出口としての安楽死
テーマ:ALSと考え事
https://ameblo.jp/ookawas/entry-12477158260.html
死の権利は、日時と場所を指定し、公の下で死を迎える事のできる権利です。
多くの人が自宅で家族に看取られながら、最後の時を迎えたいと考える一方で、医療の発展により病院で迎える機会が多くなった上、難しい決断を迫られることも多くなってきました。
死の権利は、医療の発達に伴い、今後、必ず必要となる制度です。
自殺者の多くは、誰にも相談できずにその時を迎えます。行方不明者の把握も静かな問題となっています。
公の下で、時間と場所を指定して死を迎える事が出来る権利は、とても重要な権利です。
死の権利は、生きる権利と表裏一体です。
テーマ:ALSと考え事
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大学卒業後、内分泌代謝科の医師として働いていた竹田主子先生。子育てに重きを置き、複数の非常勤先で働いていた2012年、40代前半でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。2014年には、24時間介護が必要な状態になりました。現在は、目や首の動きで意思疎通を図っています。前編では、ALSを発症するまでのキャリアや働き方、疾病受容するまでのお話をお聞きしました。(取材日:2019年6月3日)
――ALSを発症するまでのキャリアについて教えてください。
信州大学医学部を卒業後、医師3年目で同じ内科の医師と結婚しました。その後、東京大学の大学院に入学しましたが、夫のアメリカ留学が決まり休学。アメリカ滞在中に、臨床研修員として3年間働き、現地で第一子を出産しました。子どもが生まれてからは、仕事よりも子育てをメインにした働き方にシフトしましたね。それは帰国後も同じでした。子どもが幼稚園に行っている間に外来のアルバイトをして、仕事から自宅に戻ると家事をこなし、子どもが帰ってきてからは習い事の送迎という毎日。第一子が少し大きくなってからは常勤医として当直対応もしながら働いていましたが、第二子を妊娠・出産して少し経ってからは、非常勤医として複数の勤務先でアルバイトをする働き方に切り替えました。
子育てが一段落ついたら、ゆくゆくは開業しようと考えていましたが、当時の私は医師としてのキャリアよりも、家庭や育児を優先させていました。私が家庭を守り、夫が出世すればいいと考えていたのです。
――ALSの発症は、そのような日々を送っていた矢先の出来事だったのでしょうか。
そうですね。私がALSを発症したのは2012年でした。まず、歩行時に足が突っ張り、うまく歩けなくなりました。手が動かしにくくなったので、作業療法士の方にペンが持ちやすくなる補装具を手配してもらいましたが、それを着けてもカルテの入力が困難になっていって――。ALSと正式に診断される前は、主治医に症状を訴えても「ALSの典型的な症状ではない」と言われていました。けれども、身体は徐々に動かなくなっていく。今日動かせていたところが、明日動かなくなってしまったらという不安に苛まれながら、育児や仕事を頑張るしかありませんでした。身体に異変が起き始めてから9カ月、患者さんと話していると息苦しく感じるようになった頃に、針筋電図でALSと確定。既に身体は限界で、日々の診療に耐えられる状況ではありませんでした。そのため、臨床現場を離れることに、悔しさや未練はなかったですね。
――実際に、診断名を告げられたときの心境は。
覚悟はしていましたが、いざ告げられて真っ先に思ったのは「私、死ぬんだ…」ということ。当時、中1と小2だった子どもたちが心配で、そして、彼らと別れることを思うと悲しくてたまらず、診断してくださった教授に「私のALSのタイプは進行が早いですか?」と泣きながら尋ねました。正式な診断を受けてからは日本ALS協会の方にお話を聞いたり、ALSの患者会に参加したり、さまざまな情報を集める日々。一縷の望みをかけて、ALSの治験を受けるために東北大学病院と北里大学病院にも足を運びました。
家族に対しても、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。あっという間に言葉が不明瞭になり、食事も全介助になってしまって――。医師という職業柄、ただでさえ忙しい主人には介護や家事で負担をかけてしまい、子どもたちにとっては頼れる母親から心配をかけてしまう存在になってしまった。何よりも大切にしていた家族に迷惑をかけるくらいなら消えてしまいたい、元気だったら家族に対してもっといろんなことができるのにと思いながら涙に暮れていると、そのことを非難されることもありました。「好きでこんな病気になったわけじゃないのに!」と悔しさでさらに涙があふれていきました。
