2022年12月17日土曜日

安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き04(第1部)

安楽死を行うのは誰か~安楽死制度を議論するための手引き04(第1部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2022年12月17日 17:37

論点:安楽死を実行/介助する資格を全国の医師全員に認めるべきか

 安楽死制度が実現した場合の運用を考える際、「誰が安楽死を実行するのか」の問題が常に付きまといます。
 海外においては、基本的に医師が実行(処方)する運用ですが、やはり医師によって「私は自らの患者に安楽死を行うことを拒否する」方もいるようです。

おそらくは日本においても、安楽死制度の運用が開始された場合に、それを積極的に行っていこうとする医師はかなり限られてしまうことが予測されます。日本ではこれまで、医師だけでなく市民の間でも「1分1秒でも長く、命を永らえさせること」が重視されており、それに添うような実践や教育が行われてきたためです。最近になってようやく、緩和ケアや個人の尊厳の名のもとに、治療を差し控える(消極的安楽死)が許容され始めていますが、それはあくまでも自然死を邪魔しない範囲で、さらに寿命が1か月前後に限られていると予測される場合に限定されています。それ以上の予後が残っていると予測される場合で、意図的に治療を差し控えることは医師の感覚からは強い反発を生む場合がほとんどでしょう。
 さらに、「余命が1か月程度に迫っていて、治療による延命効果が見込めない」ことが医学的にわかっていたとしても、「せめて点滴くらいは」「せめて○○の薬だけは」と、医療行為を継続してしまうこともまだまだ多く認められます。「治療の差し控えは許容され始めている」とは言っても、全ての治療行為を引き上げて、「何もしない」状態にすることには耐えられない、という医療者がほとんどなのです。そこにはやはり、「患者さんに苦痛を与えるような治療は控えるけど、そんなに負担がかからない治療なら、それをすることでもしかしたら少しでも良いことがあるのではないか・・・」という医療者に課せられた「呪縛」のようなものが見えてしまいます。

このように、「治療の差し控え=自然死」を、本人含め皆が納得しているにも関わらず、何かしたがる医療者が大多数、という構造の中で、「意図的に寿命を短縮する」安楽死制度に積極的に加担する医療者が多いはずがないのです。
 もちろん、10人に一人ぐらいは、(それが不本意であったとしても)安楽死制度の運用に関わろうとする医師もいるでしょう。しかし、その医師が「公平・中庸」の思想を持っている医師かという保証はありません。「1分1秒でも命を永らえさせる、そのためには患者が苦しもうが何でもする」という思想の医師が極端である一方で、反対側の極端には「苦痛がある患者にはすぐに安楽死制度を適用すべきだ」と考える医師が出てきても不思議ではありません。そうなってしまうと患者さんは、担当になった医師によって大きく寿命が変わることになってしまいます。もちろん、現在においても担当医の力量などによって、患者さんの寿命に差が出ることは否めませんが、多くの分野において「標準治療」があり、それを規定したガイドラインなども整った現代においては、それほど大きな差にはならないはずです。しかし、安楽死制度の運用が、各医師の「思想」に依ることになってしまうと、本来であればもっと生きられたはずの人が「安楽死制度の適応」とされて・・・という例が頻発する恐れがあります。

安楽死制度を運用する資格

 もちろん、安楽死制度を運用するための条件を厳格に定め、担当した医師の「思想」が容易に入り込めないようにする方法はあります。しかし、少なくとも日本において、医師が下した診断や処方のもつ権限はかなり強い法的効果をもっており、また社会的にも医師が「この苦痛は緩和困難にて、安楽死制度適応が妥当」として患者さんや家族に説明を行った場合、その方針を覆せる方は多くはないでしょう(そもそも説明が巧みであれば覆そうという気にすらならないだろうし、実際にいま苦痛がある中で「苦しくてもこのままが良いです」と言える患者さんはごく少数でしょう)。

実際、宮下洋一さんが書かれた『安楽死を遂げるまで(小学館)』でも、担当となった医師によってその決断が大きく左右され、結果的に何十年も寿命が変わってしまった患者さんの例が紹介されています。

(安楽死に反対するある医師の発言)
「誰もが罹患する可能性のある糖尿病を例にとってみましょう。この病は生活習慣病の延長線上にありますが、ひと度インシュリンの投与を止めれば、即、余命は半年程度に縮まってしまいます。そうすれば、患者は末期として扱われ、たちまちオレゴンでは自殺幇助の対象となります。法がある限り、住民にとって自殺幇助は遠い世界の話ではありません。(中略)治療を断った時点で、末期になるのです」
「(安楽死の)推進派は、医学の発展に反する行為をしていると思います。彼らのサイトには、薬物治療の拒否を患者に促すマニュアルさえある。彼らは、患者が死を選択するように操っている、いわば、洗脳しているんですよ」

宮氏洋一『安楽死を遂げるまで』より。()内は筆者追記。

 完全に客観的指標に則ってしか、安楽死制度が運用できないようにできるならまだしも、人間の「思想」や「人生観」、また「苦痛」という測定不可能なパラメータを、この制度の運用に用いなければならない以上、恣意的に患者さんの寿命が大きく左右される可能性は排除できないでしょう。

それであれば、医師に対し、その思想や能力を客観的に評価できる指標を作成し、適性があると認められた医師にのみ「安楽死制度を運用する資格」を与える、とするのは一案かもしれません。要は、思想的に偏りがある医師や、逆に、絶対に安楽死制度に関わりたくない医師にはその資格を与えないということです。
 資格化することによって、医師は担当している患者さんからの「私に安楽死制度を適用してほしい」との訴えを「資格を持っていない」と断ることができるため、無用な葛藤に悩まされることが少なくなるでしょうし、また、簡単に簡単に患者さんを死に追いやってしまうような傾向のある医師を排除することにもつながるでしょう。

