前提もまた止めましょう。

 考えるべきは、「安楽死制度に必ずつきまとう『すべり坂』を、完全に止める手立てはあるか」という手段です。それが考えつくのであれば、賛成派の優勢になりますし、考えつかなければ反対派の勝利になってしまいます。
 さて、読者の皆さんなら、どんな運用方法が思いつきますか?

 僕なら・・・安楽死制度については間接民主制ではなく、ゆるやかな直接民主制を採る、というのを一案としてあげます。
 つまり、国民投票で制度のすべり坂を防ごうという魂胆です。しかも、単にその投票で過半数を獲得すれば良いという話ではなく、完全に国民の50%以上が制度の改変に賛成の意図を示さない限りは無効、とする案です。
 例えばですが「制度の変更が国会から発議された場合に国民投票を行い、有権者の投票率が70%以上かつ賛成票が75%を超えた場合」に、制度を改変できる、といった条件を最初から法律の中に盛り込んでおく、といった運用だとどうでしょうか。憲法改正よりも厳しい条件なので、この運用を実際に通すのは難しいかもしれませんが。
 しかし、安楽死制度は国民一人一人の生死に関わるものですので、それが「すべり坂」を下らないようするためには、少なくとも国民の半分以上は明確に賛成している、という状態でなければ「国民みんなでその道を選びました」とは言えないのではないかなと僕は思います。
 ちなみに、ここで述べている国民投票の案はあくまでも「制度の対象となる方の範囲を広げる」場合に行われるものであって、制度を開始するときにもこの手続きが必要かといえば、そうは思いません。制度全体の設計をするためには、どうしても総花的な部分が出てこざるを得ず、それを国民投票にかけるなどすれば「総論賛成、各論反対」の方々が大量に発生して、結局のところ国民投票で否決されるだろうことは目に見えているからです。なので、制度の全体については間接民主制、つまりは国会で十分に議論をして決定すれば良いと僕は考えています。
 それに対し、対象者の拡張に関する国民投票はワンイシューで投票することになるので、総論は存在せずに各論のみですから、話が分かりやすく国民投票に向いていると僕は思います。
 例えば、これまでの論点でも出てきたように
「身体的苦痛だけではなく精神的苦痛に対しても対象を広げて良いか」
「成人だけではなく小児にも対象を広げて良いか」
「終末期(例えば6か月以内の余命)に限る、という条件は撤廃して良いか」
など、その発議は国会で行い、そののちに上記のような国民投票を入れる仕組みにすれば、かなりすべり坂は防げるように思います。

 ただもちろん、この案もまったく完璧とは言えません。本当に、投票率が70%を超え、そのうちの賛成票が75%、という条件をクリアしてしまう可能性もあるからです。その場合は、国民がその道を自ら選んだ、ということでそれもまた良しとするしかないかなと。

 皆さんの「すべり坂」へのご意見もぜひお聞かせください!

0 件のコメント:

コメントを投稿

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15

分母を増やすのは無駄にならない~安楽死制度を議論するための手引き15 西智弘(Tomohiro Nishi) 2024年4月15日 20:38 論点:安楽死の議論は本当に「進んでいない」のか ▼前回記事 「安楽死制度の議論は、日本では全然盛り上がっていかない」という声を、時々耳に...