2023年6月29日木曜日

幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(中編)

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幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(中編)

2023年6月29日 18:00

論点:安楽死制度を日本で作っていくことは可能か?

 前回、「安楽死制度を日本で作っていくことは無理だと思いますよ。それは安楽死制度が完全に政治的イデオロギーになってしまったからです」と解説してくれた、写真家で多発性骨髄腫というがんの治療を続けている幡野広志さん。

 今回は、「安楽死制度に医者は関わらない方が良い」というところから話がスタートします。

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西:僕自身は、医者が安楽死制度を触れないようにしたほうがいいんじゃないかなって思っているんです。

幡野:確かに。それをやってしまうと医者の裁量で、患者さんをどんどん安楽死に送ることもできる・・・。

西:そうなんです。決定するのも医者、実行するのも医者、ってしてしまうと、どんどんと医者の側が「安楽死を施す理由」を正当化して、際限なく患者さんを死に追いやってしまってもおかしくないんじゃないかって。

幡野:そうかも。患者が望んでいなくても・・・。

西:そういった危険性がありますよね。

幡野:こないだも、あるがん患者さんと会ったんですよ。そのときが、診断されてから3週間くらいってことだったから一番つらい時じゃないかなって思うんですけど。その方は「がんになる前から幡野さんのこととか知っていたので、意外と平気です」っておっしゃっていたんですけど。でも人によっては、その宣告を受けただけで死にたいって思う方もいますよね。そんなときに短絡的な医者が来て「じゃあ死にましょう」って言うかって話なんですけど。

西:そんな医者、いてほしくないと思いますけど全国にゼロとは限りません。ちなみに、がんを宣告されてから、立ち直っていくまでも人によって様々ですよね。

幡野:がんと宣告されると最初の1か月くらいが精神的に死にたくなるほどつらいんですけど、そこを抜けて、死までの長い時間がどういうものになるかって人それぞれなんですよね。

「がんになってもこれで良かったんだ」って思える方もいれば、世の中を呪いながら最期を迎える人まで様々。

その差って結構大きいと思うんですけど、健康だったときに人生に満足できていた人とそうでない人で変わる部分もありそうだとぼくは思っています。

がんになっても自分らしく生きるという言葉は大事だけど、がんになった時点でじつはもう遅いんですよね。

「元気な時にこうしておけばよかった」って後悔を抱えるがん患者さんにたくさん会いましたよ。いま、健康かもしれないけど日々を不満足に生きている方々が、20年後とか30年後にがんになって大変な治療をしたり、治療のすべもなかった場合「死にたい」って思っても安楽死制度が無くて大変な思いをするんじゃないかなって気はします。。

西:そうだとしても医者は、そういうつらいときに「でもこういうことができます」とか「こういう道があります」って、気休めでもいいからきちんと告げていくことが役割なんじゃないかと思っているんです。

患者さんたちを見ていると、生きていく中での選択肢が狭まっていくのがつらそうに見えるんですよね。そのときに「これができます」って医者の言葉を信じられるかどうか・・・っていうのはありますけど。もちろん、それに対して患者さんが「いや、先生はそんな風におっしゃいますけど・・・」って否定的に思うのは患者さん側の自由じゃないですか。でも一方で、「いや安楽死制度って楽になれる方法があるんすよ」って医者が言い始めたら怖いんじゃないかと思うんですよね。

幡野:それは怖いっていうか普通にダメですよね(笑)。

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西:ただ、実際に緩和ケア科に紹介されてくる患者さんを診ていて、「なんでこんなに早く諦められているの」って方を結構見るんですよ。

幡野:それは患者が諦めている、ってことですか・・・?