 ただ、資格化することによって、ただでさえ全国的に少ないと予測される「安楽死制度を運用できる医師」がますます希少になります。もしそれぞれの地域で「安楽死制度を使いたいけど、今の主治医は資格を持っていない。どこの誰に相談すればいいのかわからない」という問題が生じないように、資格を持つ医師の情報は広く開示されるべきですし、その情報の周知も行う必要があるでしょう。
 また、オランダのように「安楽死デリバリーチーム」を地域の中に作るのも必要になるでしょう。
 オランダは家庭医療の発展している国で、安楽死制度を利用する場合も基本的にはその家庭医(かかりつけの主治医)に相談し、実行してもらうことになるのですが、やはり医師の中には安楽死制度を運用することを拒否する方もいます。その場合に、この「安楽死デリバリーチーム」に連絡をすれば、主治医の代わりに安楽死制度の手続きを進めてくれ、そこに所属する医師が実行もしてくれる、という仕組みがあります。

 本日の「論点」について、皆さんはどう考えましたでしょうか。もちろん、諸外国のように全ての医師に安楽死制度を使わせる運用もありだと思いますし、患者さんが希望した場合に各医師が拒否ができないようにする運用方法を考えるというのもありかもしれません。
 ただ、次に考えるべきは「そもそも安楽死制度を運用する上で最も適した職業は医師であるのか?」という点です。次回は、その点についてまた論点を考えてみましょう。

※この連載は、公開から1週間は無料です。その後は有料購読または定期購読マガジン「コトバとコミュニティの実験場」への登録でいつでも全文をご覧いただけます。この機会に、ぜひマガジンへのご登録をお願いします。


https://note.com/tnishi1/n/n7156a51177e1

2022年11月7日月曜日

安楽死と余命の関係~安楽死制度を議論するための手引き03(第2部)

安楽死と余命の関係~安楽死制度を議論するための手引き03(第2部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2022年11月4日 20:03 

論点:安楽死制度に「余命要件」「疾病要件」を盛り込むべきか

 さて、前回に引き続き「余命要件」と「疾病要件」を設けることの利点と問題点について考えていきましょう。

 まず、大前提として(再確認ですが)「余命要件」と「疾病要件」を安楽死制度に付与することの最大のメリットは「反対派の数を減らすことができる」点です。

例えば、「安楽死制度を利用することができる人は余命半年以内と診断されたものに限る」とか「がんの終末期と診断されたものに限る」という要件を設ければ、その要件外の事柄を理由として反対意見を述べていた人たちを、議論から遠のけることができます。反対派の声が小さくなることは、安楽死制度を成立させることの近道になるでしょう。


 また、適応範囲を広めにとる(つまり対象者の数が膨大になる)よりは、対象者に最初から制限を設けておいて、「小さく始める」ほうが、制度を円滑に運用する上で楽であったり、制度上のエラーが後々に見つかったとしてもその修正コストも小さく動かすことができます。

 これは、「運用」という点だけから見れば理にかなった選択肢であり、あらゆる商売を考えてみても「小さく始める」ことから開始して試行錯誤を重ねながら徐々に大きく育てていく、というのは常識といえるでしょう。ただ、先に述べたように安楽死制度は人権問題なので、運用のことだけを最優先に考えて良いのか、については分けて考えなければなりません。あくまでも、多方面から制度を考える場合の「視点のひとつ」くらいの意味合いです。


適用外となった集団からの批判へは

 あと、安楽死制度を「余命要件」「疾病要件」で限定すると、逆に「その範囲に入れなかった集団」から必ず批判が出ます。例えば仮に、安楽死制度を利用できる要件を「がんの終末期で余命6か月以内と医師から診断書を交付されたもの」と限定したとしましょう。この場合、がん以外の疾患の方や、余命が半年以上残っていると予測される方には安楽死制度を利用できる道が閉ざされることとなります。実際に、この集団の中に安楽死制度の適用を待ち望んでいた人がいた場合、「このような差別的対応を受けるのは納得できない」と抗議の声があがることは想像にかたくありません。

 ただ、このような「余命要件」「疾病要件」で対象を絞った場合、その対象外となった反対派の方々がいましたよね? なら、そういった抗議の声に対しては、この反対派の方々と議論してもらえばよいのです。
 全ての国民を対象として「よーいドン」で制度を進めようと、完璧な制度を作り上げようと考えるから、いつまでたっても制度化の兆しも見えない。それであれば、全国民を対象とせず「部分的に優先して進められそうなところから」進めましょう、という考えがあってもいい。例えば「がん」「余命6か月以内」の条件下での制度運用は粛々と進めつつ、それ以外の領域については「各々の賛成派・反対派で議論を進めてもらって」折り合いがつく着地点が見つかったら制度に組み入れていく、というやり方もあってもよいということです。

日本における「4要件」は余命要件を求めているが・・・

 ちなみに、日本国内で安楽死制度の運用を考えていくうえで、現在最も法的に有効性のある考えは、横浜地裁が示した4要件、つまり

①患者が絶えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる

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安楽死と余命の関係~安楽死制度を議論するための手引き03(第2部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2022年11月4日 20:03 

論点:安楽死制度に「余命要件」「疾病要件」を盛り込むべきか

 さて、前回に引き続き「余命要件」と「疾病要件」を設けることの利点と問題点について考えていきましょう。

 まず、大前提として(再確認ですが)「余命要件」と「疾病要件」を安楽死制度に付与することの最大のメリットは「反対派の数を減らすことができる」点です。
 例えば、「安楽死制度を利用することができる人は余命半年以内と診断されたものに限る」とか「がんの終末期と診断されたものに限る」という要件を設ければ、その要件外の事柄を理由として反対意見を述べていた人たちを、議論から遠のけることができます。反対派の声が小さくなることは、安楽死制度を成立させることの近道になるでしょう。