――先生ご自身が患者になり、医療従事者に対して感じたことはありますか。
医師は患者とその家族の人生に希望を与える存在であり、患者側をイキイキとさせることも、絶望に突き落とすこともできるということ。また、医師と患者の間には、病に対する知識や考え方など、医師が思っている以上に大きなギャップがあるということです。それを埋めるのがコメディカルスタッフであることを実感しました。結果的に、この経験が現在の業務内容にも活かされています。
私は一時期、精神的に追い詰められるあまり、カルテに「蘇生措置拒否」と書いてもらったこともありました。自分自身にもどかしさや不甲斐なさを感じるあまり、絶望の沼にはまって、そこから抜け出せない日々が長らく続きました。結果的に、疾病受容までに発症から4年かかってしまいましたね。
――疾病受容できたきっかけは、何だったのでしょうか。
重度訪問介護者として認定され、24時間介護サービスを受けられるようになったこと。それに付随して、視線入力装置を導入できたことです。それまでは家族に平日の夕方以降と土日に介護をしてもらっていましたが、サービスを受けられるようになってからは家族の負担を減らすことができたので、心的ストレスがかなり軽減されました。また、視線で文字入力できるパソコンを使えるようになったので、仕事や交友関係の幅も、世界もどんどん広がっていき、元来の前向きさを取り戻すことができました。実はALSになってから、それまでの交友関係を断ち切ってしまったんです。バレたくなかったし、話題が合わないと思って――。ただ、子どもの学校行事のついでにママ友に打ち明けたら、お互い意外と平気でいられました。そうしたら、「なんかもういいや」と開き直ってしまって。その後に大学時代の友達にも打ち明けることができました。その当時、ようやく疾病受容できそうなフェーズだったというのもあるかもしれません。
――疾病受容できたからこそ、人工呼吸器の使用を決意されたのですか。
呼吸を楽にすること、唾液を誤嚥しないために、あらかじめ気管切開だけはしていました。気管切開をした後も毎日忙しすぎて、人工呼吸器を付けることについて悩む暇はありませんでした。人工呼吸器を付けた方が楽だろうと思い始めたときに、「もう付けちゃおう」とノリで使用しはじめました。疾病受容できたからというよりも、苦しいなら楽な方をとるという考えです。ALSは最後に残るのが眼球運動で、それが止まるとtotally locked in stateと呼ばれる閉じ込め状態になります。もし私にその日が来たら、栄養剤の注入も止めてしまおうと割り切ってはいます。
2012年にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、現在は、目や首の動きで意思疎通を図っている竹田主子先生。臨床現場を離れてからは、医師と患者双方の経験を活かし、医療コンサルティングや講演活動などに注力されています。後編では、その取り組みについてお話を伺いました。(取材日:2019年6月3日)
――現在の仕事内容について、お聞かせください。
現在の仕事内容は多岐にわたりますが、主軸は2つあります。1つ目は、医療コンサルティングです。具体的には、医療過誤、医療事故、死因調査などの弁護をサポートしたり、カルテ翻訳をしたりしています。もともと母と祖父が弁護士なので、医療関連の相談事を受けることはありました。ALSを発症してからは、医師や患者という立場から私にできることが多くあるのではないかと思い、「東京メディカルラボ」を立ち上げたのです。
2つ目は、講演活動。医療介護従事者、医学生、看護学生、福祉関係の学生に向けて講演することが多いです。テーマはALSの啓蒙が多いですが、尊厳死についての意見を求められることもあります。講演活動をするのは体力的に月2回が限度ですが、聴講者からいただいた感想はどれも励みになるものばかりで、やりがいを感じています。
これ以外の仕事や取り組みとしては、介護職の資格の問題作成をしたり、看護学生をアルバイトとして自宅に受け入れて、ケアの方法や声が出ない人とのコミュニケーション方法を教えたりしています。同じ病気で苦しんでいる患者さんを自宅に招いて悩みを聞いたり、生活の様子を見せたりする「ピアカウンセリング」にも取り組んでいます。あとは、時々モデルをすることもあります。
――モデルですか?