西:いや、医者が諦めているって意味です。「あなたはこんな状態だったら、もう抗がん剤やっても苦しいばっかりだし、緩和ケアで診てくれるいい病院があるから、そちらに紹介しますね」とか言われて、送られてくる。でも、僕から見たら「なんでこの方1回も抗がん剤されないで諦められてるの?」って思う方がちょくちょくいるんです。確かに、このまま何もしなければ2~3か月くらいしか生きられないと思うけど、でも若いし、ただ単にがんが進行していることで具合悪くなっているだけだし、ワンチャン抗がん剤が効けば、復活する可能性もあるんじゃない?って。実際、いま僕の外来に通われている方の中にも、そうやって諦められていたけど、抗がん剤治療やったことでメキメキ元気になって、体から癌が全部消えて、もう抗がん剤しなくても済むようになった方も何人もいるんです。

幡野:それはすごいな。

西:もちろん、改善する見込みの乏しい状態で治療をさせ続けるっていうのもどうかとは思いますが、見切りが早すぎるのも。だから、こんな医者もいる中で、片方の手では「抗がん剤治療もありますよ」って言う一方で、もう片方の手で安楽死制度も取り扱うなんていうのは、絶対に全国一律にはならないって思うんですよね。オランダの家庭医システムのように、若いころからずっとその患者さんのこと診ているって中で、「あなたとは長い付き合いだけど・・・」って前提で始まるならまだしも、日本の医療システムみたいに医者と患者の付き合いがめっちゃ短い中では、患者さんを目の前にして「初めまして。抗がん剤をしますか、それとも安楽死にしますか、どうしますか」、なんてやっていくのはかなり難しいと思います。

幡野:西先生の考えでは、実行も医者以外がすべきということですか?

西:いや、実行は医師免許を持っている方がやらざるを得ないでしょうね。薬物の取り扱いを含め、医師以外が安楽死を実行するとなると法律を変えないとならない部分が多いのではないかなと思うので。裁判所の命令書を受けて、医者が実行するって感じになるのかな。

幡野:でもやっぱり、どこまでいっても政治的イデオロギーになってしまうんじゃないかと思いますよ。誰しもが、黒ひげ危機一髪の最後のナイフは刺したくないわけで。医者側としては、今夜を気持ちよく寝るためには、そんなことはせずに患者が医者に感謝して文句も言わずに死んでいってくれた方が丸く収まりますよね。

西:そうなんですかね・・・。でも確かに、政治家を動かすのは難しいかもしれないですよね。

幡野:この数年間の安楽死を延命治療の医療費と結びつけたコスパ的な議論のせいで、安楽死問題がイデオロギー化してしまったのは本当にもったいないと思うんです。延命治療をコスパじゃなくて尊厳や倫理で議論するべきだった。

イデオロギー化したツケを払うのに、少なくともこの数年ではまず無理。20年後、ワンチャンあるかなってところ。

基本的に死を否定することがポリコレとなって社会正義になってしまった。健康な人たちにとっては、安楽死なんて無いほうが気持ちよく眠れますって。

だから、こんな状況にもかかわらず緩和ケアの医師たちによって「鎮静なんてとんでもない」といって、医師の気まぐれで鎮静の運用がバラバラになってる場合じゃないと思うんです。

西:そうですね。だから僕としては、少なくとも現在の状況の中で、患者さんの人権がきちんと守られるって社会にしたいなと思っているんです。人権運動の一環として、安楽死制度を求めていくっていうところが現実的なのかなと。

幡野:安楽死って倫理の話のはずなのに、コスパで語られてしまう部分が多いのも問題ですよね。

「人は苦しみながら死んでいいのか」とか「本人の希望ではなく、家族と医者の判断で人生を決められて良いか」とかの話の先にあるはずなのに。

人権って切り口で行くのは確かに良いと思うのですけど、どうやっても政治の問題に行きついてしまいそうな気がしています。

どうがんばっても治らずに、死を待つしかない人がいる。本人が望んでいない延命治療をすることって正しいんですかね。

だからやっぱり「20年後とかに、ようやく議論スタート」ってくらいじゃないですか。

(後編に続く)

2023年6月23日金曜日

幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(前編)

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幡野広志さんに聞く~安楽死制度を議論するための手引き09(前編)

論点:安楽死制度を日本で作っていくことは可能か?