 また、適応範囲を広めにとる(つまり対象者の数が膨大になる)よりは、対象者に最初から制限を設けておいて、「小さく始める」ほうが、制度を円滑に運用する上で楽であったり、制度上のエラーが後々に見つかったとしてもその修正コストも小さく動かすことができます。
 これは、「運用」という点だけから見れば理にかなった選択肢であり、あらゆる商売を考えてみても「小さく始める」ことから開始して試行錯誤を重ねながら徐々に大きく育てていく、というのは常識といえるでしょう。ただ、先に述べたように安楽死制度は人権問題なので、運用のことだけを最優先に考えて良いのか、については分けて考えなければなりません。あくまでも、多方面から制度を考える場合の「視点のひとつ」くらいの意味合いです。

適用外となった集団からの批判へは

 あと、安楽死制度を「余命要件」「疾病要件」で限定すると、逆に「その範囲に入れなかった集団」から必ず批判が出ます。例えば仮に、安楽死制度を利用できる要件を「がんの終末期で余命6か月以内と医師から診断書を交付されたもの」と限定したとしましょう。この場合、がん以外の疾患の方や、余命が半年以上残っていると予測される方には安楽死制度を利用できる道が閉ざされることとなります。実際に、この集団の中に安楽死制度の適用を待ち望んでいた人がいた場合、「このような差別的対応を受けるのは納得できない」と抗議の声があがることは想像にかたくありません。
 ただ、このような「余命要件」「疾病要件」で対象を絞った場合、その対象外となった反対派の方々がいましたよね? なら、そういった抗議の声に対しては、この反対派の方々と議論してもらえばよいのです。
 全ての国民を対象として「よーいドン」で制度を進めようと、完璧な制度を作り上げようと考えるから、いつまでたっても制度化の兆しも見えない。それであれば、全国民を対象とせず「部分的に優先して進められそうなところから」進めましょう、という考えがあってもいい。例えば「がん」「余命6か月以内」の条件下での制度運用は粛々と進めつつ、それ以外の領域については「各々の賛成派・反対派で議論を進めてもらって」折り合いがつく着地点が見つかったら制度に組み入れていく、というやり方もあってもよいということです。

日本における「4要件」は余命要件を求めているが・・・

 ちなみに、日本国内で安楽死制度の運用を考えていくうえで、現在最も法的に有効性のある考えは、横浜地裁が示した4要件、つまり

①患者が絶えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる
②患者は死が避けられず、その死期が迫っている
③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替する手段がない
④生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある

ですが、ここでは②において「余命要件」への言及があります。
 ただし、諸外国での安楽死制度では「余命要件」を設けていないものも多く、認知症や神経難病など余命が比較的長い状態での安楽死制度適用も可能となっています。

 さて、この連載は「何が正しいのか」を誌面上で明らかにするものではなく、「論点を整理して議論を円滑とし、制度化についての不毛な言い争いを減らす」ことを目的としています。
 よって、ここで「横浜地裁が示した基準があるから余命要件は必要だ」とか、「いや海外ではそんな要件が無くても運用できているのだから制限は必要ない」と結論づけることはしません。一言、二言いわせてもらえるのであれば、4要件は日本での安楽死制度を議論する際に必ずと言っていいほど取り上げられる基準ですが、これはあくまでも「地裁判決」であって、これ以上の司法判断をされた判例が存在しないために用いられているに過ぎない、といった事実は押さえておいて良いと思います。一方で、海外でうまくできているから日本でもうまくできるはず、というのは根拠としては弱いことも事実です。なので、日本においては全くフラットな視点から議論を立てていく方が健全のように僕は思っています。

 そして、この「余命要件」「疾病要件」は、どちらかといえば実際の運用を行っていくうえでの「枝葉的な」テーマとも言えますが、賛成派の方々にとっては議論を行う上で反対派を封じる手札のひとつとして使えることを覚えておいてほしいのです。それは今後またテーマにあげていきますが「年齢要件」についても同じことが言えます。
 例えば「私の知っている○○病の方の場合は・・・」とか「子供への制度適応は・・・」など、対象者を広げて、または制度化が実現したときに野放図に対象者が拡大していくことへの懸念(いわゆる滑り坂問題)を出して反対派が議論を仕掛けてきたときに「では、その対象者については法的に対象外とするように要件に盛り込みましょう」と返すことで、このような拡散しがちな議論を締めることができます。

 さて、ここまでお読みいただいた皆さんは、この「余命要件」「疾病要件」はあった方が良いと思いますか?


まとめ「余命要件」と「疾病要件」

・「余命要件」「疾病要件」を設けた方が、安楽死制度の実現は多少なりとも「早くなる」効果は見込める。

・一方で、その要件の対象外となる方々は希望しても制度適応とならないため不公平感がある。

・不公平感のみならず、「法の下の平等」に反する恐れがあり、法的にも許容できないかもしれない。ただ、全国民対象にこだわれば制度化は長期化する、あるいは実現不可能となるかも。

・「段階的承認」を容認して、社会的体制が整った集団から漸次的に適応範囲を広めていく、という戦略はありかもしれない。


https://note.com/tnishi1/n/nf7dbfbbb0946

2022年10月11日火曜日

安楽死と余命の関係~安楽死制度を議論するための手引き03(第1部)

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安楽死と余命の関係~安楽死制度を議論するための手引き03(第1部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2022年10月7日 11:30 

論点:安楽死制度に「余命要件」「疾病要件」を盛り込むべきか

 前回まで、「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」、
①緩和ケアの発展と均てん化
②医療の民主化
③患者の権利法
についてお話してきました。

 では具体的に、この3つの要素を日本でどのように獲得していけばよいのか?について考えてみましょう。
 そもそも大前提として、

「安楽死を求めているのは国民の多数派ではない」

 という事実を認識しておく必要があります。
 こう言うと、
「いや、世論調査で安楽死制度に賛成する国民は70%以上という結果もある。安楽死制度賛成派は多数派だ」
 という反論を持つ方もいらっしゃるかもしれません。しかし、その「70%」の中には、