「寝たきりの人の気持ちをファッションで盛り上げよう!」というプロジェクトがあり、そのモデルをしています。うちにアルバイトに来てくれていたデザイン系の専門学生が、福祉とファッションをつなげる野望を持っている子でした。アルバイトのわずかな合間に、メイク、ネイル、ファッションと私のことをトータルコーディネイトしてくれて――それをSNSにアップして活動したのが始まりです。呼吸器のホースを装飾してくれたこともありました。私は美容やファッションが大好きなのでとても楽しかったですし、プロジェクトの狙い通り、気持ちが上がりましたね。その子は今春から海外留学をしているので、現在プロジェクトは休止状態ですが、海外でも才能を開花させてほしいと思います。
現在の活動内容は、いずれも自分を必要としてくれていることが実感できて、勤務医時代とはまた違うやりがいと楽しみがあります。今では病気であることを忘れて――というよりも、この生活が当たり前になり、日々普通に生活をしているという感覚です。
――1日のスケジュールについて、具体的に教えてください。
前提として、介護保険が適用される年配の方は、身体介護、身体援助などヘルパーさんが訪問時にやることが決まっています。私のように比較的若い重度訪問介護者の場合は、ヘルパーさんが要介護者の希望することに臨機応変に対応してくださいます。講演活動で外出する場合などは変動しますが、だいたいは次のような流れです。
まず朝9時に日勤のヘルパーさんがいらっしゃるので、お手洗いを済ませたり、食事をしたり薬を飲んだりします。私は疲れやすいので、午前中~正午にかけて昼寝をします。午後3時半頃には、訪問看護師さんがALS治療に効果的とされる点滴をしてくれたり、身体の拘縮を防ぐためにマッサージやストレッチをしてくれます。夕方になると、夜勤のヘルパーさんにバトンタッチをして、食事をとったりしています。この合間の時間に、視線入力装置を使って仕事やインターネットをしています。いろいろなことを助けてくれるヘルパーさんには、常に感謝の気持ちでいっぱいです。心身ともに支えてくださる、なくてはならない存在。付き合いが長いヘルパーさんは気が合う人が多いので、いてくれるだけで楽しい気持ちになりますね。
――ヘルパーさんのほかに、先生の精神的な支えとなる存在について教えてください。
家族ですね。ある時、成長した子どもたちに「ママが病気になって、いろんなつらい思いをさせてきてごめんね」と言ったことがありました。すると、「そんな自己満足のお涙頂戴話はやめてくれよ」と言われたんです。「それもそうだな」と思い、それ以来、子どもたちが私の背中を見て育つように、自分の人生を力強く、かっこよく生き抜くことを決意しました。私は寝たきりで全身麻痺の状態ですし、声を出すこともできません。健康な人からすると、自分がこのような状況になったら「気が狂いそう!」と思うのではないでしょうか。でも、強がりでもなんでもなく、今の私はさまざまな生きがいを持って楽しく毎日を過ごしているんです。周りの人たちとおしゃべりをして、ゲラゲラと笑いながら!
――今後、挑戦したいことについて教えてください。
診療です。これを読まれている先生方の「そんなことできるはずないでしょ」というツッコミの声が聞こえてきそうですが(笑)。神経科学者であるエイドリアン・オーウェンの『生存する意識 植物状態の患者と対話する』という本に“人間の脳は、自らを癒す驚異的な力を持っている”という一節があります。これは、植物状態にあった患者が意識を取り戻した時に、筆者が患者に対して持つ感想です。私がALSになって思うのは、「脳は困難を乗り越え、環境に適応する驚異的な力を持っている」ということ。なので、今すぐは難しいかもしれないけれど、科学が進化すれば、いつか診療に挑戦できるかもしれません。その日を心待ちにしながら、今の私にできること、求められていることに取り組みたいと思います。
もしよかったらおやすみになる前にどうぞ☆
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☆最後までお読みくださりありがとうございました☆
https://ameblo.jp/ayumi-pf/entry-12329781667.html
舞台はオリンピック景気後、転落の一途をたどる2024年の東京。国の財政はいよいよ逼迫、さまざまな治療が保険適用から外されていく。究極の策として浮上したのが、心身共にもう見込みがない人、延命を望まない人はどうぞ死んでくださいという、「安楽死特区構想」だった。小説『安楽死特区』を書いた長尾クリニックの長尾和宏院長に詳しく聞いた。
──昨年NHKで放映された、日本人女性がスイスで安楽死を遂げる番組が大反響を呼びました。「ありがとう」とささやいて穏やかに逝く姿に、モヤモヤしていた「安楽死」という言葉が、現実の形を帯びたような気がします。
彼女を担当した医師とは、私は2回会っています。スイスには安楽死団体が複数あって、数年前に訪問したとき「ここで見たことは日本で話さないでください」と言われました。なぜか。日本人が押し寄せてしまうからです。