 これまで、この連載では安楽死制度を議論するために、どういった考え方をすればよいのか?について連載を続けてきました。

 そんな僕に「安楽死制度を日本で作っていくことは無理だと思いますよ」とご意見をくれた方がいます。
 それは、写真家で多発性骨髄腫というがんの治療を続けている幡野広志さん。

 以前は、「日本でも安楽死制度を作るべき」と話されていた幡野さん。『だから、もう眠らせてほしい(晶文社)』でも対談しましたが、この3年間で考え方がどのように変わったのか、そしてどこが変わらないのか?幡野さんの真意を確かめるべく、お話を伺いに行ってきました。

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西:あ、ご無沙汰してます~。

幡野:すみません、遅くなって。道に迷ってしまって。

西:大丈夫ですよ。もう注文してますから、ゆっくり食べながら話しましょう。
※この収録は川崎市内の天ぷら屋さんで行いました。

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西:では、さっそくですけどなぜ日本では安楽死制度はできないと思うのでしょうか。

幡野:本来、安楽死って医療行為の先だったり、緩和ケアだったり、がん患者やALSの先にあるはずだったけど、完全に政治的なイデオロギーになってしまいましたよね。だから無理だと思う。

西:政治的イデオロギー。

幡野:そう。安楽死がポリコレになっちゃって、生きることが社会的な正義で安楽死は社会悪って風潮ができあがってしまったように感じるんです。実際に、苦しんでいる患者さん、安楽死を求める患者さんはいるけれども、そういった方々のために議論していくわけではなく、「社会的な弱者が安楽死によって死に追いやられてしまう」って捉えちゃう。政治的な正しさとしては「その命を救おう」ってしてしまいますよね。

西:なるほど、「命を救おう」って言った方が、政治的には正しいから支持されやすい・・・。

幡野:仮に、与党議員が法制度化を提言したり、厚労省が「議論しましょう」とか言っても、政治も社会も反発が起きますよ。なので、制度を成立させること自体が困難なのではないかと思うんです。安楽死に反対するのが正義なんだと思います。

西:なるほど。

幡野:だから僕は、少なくともこの20年くらいは無理だと思うけど、いまの40~50代くらいの人たちががんになって、切羽詰まったときに気づくんじゃないかな。僕自身はどちらにしても日本で安楽死は無理だと思っていたから、何かが変わるわけではないけど、これから癌とかになっていく人たちがきついんじゃないかなと思う。

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西:僕は医療の現場を見ていて思うんですけど・・・「自分も、年取るんだよ」って。それが、そのように想像できない人たちがたくさんいるというか・・・永久に健康でい続けられるって思っているんじゃないかって。それが不思議なんですよね。

幡野:やっぱり、人はその状況にならなければわからないんじゃないかなって思いますよ。

西:うん。まあ・・・そうですかね。

幡野:僕、去年の秋に盲腸の手術したんですよね。それから半年くらい経つんですけど、今でもときどきお腹に激痛が走るんですよ。新幹線の中とかでドクターコールした方がいいんじゃないかってくらい。それで、おかしいなと思って主治医に相談したんですけど、そしたら「腫瘍が骨に転移していて、それで痛みが出ているのではないか」って言われたんです。それで1か月くらいかけて検査してみたんですけど、結果的に腫瘍は無かったんですね。それはよかったんですけど、僕もこの病気になって「いつか骨に来る、そしたらお終いだ」と覚悟はしていたつもりだったんですね。でも、実際にその状況になってみると、この1か月間不安で不安で仕方が無かった。だから、こんなこと言うと身も蓋も無いですけど、やっぱり病気になってみないとわからないんじゃないかなって。

西:検査の結果出るまでは、患者さんたち皆さんつらいっておっしゃいますね。

幡野:健康な人たちは「健康」という安全圏からものを見すぎなんですよ。自分が癌になという視点ではなく、癌の人を看取るって視点になっている。僕は病気になって親類縁者と縁を切りましたけど「安全圏からものを見る親族たち」に治療方針を口出されるのが、みんな怖くないのかなって思いますもん。
医療的なパターナリズムって、今の時代だいぶ少なくなってきたと思いますけど、家族によるパターナリズムが強くなっただけであって、患者の人権ってないのが現実かと思うんです。それでもみんな、「自分だけは大丈夫」って自信があるんでしょうか。