①心から安楽死制度の実現を求めている層
②安楽死制度ができるなら、その結果は受け入れても良い層
③本当はどうでも良い(自分には関係ない)と考えている層

 などが入り混じっています。また、この中に「安楽死=安らかで楽な死であり、それ以外の死=苦痛に満ちた死」と誤解されている結果として「安楽死賛成」となっている方も多く含まれることも事実です。
 これはまた別の章で詳細に議論したいと考えていますが、オランダでも全死因のうち安楽死を利用するのは5%前後、日本の調査でも実際に終末期の状況において緩和ケアを受けながら「それでも死を早めたい」と考えるのは10%程度と報告されており、①の層、つまり「自分ごととして安楽死制度へのニーズがある」方々は全体から見ればマイノリティとなっている構図をきちんと認識すべきです。

 安楽死制度実現のためには、「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」を社会に実装するべく「運動」を行っていく必要がありますが、上記の3つの層のうち、その運動に積極的に参加してくれるのは①と②のごく一部でしょう。つまり、国民の仮に10%くらいが「(狭義の)賛成派」であり、その一方で絶対に安楽死制度実現を認められない反対派もおそらく10~20%程度。そして残りの70~80%はほぼ無関心層。もちろん、この無関心層は広い意味で言えば賛成、となってくれる可能性は高いため「国民的議論になりさえすれば」安楽死制度実現に向けて一気に潮目が変わると思います。ただ、そのための運動をする上で賛成派と反対派が拮抗している現状では、無関心層が動くことは無いでしょう。


少し話がそれますが、そもそも日本ではマイノリティの人権に関して、反対派がそれを侵害し続けていても多数派は何とも思わない、という構図になっている事例が、歴史上現在に続くまで繰り返されています。

 例えばで言えば、同性愛者の婚姻問題や夫婦別姓問題などがそうです。同性愛者や、夫婦別姓を求める方々はマイノリティですが、国民は多くは無関心といえども「別に反対はしない」立場ではないかと思います。ただ、強固な反対派の声が大きく、制度化を求める声と拮抗してしまう結果、潮目は変わらず無関心層が動かされることもありません。

 僕は個人的に、この2つの問題は日本人がマイノリティの人権に対しどういう意識を持っていて、どのように行動するかという点で注目しているのですが、一向に解決に向かわない現状を見ている限り、安楽死制度実現への道も遠いのではないかと思ってしまいます。マイノリティの人権に対し、鈍感すぎるのです。

「安楽死制度実現を求める運動とは、人権運動である」


この前提を共有したうえで、「余命要件」と「疾病要件」の話に移っていきましょう。

時間をかけても適応を広げるか、なるべく早く実現することを優先するか

 これまで述べてきたように、安楽死制度賛成派はマイノリティであり、それを求める運動とは人権運動です。そして、この運動を進めるのにネックとなるのはいわゆる反対派の存在です。
 賛成派と反対派は、おそらく数(発言ベース)の上で後者の方が多く、また社会的権力を握っている層も多いのが現状です。安楽死制度を求める当事者や支援者の声も、時々取り上げられることはありますが、一時的な発信に留まる場合が多いうえ、「両論併記」という形で反対派の意見によって相殺され、無関心層へ訴求する力はほぼ失われています。
 この現状に対して取るべき戦略はいくつかありますが、「反対派の取り込みまたは切り崩し」はそのひとつとしてすぐに思いつくものでしょう。そして、この戦略を採用するためには「反対派」とされる人たちがどのような対象なのかを知る必要があります。敵を知り、己を知れば百戦危うからず、なのです。
 ここで、反対派を「所属する属性」で定義してしまうと、戦略の本質を見誤ります。一般的に「安楽死の反対派」というと、医師や患者団体、またはその支援団体などが挙げられますが、その医師だけ取り上げても全員が一様の価値観を持っているかと言えばそうではありません。安楽死制度に賛成する医師がいることも事実ですし、「条件付きであれば」認めるという医師も多いのです。ここで重要なことは、その「条件付きであれば」の部分を知ることになります。この「条件」を広くすればするほど、反対派と言われる方々は増えますし、「条件」を絞るほど反対派は減ります。つまり、一般的に「反対派」と言われている人たちというのは、その実は流動的であり、簡単に取り崩せる部分をもった集団であるということをまず念頭に置いておくべきです。


そのうえで、「では反対派がこだわる条件とは何か?」を考えていくのがこの連載の「論点」となります。これから、多くの「条件」について論点としてあげていきますが、ここではまず「余命要件」と「疾病要件」について考えてみましょう。
 まず「余命要件」とは、安楽死制度を運用する上で「余命○○か月以内と医師から診断されたものに限る」という要件を設けるか否か、という論点です。余命要件を設ければ、例えば死期が迫った患者に対し、十分な緩和ケアを行ったとしても苦痛が緩和できない際に安楽死を行うという選択肢が生まれることになります。一方で、神経難病や認知症のように、身体的・精神的機能が十分ではなくなった後も余命が長く続くことが多い疾患の場合は、この余命要件が設けられてしまうと安楽死制度の対象から、その死期が迫るまでは除外されてしまうことになります。精神疾患による安楽死制度適応も当然のように除外されます。余命要件の設定は、安楽死制度を運用するにあたり、その対象者を大きく絞ることになる一方で、「本当は死を望んでいない患者を死に追いやることになる」といった、よくある反対理論を封じ込めることに寄与するといえます。つまり、この余命要件があることによって、まだ十分に生きる時間がある人を、安楽死制度の濫用から守る、という意味合いを持っているということです。
 また、「疾病要件」とは安楽死制度を適応する疾患を、いくつかに特定してしまう、という論点です。この意図するところは、「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」で取り上げた、緩和ケアがどの程度いきわたっているかによって安楽死制度を適用しても安全かどうかを判断する、という意図があります。日本国内において、少なくとも現状では「がん」と「非がん疾患」に対する緩和ケアリソースは大きな差があります。「がん対策基本法」に基づき、20年近く緩和ケアの充実に取り組まれてきたがん領域は、マンパワー的にも社会制度的にも他疾患の終末期ケアより数歩は進んだ仕組みが構築されています。こういった状況の中で、疾病要件を設けずに安楽死制度を運用してしまえば、結果的に「緩和ケアが不十分であるがために苦痛が取り除かれず、結果的に安楽死制度で死を早めてしまう」事例が多発する懸念があるということです。それであれば、国内で比較的緩和ケアリソースが充実しているがん領域でのみ、安楽死制度の運用をスタートしてみて、そこでの課題の洗い出しや手順の確認などを行っていくことで、将来的に他の疾患へも対象を広げていくべきではないか、という考え方があってもよいと思います。この疾病要件も、対象となる人を絞ることによって、反対派の当事者となる方を減らすことに寄与するでしょう。


