2020年8月7日金曜日

8月6日に思う。戦争、虐殺よりも残酷な行為。

8月6日に思う。広島、長崎、そして終戦記念日。
原発、都市空襲、民間人と狙った大量虐殺である。
私は元自衛官であり、当然戦争法も学んでいる。
戦争は兵士と兵士の争いだ。
軍事施設ではなく、都市部、民間人を狙った攻撃は、戦時中に行われた民間人大量虐殺事件であり、これは決して戦争ではない。許されない行為である。

戦争は悲惨である。戦場で仲間を殺めた帰還兵の話を聞いたことがある。
仲の良かった仲間が攻撃を受けて負傷したのだ。とても助けて帰れる状況ではなかった。
変わり果てた姿、痛みで錯乱した仲間が「殺してくれ」と訴える。
「楽にしてやる」一思いに切りつけ。最期を見届けてから逃げたそうだ。
涙が止まらず、手には感触が残っているそうだ。
最も辛かった体験として話された話だったと思う。

兵士は殺すべきではなかったのだろうか?
万が一にかけて助けを呼びに行くべきだったのだろうか?
人を殺すのは悪いことなのだろうか?
苦しむ仲間を置き去りにするのは残酷なことだろうか?
答えはないのだろうか?

鳥、豚、牛、食用の動物達がいる。彼らは適切な年齢で屠殺される。若くして亡くなるのだ。
私達が口にすることになる彼らを、愛さずにはいられない。短い人生をより良く生きてもらいたい。辛い思い、苦しい思いをせず最期を迎えて欲しい。
私は水産加工工場で働いていたことがある。最初は切落された魚の頭が並ぶのを見て気分が悪くなっていた。
しかし人は馴れる。切落された頭が並ぶ様子を見ても何も感じなくなる。
私達は、野菜や果実を含め、あらゆる命を戴きながら生きている。その罪の意識を感じることなく生きることは許されて良いものなのだろうか?

先日のALS女性嘱託殺人事件は、ショッキングなニュースであった。
多くの人が、SNSで助けを求めるしかなかった女性の境遇に同情した。
安楽死制度を求める声も多く上がった。そして今回はALSで苦しむ当事者の匿名の声がネット上に多く寄せられた事が特徴的であった。
しかし、多くのマスコミは殺害した医師を凶悪犯罪者のように書いた。
優勢思想という言葉がトレンドになった。
マスコミは今までと同じように、安楽死が認められれば重度障害者が生きたいと言い辛い社会になると警告した。前向きなALS患者の記事で埋め尽くした。
私も死にたいと思ったことがある。それを乗り越えて今がある。安楽死を考えることは危険である。
おそらく安楽死制度が必要と感じる圧倒的世論を感じながら書かれている。様々な表現で安楽死制度を遠ざけるような記事が書かれ続けた。

事件が報道されてから、もう2週間になる。今回は長い。
繰り返しによる印象操作である。
明らかな庶民の敵であった消費税が、繰り返しの印象操作によって認められた。
人々が納得するような上手い説明があった訳ではない。
多くの人々は常に税制に関心を寄せているわけではない。繰り返しの印象操作によって納得してしまったのである。

私は、この問題を他の政治問題と切り離して考えている。
政治問題は重要である。しかし、この問題だけは次元が違う。絶対に許されない行為が行われていると思う。
今の医療制度は狂っている。戦争や原発よりも理不尽で残酷なことをしている。
患者を並べて、無責任に生きる希望を与えている。そして人は馴れる。苦しむ患者達のすぐ近くで、テレビを見ながら笑うような平穏な生活をしている。
彼らは重要な決定権を患者にあたえない。そして時に重要な決定を放棄している。

そして残酷なことに、私達も共犯者になっている。苦しむ人々を放置しているのだ。
何か事件が起こると安楽死制度の必要性を訴えて、そして忘れる。
私達は、いつまでも共犯者のままである。
安楽死制度は難しい問題ではない。安楽死制度は必要。難しいのは線引きである。
安楽死制度が成立しても、すべての問題が解決するわけではない。
私達は命と向き合い、より良い制度を目指さなければならない。

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