西:僕は何か、そういう話になると「意外と医者って信頼されているんだろうな」って思うんですね。仮に病気になったとしても、お医者さんがきっと何とかしてくれる、って信頼。うちらにとってはありがたい話だけど、現実の医者は十人十色ですからね。治療はともかく人生観については。

幡野:その点においては医者ガチャが過ぎるっていう部分がありますよね・・・。病院全体の口コミとかも当てにならないと、よく聞きます。よほど運が良くないと、っていうのがありますね。

(中編に続く)

2023年6月3日土曜日

緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか~安楽死制度を議論するための手引き08-2

論点:緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか

 前回の記事では、緩和的鎮静の定義や最近の考え方などについてご説明しました。
 では今回は、前回の宿題となっていた「終末期と同様な苦痛があっても延命される日本」といったテーマを取り上げましょう。

※以下、自死に関連する概念の記述がございます。ご覧いただく際にはご注意の上、お読みくださるようにお願い申し上げます。

 皆さんは「VSED」という概念をご存知でしょうか。「voluntary stopping eating and drinking」の略、日本語で言えば「自発的な飲食中止」という行為です。つまり患者さんが自分で飲食を止めることで、死期を早めるための方法で、安楽死や医師による自殺幇助が何らかの理由により難しい場合の代替方法として患者自身が選択する場合があります。
 オランダやベルギーなど、安楽死制度が存在する国においても、安楽死を希望する方全員が安楽死を受けられるわけではありません。希望をしていたが適応外とされたり、審査中に死亡してしまうという例もあるということですね。つまり、安楽死の手続きの煩雑さや適応外となった場合に、VSEDによる死を選ぶ人がいるということです。
 2015年オランダの医師708人から回答があったアンケート調査によると、46%がVSEDによる死期の短縮の経験があり、患者の70%以上は80歳以上で、76%は重篤な疾患を持ち、27%はがんであり、77%は日常生活に介護が必要であった方、と報告されました。またVSEDによる死亡までの中間値は7日であり、死亡までの主な症状は痛み、倦怠感、意識障害、口渇でした。
 また、2016年に日本緩和医療学会と日本在宅医学会の専門医の計571人から回答が得られた調査では、185人(32%)がVSEDを実際に試みた終末期患者を診たことがあると報告しています。

 世界的には、VSEDを患者さんが選択した場合に、医師が患者さんに治療(栄養療法など)を強制する方法はなく、よってVSEDを決定した患者の意思を尊重するべきであるという論調です。患者の権利法におけるポジティブ・ネガティブリストにおいても、安楽死は患者の権利法の埒外なので、医師に拒否権がある、という話を以前にしましたが、一方でVSEDはネガティブリストの行使に値するため、患者さんが飲食を止めると判断しても、それを治療する法的根拠が無いということです。

 しかし、VSEDは決して「安らかで楽な死」とはいえません。数日も飲食を止めてしまえば、それに伴う飢餓感と渇きが、猛烈な苦痛として患者さんを襲います。もちろん、それを耐え抜いて死まで至る方もいらっしゃいますが、途中で断念せざるを得ない方も大勢いるということです。
 ではここで考えてほしいのが「VSEDによって死に至ろうとする患者さんが感じている苦痛は、終末期における耐えがたい苦痛と判断してよいか」という命題になるわけです。

 日本という国は不思議なことに、終末期になって延命治療を拒否する、という状況であっても、結果的に延命となる治療を選択するパターンがとても多いです。例えば「認知症の終末期で、寝たきり。周囲も介護できず、床ずれがたくさんできている。もうこれ以上の治療は望んでないが、でも、点滴はずっと続けてほしい」など。もちろんそこには本人や家族の感情的な面があるので、終末期に点滴を続けるかどうかといった点にはまた別の議論は必要なのですが。

 では話を戻して、VSEDによって死に至ろうとする方に対し、「その方が感じている苦痛=終末期における耐えがたい苦痛」としてしまってよいか、の話です。VSEDを選択した時点で、残されている余命は、栄養さえきちんと取ることができれば半年以上はあるとしましょう。つまり適切に治療・療養すればまだまだ生きられる、という状態なわけです。しかし、このまま放っておけばおそらく1~2週間で死が訪れるでしょう。なので、これは終末期である、と解釈することも可能です。