では次の章では、この余命要件と疾病要件を設けることにどのような利点があり、逆にどのような問題点があるのかを洗い出していこうと思います。


https://note.com/tnishi1/n/n59fd518cb0d9

2022年9月28日水曜日

月間医療費1千万円以上、過去最多の延べ1517人…高額医薬品の相次ぐ登場で急増

2021年度に1か月の医療費が1000万円以上かかった人は延べ1517人で、過去最多を更新したとの調査結果を健康保険組合連合会(健保連)が発表した。5年前の16年度(延べ484人)から3倍に急増しており、高額な医薬品の相次ぐ登場が影響したとみられる。 健康保険組合には大企業の社員や家族らが加入している。全国に約1400組合あり、加入者数は計約2900万人。健保連は、加入者の1か月の医療費を、診療報酬明細書(レセプト)を用いて分析した。 その結果、1000万円以上かかった人は延べ1517人で、うち162人が2000万円以上だった。 最高額は1億6852万円で、7人が1億円を超えていた。いずれも、全身の筋力が徐々に衰える難病「脊髄性筋萎縮(いしゅく)症」の患者で、20年に登場した治療薬「ゾルゲンスマ」を使っていた。 上位100人のうち48人が、19年に登場した白血病などの治療薬「キムリア」を使用していた。 これらの金額は治療にかかった医療費の全額で、患者の自己負担は、国の高額療養費制度などを使い、数十万円以下になることが多い。残りは健保組合が賄う。 健保連は「画期的な薬に医療費を使うことは必要だが、このまま高騰の一途をたどると、公的医療保険の維持は困難になる。制度見直しの議論を進める必要がある」としている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/955318e4d8f54b8ac66643207bd18247d742c94f

2022年9月4日日曜日

安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素~安楽死制度を議論するための手引き02(第4部)

安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素~安楽死制度を議論するための手引き02(第4部)

西智弘(Tomohiro Nishi)
2022年9月3日 08:00 

論点:患者の自己決定権は、十分に保護されているといえるか?

 さて、今回は「患者の権利法」について。

 僕が前回までお話していた、「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」。覚えていますか?


①緩和ケアの発展と均てん化
②医療の民主化
③患者の権利法

でしたね。今日はいよいよその最後になります。

「患者の自己決定権」は保証されているか

 僕は、前回の「医療の民主化」の項で、安楽死制度が運用されるようになるためには、最低限、国民全体における自己主導型知性の獲得が必要、という話をしました。
 いま安楽死制度が始まってしまったら、よく批判される日本民族の特徴「同調圧力」によって、本来死を選択するつもりがなかった人が、死に追いやられてしまうおそれがある。そうならないよう、周囲の意見や状況に関わらず、患者自身が自らの生き方を主体的に決めていくことが当たり前という知性を獲得していく必要がある、ということです。
 しかし一方で、そのように患者が「自らの生き方を自ら決める」ことが当たり前になったとしても、その決定を誰が守ってくれるのでしょうか?現時点では、患者本人の決定を法的に保護するものは存在しないのです。
 もちろん、憲法第13条に「個人の尊重と公共の福祉」が掲げられ、「すべて国民は、個人として尊重される」とされているので、一般的に医療現場においても患者の自己決定権は尊重されるべきものとされているのは事実です。

 しかし、現場では往々にして
「患者であるあなたが希望しても、そのような治療方針は医師の私は受け入れかねます」

「1分1秒でも長く生きるのが家族の願いなの。お願いだから先生の言うこと聞いて?」
など、医師や家族などの周囲がいとも簡単に患者の自己決定を覆そうと試みてきます。そこではまるで、「患者の自己決定」と「正当な医療行為」そして「家族の感情」が同等の重さを持つもののように天秤にかけられているのです。仮にその秤の決定によって、「正当な医療行為」が「患者の自己決定」をくじいたとしても、罰則も何もありません。つまり、患者の「安楽死を求める」意思についても、医師や家族が容易に侵害できてしまうのです。

 患者の「権利」の歴史の前には、医師をはじめとする医療従事者の「義務」の長い歴史があった。これは、いわゆる「ヒポクラテスの誓い」として古代から連綿と受け継がれてきた伝統的なものであるが、ここで想定されているのは、病人やけが人に医師たちが医療を提供する「義務」であり、患者の側の「権利」ではない。「義務」が行き過ぎると、結果的にパターナリズムに陥ることにもなり、患者の「権利」とは真っ向から対立することもあり得る。

林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006. 