日本で安楽死はもちろん認められていません。単なる殺人です。だから今回の件は日本人が外国で殺人事件に遭ったのと同等です。でもそれを扱う法律がない。スイスからしたら、そんなややこしい国から大勢来られたら困るんです。そういう問題を抜きにして、こんな美しい死に方がありました、とNHKがスクープ的に放映した。
『週刊文春』の調査では日本人の8割が安楽死に賛成だった。昨日、大阪で講演したんですが、やはり3分の2の方が安楽死に賛成でした。終了後、若くピンピンした男性に「紹介状を書いてくれ」と1時間つかまりました。元気な今のうちにスイスに渡りたい、と。
──今の日本で老後を考えると何か暗くなる。だったら自分の最期は自分で決めて、楽に死にたいっていう気持ち、正直わかります。
皆さんが憧れてるのは、安楽死じゃなく“安楽な死”。痛くない苦しまない死に方ですよね。それなら、もっと自然に逝ける尊厳死がある。皆さんいきなり安楽死に話が飛んで、ユートピアのように夢想している。でも尊厳死と安楽死はまったくの別物です。
尊厳死は、死期が近く、延命治療でなく自然な経過に任せてほしいと本人が望み、それをリビングウィル、生前意思として書く。そしてモルヒネ等による痛みの緩和に重点を置く。その結果が尊厳死です。安楽死は違います。死期は近くない、本人の希望で元気なうちに医者に“殺して”もらう。
聖路加国際病院の名誉院長だった日野原重明先生も105歳で尊厳死されました。リビングウィルを書かれて延命治療を受けなかった。リビングウィルを書いて尊厳死ができれば、安楽死なんて不要なんです。私はこれまで、在宅医療で1200人以上お看取りした。みんな尊厳死です。尊厳死ならより長く生き、最後まで食べられてお話しができて、苦痛も少ない。
──確かに、発想が一気に安楽死へ飛んでいたかもしれません。
日本ではいじくり回すことが医療なんです。大学病院でもがんセンターでも、尊厳死はできない。全身に管をつながれて最期を迎える。自然死できない、させてもらえない国です。終末期の医療、延命治療で医者が従うのは学会のガイドラインであって、患者本人の意思じゃない。尊厳死ですらグレーの国。けったいな国なんです。
──そもそも、なぜ病院は尊厳死を拒絶するんですか。
本人が一筆書いた場合でも、家族から訴えられるリスクがある。日本はリビングウィルが法的に担保されていない唯一の先進国です。それどころか政府が、リビングウィルは医療訴訟のリスクが増すから「書くな」と言っていました。
それに対し、2年半前に日本尊厳死協会が行政訴訟をしました。その主張が認められ、1審2審と国が敗訴した。そして昨年11月に初めて、リビングウィルを書く行為自体は「悪いことじゃない」と司法が認めたわけです。
──2年半かかってようやく、「書くな」から「書いてもいい」ですか……。でも法律的に認められたわけじゃないんですよね?
ええ、書いてもいいよ、の段階。これでも画期的なんです。法律はハードルが高い。尊厳死のリビングウィルの問題では僕は何回も国会に行ったし、議連や個別に出向いて説明もしてる。
ところが公に議員会館で議論となると、反対派がバーッと入ってきて「人殺し!人殺し!」と封鎖されてしまう。議員には脅迫メールが来る。少し前向きな発言をしただけでもアウト。みんな腰が引けちゃって、今この問題に踏み込む議員はゼロです。子育て支援や年金守りますと違ってこんなややこしい問題、票にならないから。メディアも関心がなく、いっさい報道しない。
──安楽死=医師を介した自殺。でもその前にチョイスがある、と。
そう、チョイスがある。皆さんに尊厳死のことを知ってほしい。
尊厳死の議論が進まないのは、障害者団体、難病団体、宗教団体、弁護士会などの反対があるからです。でも患者さんの意思を尊重するというのは、古代ヒポクラテスの時代から医療の大原則。これは人権であり幸福追求権です。8割の日本人がベッドの上で最期まで点滴を受けて、溺死させられる。
溺死じゃなく枯れるということ、自然な脱水を容認する文化、そちらのほうが最期まで自分らしくあり続けられる。アナウンサーの小林麻央さんも最後まで食べて「愛してる」と言って死んだ。プロ野球の星野仙一さんもおせち料理を食べて、自分でトイレに行って最後まで自立して亡くなった。みな自宅で尊厳死してるんです。
──死というものが、いつの間にかシンプルじゃなくなった。
チベットでは医者が関わらなくても、翌朝死んで鳥に供えられたら、それで死です。日本は孤独死して3カ月経って腐乱して見つかっても、医者が解剖して検死してどこまでも医療が関わってくる。「延命治療お断り」とリビングウィルカード持って、お断りの入れ墨をして、Tシャツにまでプリントして延命治療を拒否する人もいるんです。それでも医療が入らなきゃいけない。法律がないから。
僕は治すほうの医者でもあります。ただ治すのも限界があって、治らないなら安楽に送ってあげることも医者の仕事だと思ってるんです。それは尊厳死なんです。安楽死を夢見る前に、まず足元を見てほしい。
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