 そう考えていくと、VSEDにおける飢餓感などの苦痛は「緩和的鎮静」によって緩和するべきではないか、という視点が生まれてきます。
 日本においては「治療可能な状態が残っている以上は終末期ではない」といった意識が根強く、誰が見ても明らかに終末期、と思われる事態以外に緩和ケアが適応されない(適応しようという意識が無い)といった問題があります。最近になって、がん以外の「心不全の緩和ケア」などの概念がきちんと提唱されるようになったは、こういった意識からの脱却をめざすといった側面もあるのです。
 つまり、VSEDについても治療さえすれば長く生きられるのだから、そこに緩和ケアを適用するのは間違いである=緩和的鎮静の適応にならない、といった考え方が日本ではスタンダードになりがちということです。

 さて、ここまで見てきたところでようやく話は「子どもの安楽死は認められるか」まで戻るのですが、この項で僕は

「緩和的鎮静」が日本において適切に運用されているかどうか、という懸念がある点で、その問題をどうとらえるかによって今回の③のケース(未成年かつ本人の意志が最初から確認できない場合)の安楽死制度適応も認めるか認めないかが変わってくるのではないかと思います。

と書きました。つまり、「終末期におけるあらゆる苦痛は、適切な緩和ケアによって取り除くことができるはず」という前提が、このVSEDにおける日本の現状意識を考えたときに、揺らぐ部分があるということなのです。
 つまり、患者本人が未成年で、本人の意思が最初から確認できない場合(例えば脳性まひなど)で、家族から見れば明らかに「耐えがたい苦痛」があるとしましょう。しかし、その方は栄養療法さえ続ければ少なくとも10年単位で生きながらえることが可能な「いのち」です。医師から見れば、その生命維持を何らかの方法で止めるなどあってはならない、と考えるが普通でしょうし、医師なら当然そう考えてほしいところです。しかし、家族の側で「この子の生命維持に関するものを全て止めてください」との申し出があった場合にはどうするか。昨日まで「10年単位で生きられる」はずだったいのちが、今日には「あと数日」のいのちになってしまう。そんな状況に手を貸せる医師がどれくらいいるだろうか?という懸念があります。それはすなわち、「仮に家族が勝手に生命維持を勝手に中止したとしても、それに伴う苦痛についても医師は協力しない(生命維持の処置を戻せばその苦痛も取れるのだから)」ということを意味しており、結果的に患者さんは生かされる、という道を選ばざるを得なくなるでしょう。

 ここで「だからこそ、安楽死制度が必要だ」と考えるか「いや、だからこそ安楽死制度を作ってはならない(少なくともこういった子どもに適応してはならない)」と考えるかが分かれ道だと思います。
 結局のところ、緩和的鎮静は、終末期における医療行為のひとつであり、医者が終末期と判断しなければそもそも適応とならないし、代替手段がある場合も適応と言えません。あくまでも「医者が主導する行為」です。
 一方で安楽死制度があれば、そういった医師の解釈は必要なく、「緩和ケアを受けても苦痛が緩和されず、余命が限られた」状態と判断され、死に至る可能性を患者家族が自ら選択することが可能になります。

 僕個人としては、医療行為に分類される行為を、患者さんや家族の求めがあったからといって、その適応を無視して施すというのは厳に慎むべきと考えています。緩和的鎮静も、患者さんの求めに応じて行うことを良しとするのであれば、その適応範囲は限りなく広がっていき、それはイコール「安楽死の代替」になし崩し的になってしまいます。だから、あくまでも緩和的鎮静は医療行為で医師に専決権があるもの、安楽死制度は患者さん側に専決権があるもの、と分けて考えた方が良いと思っています(もちろん、どちらも双方に相談が必要なのですが)。