 この状況を打破するために必要なのが「患者の権利法」です。どのような医療を受けるかについての決定権は、拒否する権利を含めて、患者に帰属するものとして保障されなければならないことを法的に保証する必要があるのです。
 そもそも、「患者の権利法」はすでに様々な形で世界各国で制定されています。代表的なものとしては、スウェーデンの保健医療サービス信頼委員会法(1980年)、フィンランドの患者傷害法(1986年)、イギリスの保健記録アクセス法(1990年)など。1991年には、イギリスにて最初の患者憲章が制定され、1992年には初めての独立した患者の権利法がフィンランドで誕生しており、その後もアイスランド、デンマーク、ノルウエーなど各国で、患者の権利法の制定が続いてきています。
 この流れを受けて、日本では1984年に患者の権利宣言全国起草委員会による「患者の権利宣言案」、1990年に日本医師会による「『説明と同意』についての報告」、1991年に日本生活協同組合連合会医療部会が「患者の権利章典」、また患者の権利法をつくる会が「患者の諸権利を定める法律要綱案」を取りまとめました。そして、ついに1997年には医療法が改正され、「医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」、つまり「インフォームドコンセント」が法的に明文化されたのです。

 しかし未だ、日本においては「患者の権利法」は成立していません。2010年に、日本医師会医事法関係検討委員会がその答申として「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」を取りまとめ、公表されていますが、この中では「患者の権利法」ではなく「医療基本法」の制定をまず目指すべきとされています。


医療における原則を定めた法規範として、いわゆる「患者の権利法」を制定すべきであるとの議論も根強く存在する。本委員会としても、患者が医療を受ける際に行使しうる一定の権利を有していることに異論を挟むものではないが、一方当事者の「権利」のみを規定した法律を制定することは、法政策としての均衡を失し、かえって医師・患者間の信頼関係に悪影響を及ぼすことが懸念される。真に豊かな医療を実現するためには、まず医療の理念、医療政策の哲学を明確にしたうえで、関係者の権利と義務・責務について、その基本原則を提示するという法のあり方が望ましいものと考える。


「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」


 そして、医療基本法とは規範を示すための法であり、罰則規定を設ける性質のものではないことも示されています。

 皆さんは、この答申を読んでどのように感じるでしょうか?先ほど僕が、引用した一節、

患者の「権利」の歴史の前には、医師をはじめとする医療従事者の「義務」の長い歴史があった。

林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006.

その意味を?
 これもまた、ひとつの論点になるところだと思います。
 僕なりの見解を示すことを、ここではあえてしませんが、引用した林かおりさんの文章がその後、どう続くのかをお示ししてこの章を終えるとしましょう。


「医療を提供する『義務』」は、やがて「医療を受ける『権利』」へ、「秘密を守る『義務』」は「秘密を守られる『権利』」へと読み替えられるようになった。こうした「医師の『義務』」から「患者の『権利』」への読み替えが社会全体に認知されていく過程が、患者の権利の全体の歴史の流れといえる。


林かおり. ヨーロッパにおける患者の権利法. 外国の立法, 2006.


ポジティブ・リストとネガティブ・リスト

「患者をめぐる法的諸問題について-医療基本法のあり方を中心として」において、患者の権利法ではなく医療基本法の制定を目指す理由のひとつとして、当事者(患者)の権利のみを規定した法律を作ることへの危惧が示されているのはなぜなのでしょうか。

 同文の中に、その一端が垣間見える記述があります。「2『患者』に関する法的考察」の中、「(4)患者を中心とした医療を実現するための筋道」において、患者の権利は保護されるべきであると述べる一方で、患者の責務についてこれまで十分に議論されてこなかったと指摘しています。

 つまり、
「治療、療養にあたり医師の療養上の指導、指示に従うこと」
「診療料金を支払うこと」
「急変時を除き、受診の際は、医療機関が定める診療時間、予約システム等に従うこと」
「自ら摂生を心がけ、常に自身の健康状態に関心を払うこと」
(いずれも原文ママ)
などについては、患者が最低限守るべきルールとして当然に承認されるべきである、としているのです。
 そして、続く文章でこれらルールを超える過度な要求を患者側から受ける懸念が示され、それがゆえに

「患者側の権利を法的に(一方的に)擁護する法制定は均衡を崩す」おそれが示されているように読めます。

 これは、安楽死制度の運用に対しても大きな影響を与える懸念といえます。
 もし、患者の権利法に基づき、安楽死制度の利用を患者側が欲したとき、その自己決定権が一方的に擁護される状況では、医師側がその要求を拒否できる根拠が失われてしまいます。つまり、診察室において患者が「いまこの場で安楽死を施してほしい」と請求した場合、医師側にそれを拒否する根拠が無いばかりか、法に基づき罰を与えられる可能性もあるということです。

 では、海外においてはこの課題をどのように解決しているのでしょうか?
 例えば、オランダでは独立した「患者の権利法」は無く「医療契約法(民法・契約法の一部)」がその役割を担っていますが、その運用においてポジティブ・リストとネガティブ・リストでは扱いが異なるとされています。
 ポジティブ・リストとはつまり「患者側から医師側に『○○をしてほしい』とする行為」のこと。それに対しネガティブ・リストとは「患者側から医師側に『○○はしないでほしい』とする行為」です。そしてオランダでは、ネガティブ・リストについては必ず守らなければならない義務が医師に求められますが、ポジティブ・リストについては医師側に拒否権が認められています。

 具体的に例を挙げると、患者側が標準治療外の抗がん剤治療を行ってくれ、と依頼しても医師は断ることができますが、逆にその患者に対し医師が標準的抗がん剤治療を強制することもできない、という構図です。これは、一見すると現在の日本でも普通に行われていることではないか?と思えるかもしれませんが、実際の医療現場においては「患者が望まない医療行為」が横行している現状は多々あります。例えば、意識はしっかりしているが体が動かない病状の患者に対し、患者が「もうこんな状態で生きている意味はない。胃瘻からの栄養を止めてほしい」と望んだとしても、医師や家族は「栄養を取らなければ死んでしまう。あなたの命を守ることが最優先」などと言って胃瘻栄養を継続するでしょう。日本の現行の法律では、このような医療行為を行ったとしても罰せられることはありませんが、オランダなら明確な法律違反とされるということです。「患者の権利法」の議論をしていく中で、まず最低限ネガティブ・リストが尊重されることを当たり前としていく必要があります。

 日本において、この「患者の権利法」を成立させ、患者の自己決定権に法的根拠を持たせることは安楽死制度を運用する上で重要です。先に述べたように、患者の生き方を示す意志に対し、医師や家族などの他人が簡単に侵害できてしまう現状では制度を安定的に運用できません。
 また、「患者の権利法」を制定していくための議論は、医療の主役は医療者でも、また家族でもなく、患者本人であるのだという意識を広く国民の中に育てることにもつながります。この「人権を求める運動」の先に「安楽死制度を求める運動」があると僕は考えています。

 次回は、ちょっと各論をはさみます。本当は総論的なことでもう少しテーマにしたいこともあるのですが、話の流れ的に「余命要件」と「疾病要件」の話をした方がスムーズなので。次回もぜひお楽しみに。



2022年8月20日土曜日

安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素~安楽死制度を議論するための手引き02(第3部)

論点:日本社会は、安楽死制度を運用できるほど「成熟」していないのではないか?
 前回までの論点は、

安楽死制度は必要性があることは事実。考えるべきは「どう運用するか」「いつ制度化可能か」

 それに対し、僕が示した大前提は「まず全国において(ある程度のレベルで)緩和ケアが発展し、均てん化することが大前提、といった話をしてきました。


 少し時間が開いてしまったので、僕が挙げた「安楽死制度を求めるために必要な3つの要素」を振り返っておこう。

①緩和ケアの発展と均てん化
②医療の民主化
③患者の権利法

 このうち、①をこれまで解説してきたわけですが、ここからは②、③について。②と③は連続した話なので、一気にお話していきます(ただ、稿は分かれますが・・・)。

②医療の民主化
 いま、世界的には「⽣⽼病死にかかわる問題を医療者から地域住⺠の⼿に取り戻そう」という流れがスタンダードになっています。

 1970~80年代の欧米圏において、「健康は医師や専門職の⼿のなかにあるのではなく、すべての人の責任である」というNew Public Healthの考え方が提唱されると、市民運動として広がっていき、自分たちの暮らす地域を自らの責任をもって支え合っていこうという活動が増えていきました。
 また、 医療社会学者のAllan Kellehearが「人間が受ける苦痛のうち、診察室の中で解決できる問題は5%に過ぎない。残り95%は全て生活の中で生じる」と述べたように、病の体験とその苦痛は病院や医師だけで解決できる問題ではない、という考え方は緩和ケアの分野にも影響を与えてきました。
 つまり、ブログの登場によって「出版の民主化」が起こったように、仮想通貨の登場によって「金融の民主化」が起こったように、医療分野もまた医師たちが独占してきたその情報と決定権を、市民たちの手に解放されることによって「医療の民主化」が起こってきたといえるのです。


安楽死制度を求めるためには、「医療の民主化」が前提となります。想像してもらったら分かるかと思いますが、これまでのように「医師が医療に関する情報と決定権を独占している世界」において、安楽死制度を適切に運用することは可能でしょうか? もちろん、こころある医師に当たれば、安楽死制度も含めてあらゆる選択肢を検討し、患者にとって最適な解を「選んでくれる」かもしれません。しかし一方で、「親ガチャ」ならぬ「医者ガチャ」によって外れを引いてしまった患者にとっては、望まない安楽死、または望まない生の強要、どちらもやはり「選ばれて」しまいますし、それに逆らえないよう、持っている情報の非対称性を利用されて巧みに説得される可能性だってあるわけです。そのような状況では、安定して安楽死制度を運用できるとは言い難いでしょう。
 医師が医療情報と方針決定権を独占する社会から、患者自身が主体となる社会へ。医師や書籍、ネットなどから医療情報の提供と選択肢の提示を受けながら、自らの行き方と照らし合わせて自ら方針を決定していく。それが「医療の民主化」が実現した社会と言えます。

 では、現在の日本ではどうでしょう?この「医療の民主化」は実現している、といえるでしょうか?

成人の発達段階にはまだ先がある
 僕が以前、ある「安楽死制度を考える」会合に出席した際、同席していた社会学者の方が興味深い表現を用いていました。
「私たちの社会は、いずれ成長して、安楽死制度を『獲得できるくらい成熟』する」
一言一句は異なりますが、このようなニュアンスで語られていました。僕はここで「獲得」という言葉が使われたのが興味深かったのです。ちなみに、その社会学者も、現時点での安楽死制度の実現には反対という立場でした。つまり、彼の言葉を反対にすると「現在の日本は、安楽死制度を獲得できるほどに成熟していない」となります。
 では、どういった部分において僕たちの社会は「成熟していない」といえるのでしょう。

皆さんは「成人発達理論」をご存知でしょうか。
 今では、大人になってからも知性や考え方が成長を続けるというのは当たり前の考え方になってきていますが、1980年代以前は「大人になってしまったら、心は成長しない」と、成人の発達を疑問視する考えが常識だったのです。
 しかし、ハーバード大学教授で組織心理学者であるRobert Keganらの研究によって「人は生涯を通して成長し続ける存在である」という見解が常識となっていったのです。

 この成人の発達理論は、今日の日本においてはリーダーシップ論やビジネス書などで取り上げられることが多いのですが、ここで僕が着目したいのは、「成長には段階がある」の部分です。
 Keganらによる「知性の発達の3段階」として、
①環境順応型知性
②自己主導型知性
③自己変容型知性
があることが、その著書『なぜ人と組織は変われないのか』で紹介されています。

 それぞれを簡潔に説明すると
①環境順応型知性:これは、自らが周囲からどのように見られ、何を期待されているかによって自己が形成される段階とされています。つまり「忠実な部下」のイメージであり、もちろんこの知性は集団で行動する際に結束して動きやすいというメリットもあるものの、「他の人と足並みを揃えよう」「上の人の良いようにしてもらおう」となって、集団全体での浅い思考になりがちといえます。
 日本を含むアジア圏では、この集団思考に依る判断をする面が大きく、よって「日本は全体として環境順応型知性の段階にとどまっている」という指摘もあります。