 ただ一方で、VSEDや、治療中止を求められた場合の患者さんについて「それは終末期である」と解釈し、緩和的鎮静を含めた緩和ケアが適応となるべきか、といった視点はきちんと議論すべきです。患者さんの自己決定権は尊重する、としたうえで「その自己決定によって苦痛に苛まれたとしても自業自得である」から医者として手を差し伸べないのは倫理的に正しいでしょうか?
 どんな生き方であっても尊重されるし、死に至る前に苦痛を感じずに済むのは本人の人権を守ることである、といった世界が緩和ケアによって確立されないなら、やはり安楽死制度があるのがベストである、という結論になってしまうのだと思います。

★VSEDに対する支援
アメリカのCompassion & Choicesという支援団体、オランダ王立医師会やアメリカ看護協会では、VSEDを実行する患者の治療やケアの方法が紹介されています。
Compassion & Choices:https://www.compassionandchoices.org/
アメリカ看護協会:https://www.nursingworld.org/
※それぞれ「VSED」でサイト内検索することでページにアクセス可能
オランダ王立医師会:「KNMG Royal Dutch Medical Association and V&VN Dutch Nurses’ Association Guide」で検索することでPDFがダウンロード可能

https://note.com/tnishi1/n/nb0b22a27349d

2023年3月4日土曜日

逆算で考える~安楽死制度を議論するための手引き06

逆算で考える~安楽死制度を議論するための手引き06

西智弘(Tomohiro Nishi)
2023年3月1日 22:23

論点:安楽死制度実現までのロードマップを描けるのか?

 昨年の5月から、この「安楽死制度を議論するための手引き」の連載を続けてきましたが、ここでもう一度改めて、この連載が目指す方向がどういったものだったか振り返っておきましょう。

安楽死制度の話題が出るたび、「もっと議論を深めるべき」「いまの日本では時期尚早」という結論が繰り返されるが、「では具体的にどのような論点で議論を深めるべきか」「いつになったらその『時期』が来るのか」について言及された記事、ましてや具体的にその議論を進めるためのステップについて述べられた記事はほとんど見ることは無い。

「苦しみの全てをゼロにできるのか~安楽死制度を議論する手引き00」より

 みんな、ゴールを妄想するのは得意なんですよね。
「○○大学に合格したい」
「女の子にモテるようになりたい」
「豪邸を建てて優雅に暮らしたい」
 この延長線上に
「安楽死制度が日本でも認められるべき」
 があるように僕は感じます。

 例えばあなたが高校1り、求めているゴールにいつまでたってもたどり着けないのです。

 では、そのように逆算をして考えていったとき、僕たちがまず成し遂げるべき地固めの要素は何なのか?について、『安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素』などを連載として述べてきたわけです。

 このような、丁寧な議論はとても地味で耳目を惹かず、またゴールまでの全体像が頭に入らなければ、「いま議論していること」がどのようにゴールに結びつくかイメージできないため、「理解できた」知的興奮も得られないでしょう。

 何度も似たような議論が繰り返されることで、無限ループに陥ってしまう感覚もあるかもしれません。ここは、議論を進めていく中で「○○宣言」や「○○声明」といったマイルストーンを示すことで議論の繰り返しを予防することができます。「○○声明」と聞くと、多くの方には「お偉い方々が自身の功績を誇示するためのパフォーマンス」と見えるかもしれませんが、「全体の議論の道のりはわかった、そのうえで私たちはここまでは議論した」を示せる重要なものなのです。よって、もし時間を空けて改めて安楽死制度について議論しようという流れになった場合、「5年前に○○宣言が出されて以来、着々と重ねられた議論によって昨年××声明が出されましたね。では今日は、××声明で採択されたが不十分であった内容についてさらに議論をすすめ、少なくとも1年後には新たなマイルストーンを採択したい」と、既に議論済みの内容については「××声明の内容、当然知ってますよね?この分野に関わってきたんだもんね。じゃあ今日はその続きからいくから」とでき、大幅に時間が省略できるのです。

 安楽死制度も、日本で本気で進める気があるのであれば、ゴール部分のところばかりを主張してはいけません。制度実現までの全体像をまず提示いただき、「今回はここまでを議論して、××声明を1年後に採択すること目標にする」といった進め方をしていくことが必要なのではないでしょうか。


https://note.com/tnishi1/n/n45c058665d2e

2023年2月4日土曜日

安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き05(第2部)