 それに対して
②自己主導型知性:この段階になると、自分自身の中に「軸」となる判断基準を確立し、周囲の状況を判断して自ら選択を行えるようになります。つまり、この段階にまで発達すれば、「みんなはそう言っているけど、私はこちらが正しいと思う」と、自律的に行動ができるようになっていくということです。
 一見すると良さそうに思えるこの段階ですが、限界もあります。それは「自分の考えは正しい」と、その「軸」に固執する場合が多くみられる点。昨今のSNSなどで、よく見かけますよね。確立した自己「軸」が、世間一般的に誤りだとしても「間違っているのはそちらだ」と耳を傾けない。また一時的には真理であったとしても年月を経るごとに時代遅れになり、変化が必要なのにそれを受け入れない。
 本来であれば自己がコントロールする「軸」に、意識全てが支配されるようになってしまう・・・それが自己主導型知性の限界とされています。

③自己変容型知性:この段階になると、「世の中に100%絶対に正しいことなどない」と理解し、反対意見や矛盾を受け入れて自らの「軸」を変容させることができるようになります。これはつまり、自らの判断基準は確立しているものの、同時に「自らも不完全な存在である」ことを受け入れ、変化し続けることを厭わない知性といえます。
 ある時期には「正しい」とされていたことでも、数年たって時代遅れになれば、新しい価値観にアップデートすることに躊躇がありません。それは、自らを客観的に見つめ続ける視点があることと同義といえます。

 安楽死制度を運用していくためには、少なくとも国民の多くが②自己主導型知性の段階まで獲得していることが必要となります。それがつまり「医療の民主化」につながるわけです。
 先に述べたように、日本では未だ①環境順応型知性を行動規範としている面が多々見られます。日本古来の文化や教育が、①の知性を持つ人間を大量に養成する方が良しとしてきた影響もあるのでしょう。近年では、若い世代を中心に徐々に変化してきている面もありますが、「医療の民主化」を実現できるほど成熟しているとは言い難いのが現状です。
 もちろん、アジア文化圏においてはそのようなあり方を社会が選んできた歴史があるわけで、それを急に変化させていくことは孤立や分断を強めてしまう側面も危惧されます。ただ、日本において②~③の知性を良しとする流れが育ってきていることも事実で、外来で診療していると「医師の在り方は成長していないのに、患者側の自律性は変化した」と感じる場面が多々感じられるようになってきました。その意味で、「医療の民主化」は徐々に進んできているといえますが、安楽死制度を運用できるほどの域に達するためには教育や啓発といった取り組みを加速させていく必要があるといえます。

 しかし、「医療の民主化」が進んで、国民が自ら「軸」となる判断基準を持ち、医療者からの情報や助言を受けながら自らの生きる道を選んでいくことができるようになったとしても、本人の決定に医師や家族が異を唱え、方針を曲げさせることが往々にして発生する恐れがあります。
 そこで、その「本人の意思」を守るために「患者の権利法」の制定がまず必要ではないか、というのが次の論点となります。

https://note.com/tnishi1/n/nd95be32b8db5

2022年7月26日火曜日

「なぜ優里を止めなかった」…京都・ALS嘱託殺人の医師逮捕から2年 父、法廷で直接問う覚悟

「なぜ優里を止めなかった」…京都・ALS嘱託殺人の医師逮捕から2年 父、法廷で直接問う覚悟

20歳代の頃、海外を訪れた優里さん=父親提供
20歳代の頃、海外を訪れた優里さん=父親提供

■ 親子の思い出

 「どうしても片付けられないね」。父親は今月21日夜、京都市の自宅の一室でつぶやいた。優里さんは2011年頃に発症。父親の負担を考えて数年後に近くのマンションで在宅介護を受けながら一人暮らしを始めるまで使っていたベッドやタンス、ピアノが、部屋に当時のまま残る。

 部屋の片隅には、古びた打楽器が置かれている。

 父親は01年夏、優里さんに連れられ、米ニューヨークを10日間旅した。2人で立ち寄ったカレー店で生演奏されていた太鼓のような打楽器の音色に、優里さんは気持ちよさそうに耳を傾けていた。直後によく似たものを購入し、帰国後も自宅でたたいていたという。

 表面が劣化して今では使える状態にないが、捨てるつもりはない。「最初で最後の2人きりで行った海外旅行の思い出だからね」

 父親は今、この部屋を寝室にしている。時折、ベッドに腰掛けて、優里さんが幼かった頃の写真をとじたアルバムをめくりながら、いとおしさを募らせる。

■ 難病患者の支援を

 優里さんは発症の約7年後からブログに「安楽死」を望む思いを投稿するようになった。その後、SNSで知り合った医師の大久保 愉一よしかず 被告(44)に殺害を依頼したとみられ、大久保被告と山本直樹被告(45)(昨年に医師免許取り消し)は19年11月30日に優里さん方で薬物を投与して殺害したとして、嘱託殺人容疑で逮捕、起訴された。


 2人は昨年6月、山本被告の父親(当時77歳)への殺人罪でも起訴された。現在、争点を事前に整理する公判前整理手続きが京都地裁で行われているが、公判日程は決まっていない。


 父親は被害者参加制度を使って出廷することも考えており、「命を守るべき立場なのに、なぜ止めてくれなかったのか。患者に寄り添う意味をはき違えているのではないか」と話す。


 事件を機に難病患者への社会的な関心が高まった。父親は「患者が『生きていてもしょうがない』と思うことがないようにサポートや理解が広がり、二度と同じことが起こってほしくない」と力を込めた。


筋萎縮性側索硬化症(ALS)  全身の筋肉が徐々に衰える進行性の難病。手足や口から動きにくくなり、最終的に呼吸困難になる。原因は不明で、根本的な治療法は見つかっていない。国内の患者数は1万514人(2020年度末時点)。

https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20220725-OYO1T50005/

陳情書素案の文章をclaudeで整理してみました。

こちらのブログで紹介していた陳情書素案の文章をclaudeで整理してみました。 社会的弱者目線の包括的で徹底的な保護政策であることが読み取れると思います。 原文と合わせてご確認いただけると嬉しいです。 〈原文〉https://shinokenri.blogspot.com/202...