安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き05(第2部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2023年2月4日 08:00

 今回は「新しい人権」についての話です。
 前回は「死の権利」が新しい人権として認められるかどうかが問われる、と書きはしましたが、実際に法的根拠をもって「死の権利」が新しい人権となれるかは、かなり困難な道と言わざるを得ません。


 日本国憲法が成立して以後、「新しい人権」として法的に認められた人権は、4つあるそうです。 内容は、こちらの行政書士さんのブログからです。

判例上、「新しい人権」として認められた権利にはどのようなモノがあるのでしょうか。それは、いままで、4つあります。
(肖像権)
容ぼう等をなんでもかんでも撮影されない権利
(名誉権)
人がなんでもかんでも名誉を害されない権利
(プライバシー権)
私生活をなんでもかんでも公開されない権利、自己情報をコントロールする権利
(自己決定権)
個人が一定の指摘事項について、公権力による干渉を受けずに自ら決定する権利
の4つです。

※読みやすいよう一部改変しています

 逆に言えば、「新しい人権」として認められたのはこれまで4つしかないのです(ちなみに、平成29年に衆議院に提出された資料:衆憲資第94号では、新しい人権として最高裁が真っ向から認めたのは、プライバシーの権利としての肖像権くらい、と記載がされています)。

 それだけ厳しいのは、この「新しい人権」として認められるのにいくつかの条件があるからですが、そのひとつ「一般的であること」が安楽死制度を進めていくには壁となるかもしれません。

特定の人にしか認められないようなものは、憲法上の権利とは認められないということになります。普遍性をもっていなければならないということになります。
たとえば、嫌煙権は、タバコを吸わない人にとっては大切な権利とはいえますが、タバコを吸う人には認める必要がありません。したがって、嫌煙権は、一般的な権利ではないので、まだ憲法上の人権としては認められないと言うことになります。

 この原則にのっとるなら、「死の権利は、普遍性をもっているか?」を具体的に議論していかなければなりません。

個人的信条ではなく根拠をもって議論する

 ちなみに、ちょっと本筋からずれてしまうのですが、こういった方向性こそが「個人的信条ではなく根拠をもって議論する」ことです。単に「死の権利は認められるか?」とテーマにしてしまうと「認められるべき(と私は考える)」「認められないはずだ(と私は考える)」の応酬となってしまい、何ら具体的で建設的議論にならず、時間の無駄です。
 それを「死の権利は、普遍性をもっているか?」まで落とし込み、さらにこのブログ内容にあるように「タバコを嫌う権利に普遍性は無い=新しい人権としては認められない」という前例まで示されることで、議論をする中でイメージがしやすくなります。もっとも、最終的には裁判所が判定することではありますので、一般の議論で白黒をつけても社会的に大きな意味は無いのですが、国民的議論を深めておくことは、それが普遍的人権として認められるかどうかのポイントとなりそうですし、またこのような議論の中から新たな視点も生まれてくる可能性も高いため、安楽死制度を前に進めるためには避けて通れないテーマかと思います。

死の権利には普遍性があるか?

 さて、では具体的に「死の権利は、普遍性をもっているか?」についてですが、先に述べたように「嫌煙権は、憲法上の人権とはいえない」という前例があるところから、それに普遍性があると主張することはかなり難しいのではないか、と感じてしまいます。
 タバコを嫌いな人もいれば、好きな人もいる。だから、嫌煙権をある特定の集団のためだけに法的に保護を与えるとするなら、逆の立場の側の人権が阻害されてしまう、という理屈なのでしょう(この辺りは僕自身が法律の専門家ではないため、詳しい方がいらっしゃればコメントください)。
 その理屈で行くなら、「死の権利」を人権として認めてしまえば、「死を求める人たち」にとっては利益になるでしょうが、「生を求める人たち」にとっては害となるリスクがある、ということになるのでしょう。実際、安楽死制度反対派が、その制度化に強く反対する理由で一番強く主張されるのは、この部分であったりします(ただ、安楽死制度反対派のこの点に関する主張は極めて感情的・個人的見解に近いものであることが多く、制度化をテーマにしている以上、人権・法的基盤に則った議論を展開してもらいたいものだとは思います)。

 しかし一方で、この理屈はよくよく考えるとおかしい、と指摘することも可能です。それは人生を個々で見たときに、ある時には「生を求める権利」を享受したとしても、同じ人間がまた別の時間では「死を求める権利」を主張することはあり得るからです。今現在、例えば2023年2月という時間軸で世界を切れば、確かにそこには「生を求める人」と「死を求める人」がいて、その求める権利は対立しているように見えるかもしれません。しかし、また別の時間軸で世界を切り取れば、さっきの時点で「生を求める人」は死を求め、「死を求める人」は生を求めているかもしれません。同じ人間の一生の中で、生を求める権利と死を求める権利が混在する可能性がある点から、「死の権利は普遍性を持っている」という主張は可能かもしれません。

 また、別の切り口で「死の権利」を主張するなら、それが仮に憲法が規定する新しい人権として認められないにしても、「幸福追求権」の結果としての個別の人権として認められる可能性はあることです。
 死を求める人の主張は、厳密には生を求める人の権利は阻害しないはずですし、そのように制度設計や文化形成をしていくことは不可能ではないはずです(文化をコントロールすることは難しいことではありますが)。それであれば、安楽死制度を運用していくことは、憲法13条が保証する「自由及び幸福追求に対する国民の権利」の表現であり、それは「公共の福祉に反する」ことも無く、また「生命の追求と尊重」については例えば「人の生命とは、個々人が感じる生活の質×時間で表現される全体であり、生きている時間を延ばすことは生命の尊重の一端でしかない。また生活の質についてはあくまで個人の体験する世界内での情動に依るものであり、客観的事実はそれを左右することに寄与しない」などと主張することは可能かもしれません。要は、「生きたいと思う人たちの権利は何も棄損しない。その代わり、死を求める私たちの権利も侵害しないでほしい」という、しごく当然の主張なのです。

夫婦別姓制度や同性婚制度の行く末が、安楽死制度の第一歩

 今現在の日本の状況を見ていて、似たような構造の問題にぶつかっている社会課題に、夫婦別姓制度や同性婚制度があります。
 それぞれの問題で権利を主張する当事者は、既存の権利を享受している集団とは別であり、「これまでの権利を求める人たちの権利は何も棄損しない。その代わり、新しい権利を求める私たちのも侵害しないでほしい」という構造であるはずなのですが、これらに反対する人たちは「社会が大きく変革される」「これまでの制度の根幹が揺らぎ、多くの国民に影響を与える」など、根拠の不明なお気持ち表明で逃れようとし、そしてまたその主張が通ってしまうという状況が続いています。

 僕自身は、人の生命に直接的に関わるわけではないこれら制度について、建設的な議論が形成される道筋が立って行かない限り、最高法益である生命に寄与する安楽死制度は、その実現のスタートラインにすら立てないと見ています。


 反対派でも、賛成派でも良いのです。
 どうすれば、お互いの利害を調整し、きちんとした科学的・法的根拠をもって建設的議論へ導くことができるのかという前例を育てていかなければ、この国はいつまでたっても偉い人たちの感情に左右され、国民である自分自身が困った事態に陥った場合でも理不尽さに泣き寝入りするしかなくなります。
 僕自身は何度も言うように、安楽死制度が作られることに賛成ではありませんが、根拠に乏しい感情に依った議論がまかり通るのはもっと嫌なのです。

※この連載は、公開から1週間は無料です。その後は有料購読または定期購読マガジン「コトバとコミュニティの実験場」への登録でいつでも全文をご覧いただけます。この機会に、ぜひマガジンへのご登録をお願いします。

陳情書素案の文章をclaudeで整理してみました。

こちらのブログで紹介していた陳情書素案の文章をclaudeで整理してみました。 社会的弱者目線の包括的で徹底的な保護政策であることが読み取れると思います。 原文と合わせてご確認いただけると嬉しいです。 〈原文〉https://shinokenri.blogspot.com/202...